「後漢書」鮮卑伝に「倭人国」という国が出てくるが、アムール河流域にあった「縄文国」をさすのだろう。
その地域を支配していたのは「東胡」という民族が住み、
匈奴に貢ぎ物を要求するだけ強大な民族であったが、やがて匈奴により滅ぼされ、「匈奴帝国」の版図は東に日本海を望む沿海州、西は天山山脈に至る広大な世界帝国になった。
この時から「倭人国」の有るアムール河流域も「匈奴帝国」の領域に組み込まれ、「倭人国」も匈奴の一員になったと思われる。
この「倭人国」に、日本列島の「倭国」から大量の縄文人が移動してくる。
紀元前三世紀頃、大陸からやって来た弥生人が北九州に次々に上陸し、原野を開墾して米を作り、やがて狩猟民であった縄文人が北に南に追い詰められ、(高知県から弥生人に虐殺された縄文人の遺骨が出土している)追い出された。
北に逃げた末裔が今のアイヌ民族で、南に逃げたのが沖縄方面の人たちと言われ、双方の顔の彫が深いという
身体的特徴を持っている。
東北・北海道に住んでいた蝦夷(えみし)はアイヌ民族の祖先だと言われ、大和朝廷による蝦夷征伐は繰り返し行われているし、決して平和的な関係ではなかった。
縄文時代の終わりと言う時期は、日本列島だけではなく、東アジアにも大動乱の時代であった。
紀元前221年、秦の始皇帝による中国全土が統一されたが、秦の平定作戦がおびただしい数の難民を生みだした。
長江流域の稲作地帯に住んでいた人々は、インドシナ半島、雲南省方面、或いは朝鮮半島、日本列島に安住の地を求めた。
戦乱は長期にわたり、「後漢書」倭伝には「倭国大乱」と記され、146年から189年まで、40年以上も続く大戦争が縄文人対弥生人の対立があった。
アムール河流域に逃れ「倭人国」を創った縄文人も安住の地ではなかった。
「匈奴帝国」を打ち破り、新たに「鮮卑」が勃興し「倭人国」も服従させた。
鮮卑に追われた匈奴はアジア大陸を西へと大移動を始めた。
その中に匈奴帝国を構成した「倭人国」の縄文人も居たと思われる。
匈奴やフン族の王墓から発掘されているが、そこには意外にも草原的でない文化、つまり「ツングース的」「縄文的」「漁労的」としか言いようの無い痕跡を残している。
それらの痕跡から推測するに、匈奴に追従したのではなく、中心的な存在であったようだ。
再び歴史の表舞台に登場するのは、アムール河の「倭人国」滅亡から200年を経た374年の事、彼らは怒濤の如くヴォルガ河を越えた。
彼等がフン族の名で呼ばれようになったのはこの時からで、それはゲルマン民族大移動の始まりでもあった。
フン族が安住の地に定めたのがハンガリーで、ドナウ河が流れていて、匈奴の地と同じ地理環境でようやく収まった。
大河に始まり大河で終わった大移動には、漁労民族の介在を想起させる。
彼等はここにアジア国家「フン帝国」を築く。
ハンガリーが今も「ヨーロッパにできたアジアの孤島」と呼ばれているのはこの為である。
明治4年蒸気外輪船が横浜港を出港しサンフランシスコに向った。
船上には岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文等の大使節団が乗っておりました。
アメリカからイギリス、ヨーロッパの12カ国を歴訪し、近代国家デザインを描き出すヒントを得る為の1年10ヶ月の旅であったが、他にもう1カ国訪問しようとしていて実現できなかった国があり、それは「匈奴の遺裔にて、匈加利(はんがりー)人と称するものなり」と記されているハンガリーであった。
「匈加利は、元蒙古(もんごり)庵(あん)の一種なる。匈奴人の国にて、其の地積の広さは、ほぼ我が日本に比し、人口の数は半に及ばず欧州の東僻にあり、其の流風遺俗、
みな欧人に同じからず、衣服奇古にて、容貌野朴なり」「旧習の夢を破り、忽然として開化に進歩せんと欲する。その情態を察するに、はなはだ日本の近況に似たり」。
国家の制度のすべてを学ぶ為派遣された使節団にとって、ヨーロッパにアジア出身の国家が存在している事が驚きだったのだろう。
その後ハンガリー・ツラン民族同盟から日本に寄せられた「日本国民に訴う」という激文が送られている。
「われわれハンガリー人は過去一千年来、中央ヨーロッパのカールパート盆地に生活しているものの、その魂と自覚においては常にアジア人であった。コノアジア魂を我々の誇りとする洪牙利(はんがりー)ツラン民族運動団体の名において、私は、我々の常に敬慕して止まぬ極東の兄弟民族たる大日本国民に訴える」と始めに書かれている。
その地域を支配していたのは「東胡」という民族が住み、
匈奴に貢ぎ物を要求するだけ強大な民族であったが、やがて匈奴により滅ぼされ、「匈奴帝国」の版図は東に日本海を望む沿海州、西は天山山脈に至る広大な世界帝国になった。
この時から「倭人国」の有るアムール河流域も「匈奴帝国」の領域に組み込まれ、「倭人国」も匈奴の一員になったと思われる。
この「倭人国」に、日本列島の「倭国」から大量の縄文人が移動してくる。
紀元前三世紀頃、大陸からやって来た弥生人が北九州に次々に上陸し、原野を開墾して米を作り、やがて狩猟民であった縄文人が北に南に追い詰められ、(高知県から弥生人に虐殺された縄文人の遺骨が出土している)追い出された。
北に逃げた末裔が今のアイヌ民族で、南に逃げたのが沖縄方面の人たちと言われ、双方の顔の彫が深いという
身体的特徴を持っている。
東北・北海道に住んでいた蝦夷(えみし)はアイヌ民族の祖先だと言われ、大和朝廷による蝦夷征伐は繰り返し行われているし、決して平和的な関係ではなかった。
縄文時代の終わりと言う時期は、日本列島だけではなく、東アジアにも大動乱の時代であった。
紀元前221年、秦の始皇帝による中国全土が統一されたが、秦の平定作戦がおびただしい数の難民を生みだした。
長江流域の稲作地帯に住んでいた人々は、インドシナ半島、雲南省方面、或いは朝鮮半島、日本列島に安住の地を求めた。
戦乱は長期にわたり、「後漢書」倭伝には「倭国大乱」と記され、146年から189年まで、40年以上も続く大戦争が縄文人対弥生人の対立があった。
アムール河流域に逃れ「倭人国」を創った縄文人も安住の地ではなかった。
「匈奴帝国」を打ち破り、新たに「鮮卑」が勃興し「倭人国」も服従させた。
鮮卑に追われた匈奴はアジア大陸を西へと大移動を始めた。
その中に匈奴帝国を構成した「倭人国」の縄文人も居たと思われる。
匈奴やフン族の王墓から発掘されているが、そこには意外にも草原的でない文化、つまり「ツングース的」「縄文的」「漁労的」としか言いようの無い痕跡を残している。
それらの痕跡から推測するに、匈奴に追従したのではなく、中心的な存在であったようだ。
再び歴史の表舞台に登場するのは、アムール河の「倭人国」滅亡から200年を経た374年の事、彼らは怒濤の如くヴォルガ河を越えた。
彼等がフン族の名で呼ばれようになったのはこの時からで、それはゲルマン民族大移動の始まりでもあった。
フン族が安住の地に定めたのがハンガリーで、ドナウ河が流れていて、匈奴の地と同じ地理環境でようやく収まった。
大河に始まり大河で終わった大移動には、漁労民族の介在を想起させる。
彼等はここにアジア国家「フン帝国」を築く。
ハンガリーが今も「ヨーロッパにできたアジアの孤島」と呼ばれているのはこの為である。
明治4年蒸気外輪船が横浜港を出港しサンフランシスコに向った。
船上には岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文等の大使節団が乗っておりました。
アメリカからイギリス、ヨーロッパの12カ国を歴訪し、近代国家デザインを描き出すヒントを得る為の1年10ヶ月の旅であったが、他にもう1カ国訪問しようとしていて実現できなかった国があり、それは「匈奴の遺裔にて、匈加利(はんがりー)人と称するものなり」と記されているハンガリーであった。
「匈加利は、元蒙古(もんごり)庵(あん)の一種なる。匈奴人の国にて、其の地積の広さは、ほぼ我が日本に比し、人口の数は半に及ばず欧州の東僻にあり、其の流風遺俗、
みな欧人に同じからず、衣服奇古にて、容貌野朴なり」「旧習の夢を破り、忽然として開化に進歩せんと欲する。その情態を察するに、はなはだ日本の近況に似たり」。
国家の制度のすべてを学ぶ為派遣された使節団にとって、ヨーロッパにアジア出身の国家が存在している事が驚きだったのだろう。
その後ハンガリー・ツラン民族同盟から日本に寄せられた「日本国民に訴う」という激文が送られている。
「われわれハンガリー人は過去一千年来、中央ヨーロッパのカールパート盆地に生活しているものの、その魂と自覚においては常にアジア人であった。コノアジア魂を我々の誇りとする洪牙利(はんがりー)ツラン民族運動団体の名において、私は、我々の常に敬慕して止まぬ極東の兄弟民族たる大日本国民に訴える」と始めに書かれている。
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