よど号犯人の遺物 2008/7/17
ペルー・アヤクーチョの哲学科教授アビマエル・グスマン率いる強盗集団「センデロ・ルミノソ」の手法は決まっていた。
目標の村を包囲し夜明けとともに急襲、制圧する。
村人を広場に集め、村長を引き据えて村人を搾取した罪で死刑を宣告する。
処刑はまず若い兵士に村長の足や腹を撃たせる。度胸をつけさせるための訓練で、最後に小隊長格が止めを撃ち込む。
凄絶な処刑にすくむ村人に毎年の「革命税」の徴収を通告する。
そうした村で支払いを拒否する者はなかった。
フジモリが登場して一昧への摘発が厳しくなると報復にワラルにあったJICAの農業センターが襲われ、日本人スタッフ三人が研修員の前で処刑された。
止めは女の指揮官がさしたという。
一味は革命税の徴収のほか、ときに襲った村の女を連れ去ることもあった。
女は革命基地と彼らが呼ぶアジトに入れられ、兵士に抱かれて次代の革命戦士を産まされた。
好き放題を続けた彼らもフジモリを怒らせたのが失敗だった。JICA事件の翌年、グスマンはリマで逮捕される。
彼は部下に残忍な革命ごっこをやらせておいて自分は優雅にも隠れアジトで女と酒に耽る甘い生活を送っていた。
それが暴かれてあほらしくなった七千人の部下が投降し、囚われた「女性数百人が救出された」とエル・コメルシオ紙が報じた。
グスマンは、「村長を殺す」手法は毛沢東に倣ったと供述している。
石平の『中国大虐殺史』にはそれが「一人一焼一殺」と呼ばれたとある。
まず夜明けとともに村を襲い村長の財産を略奪したうえで火を放つ。
集めた村民の前で村長を裁き「銃で頭を吹き飛ばして」処刑する。
村長の田畑は小作人に分配し、小作料は革命税として納めさせる、という手順だと説明している。
ただ毛は「一殺」にはこだわらなかった。搾取者つまり金持ちが多ければその分、殺しも増える。江西省吉安では四十五日間で一万人を殺している。
形は搾取する者を処罰し、弱い小作人を助けるという共産革命風だが、この一村一殺は敵対する蒋介石の軍もやっていた。
蒋の軍隊がこれを組織的にやったのは毛に追われて台湾に移ったあとだ。
彼らはまず台北で知識人を皆殺しにする「2・28」事件を起こした。 標的は日本統治時代に司法、行政などを学んだ人たち。毛沢東が後に文化大革命で知識階層を抹殺していくのはこの蒋の手法と相通じるものがある。
これと同時に「地方に出かけては一村一殺をやった」(黄文雄)。
蒋の軍は二十万人の台湾人を殺しているが、問題はなぜ彼が毛と同じ手法を取ったか。
別に共産革命をやろうとしたわけではなく、「だれが新しい支配者か」を村々に教えこむ支那の伝統的手法と言われる。サル山の新しいボスが古いボスを叩きのめし、その子を殺し回るのとそう差はない。
グスマンもこの部分を見倣った。共産思想も人民解放も関係なかった。
では女をさらって次代の戦士を産ませる方式はだれに学んだか。
諸説あって、ポルトガルの植民地経営に学んだ、がその一つ。原住民の女に産ませた混血児を植民地防衛の兵士にする。東テイモールのラモス・ホルタ大統領などはその例になる。
もう一つがよど号事件の赤軍派説だ。
彼らは在日の女などを通して日本人女性を北朝鮮に誘いこんでは妻にして産ませた子が十七人。
しかしそれではいかにも少ないから欧州に遊学する日本人男女を騙して北に誘い込み、結婚させて「代を継いだ日本革命」(産経新聞)を目指した。
これがグスマンの拉致作戦に時期的に先行する。
その拉致犯が追い返されてくる。ペルーの盗賊との接点も分かるだろう。
ちなみに彼らの妻子はほぼ帰国済みで、彼らを支援する朝日新聞によると子供二人が早々に「父からの手紙を押収された」ことをネタに国家賠償請求訴訟を起こしたと伝えている。
革命を口実にした金儲けをもう始めている。
ペルー・アヤクーチョの哲学科教授アビマエル・グスマン率いる強盗集団「センデロ・ルミノソ」の手法は決まっていた。
目標の村を包囲し夜明けとともに急襲、制圧する。
村人を広場に集め、村長を引き据えて村人を搾取した罪で死刑を宣告する。
処刑はまず若い兵士に村長の足や腹を撃たせる。度胸をつけさせるための訓練で、最後に小隊長格が止めを撃ち込む。
凄絶な処刑にすくむ村人に毎年の「革命税」の徴収を通告する。
そうした村で支払いを拒否する者はなかった。
フジモリが登場して一昧への摘発が厳しくなると報復にワラルにあったJICAの農業センターが襲われ、日本人スタッフ三人が研修員の前で処刑された。
止めは女の指揮官がさしたという。
一味は革命税の徴収のほか、ときに襲った村の女を連れ去ることもあった。
女は革命基地と彼らが呼ぶアジトに入れられ、兵士に抱かれて次代の革命戦士を産まされた。
好き放題を続けた彼らもフジモリを怒らせたのが失敗だった。JICA事件の翌年、グスマンはリマで逮捕される。
彼は部下に残忍な革命ごっこをやらせておいて自分は優雅にも隠れアジトで女と酒に耽る甘い生活を送っていた。
それが暴かれてあほらしくなった七千人の部下が投降し、囚われた「女性数百人が救出された」とエル・コメルシオ紙が報じた。
グスマンは、「村長を殺す」手法は毛沢東に倣ったと供述している。
石平の『中国大虐殺史』にはそれが「一人一焼一殺」と呼ばれたとある。
まず夜明けとともに村を襲い村長の財産を略奪したうえで火を放つ。
集めた村民の前で村長を裁き「銃で頭を吹き飛ばして」処刑する。
村長の田畑は小作人に分配し、小作料は革命税として納めさせる、という手順だと説明している。
ただ毛は「一殺」にはこだわらなかった。搾取者つまり金持ちが多ければその分、殺しも増える。江西省吉安では四十五日間で一万人を殺している。
形は搾取する者を処罰し、弱い小作人を助けるという共産革命風だが、この一村一殺は敵対する蒋介石の軍もやっていた。
蒋の軍隊がこれを組織的にやったのは毛に追われて台湾に移ったあとだ。
彼らはまず台北で知識人を皆殺しにする「2・28」事件を起こした。 標的は日本統治時代に司法、行政などを学んだ人たち。毛沢東が後に文化大革命で知識階層を抹殺していくのはこの蒋の手法と相通じるものがある。
これと同時に「地方に出かけては一村一殺をやった」(黄文雄)。
蒋の軍は二十万人の台湾人を殺しているが、問題はなぜ彼が毛と同じ手法を取ったか。
別に共産革命をやろうとしたわけではなく、「だれが新しい支配者か」を村々に教えこむ支那の伝統的手法と言われる。サル山の新しいボスが古いボスを叩きのめし、その子を殺し回るのとそう差はない。
グスマンもこの部分を見倣った。共産思想も人民解放も関係なかった。
では女をさらって次代の戦士を産ませる方式はだれに学んだか。
諸説あって、ポルトガルの植民地経営に学んだ、がその一つ。原住民の女に産ませた混血児を植民地防衛の兵士にする。東テイモールのラモス・ホルタ大統領などはその例になる。
もう一つがよど号事件の赤軍派説だ。
彼らは在日の女などを通して日本人女性を北朝鮮に誘いこんでは妻にして産ませた子が十七人。
しかしそれではいかにも少ないから欧州に遊学する日本人男女を騙して北に誘い込み、結婚させて「代を継いだ日本革命」(産経新聞)を目指した。
これがグスマンの拉致作戦に時期的に先行する。
その拉致犯が追い返されてくる。ペルーの盗賊との接点も分かるだろう。
ちなみに彼らの妻子はほぼ帰国済みで、彼らを支援する朝日新聞によると子供二人が早々に「父からの手紙を押収された」ことをネタに国家賠償請求訴訟を起こしたと伝えている。
革命を口実にした金儲けをもう始めている。
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