新井律子建築設計事務所のブログ
大阪・北浜で住宅の設計を中心に仕事をしています
 



4月26日、藤の花を見に、熊野街道沿いの信達宿(しんだちじゅく)に行ってきました。車を近くに止めて街道を歩いていくと満開の藤が建物を覆い被す勢いで咲き誇っています。

 

4万有余の花房だそうです。すばらしい!

「この藤を訪ねる人にやすらぎを 去りゆく人に幸せを」と藤の木を見守ってきた「平成の花咲かじいさん」当主梶本昌弘さんが天寿を全うされてから 今年は6回目の春を迎えたそうです。その後、保存会一同の方々が大切に見守ってきました。感動と元気を頂きました。ありがとうございました。

  上から

紀州街道は、古くは熊野街道とも呼ばれ、信達宿はおよそ900年前頃より、熊野詣の人々で賑わっていました。特に市場村は白河上皇(1053年~1129年)以後、歴代上皇の宿舎(御所)が置かれたところから、信達荘御所村とも呼ばれていました。

200メートル先で「角谷 (つのや)家」が公開されていると聞き、「藤の香り」に別れを告げ、いざ陣屋跡へ。

長屋門が見えてきました。

 

たまたま二十八代目当主・角谷隆さんに説明いただきました。ここは紀州藩の参勤交代の大名行列を泊める最初の宿であったそうです。「大名行列は一日約、10里(40km)程を歩いたと聞いています。大坂、江戸間は、約130里ですから、13日、紀州公は大坂まで、20里程ありますから、 14泊15日で、江戸まで行っていました。」

参勤交代の大名行列の人数は、五十五万石の紀州藩で、約千五百人と、いわれています。そんな大人数ですから、大名行列を泊めるということは、宿場、最大の行事だった様で、御家来衆は数軒あった旅籠も含めて、街道筋の民家に分宿をします。その宿の手配を、抜かりのないようにするのも本陣役で、角谷家は、幕府より二十五石五人扶持を、拝領していましたが、決して高給ではなく、名誉職であったようです。

その頃の宿割が展示されています。屋号と間取りが書かれてあり、泊まった侍の名前が、貼り付けてあります。

 

 紀州の藩札と銀の、両替もしていたそうです。

 勝海舟の自筆。「ちょうしん」と書かれています。

暢という字はのびやかということで、神は、神様では無くて、精神のことです。

  陶器製の和風便器

興味深く、大変勉強になりました。まだまだ知らないことが多いです。

角谷家については参考に

http://www.eonet.ne.jp/~honjin/index.html

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




  晴天に恵まれたなか、早春の風に誘われて、京都市上京区の御所周辺、7カ所(約3キロ)をゆったりと3時間かけての散策を楽しみました。
  丸太町通りの丸太橋西側で集合後、まずは「女紅場(にょこうば)址」碑へ向かいます。「新英学校及び女紅場」は日本最初の女学校として建てられ、八重さんが結婚直前まで舎監兼教師として勤務していた処です。
  次は、1878年ボストンの友人の寄付で建てられた、新島襄旧邸の母屋一階と附属屋の見学です。 

和洋折衷の木造二階建て住宅として、同志社創立者の旧居として1985年(昭和60年)に京都市指定有形文化財に指定されました。内部を見学する前の資料展示室で、参加者は襄と八重の数々の歴史的資料に興味津々で、熱心に見入っていました。母屋1階の内部では、京都で最初の洋式トイレやセントラルヒーティング、八重が使用したオルガン、キッチンなど見所がたくさんありました。
  続いて、京都府立鴨沂(おうき)高等学校へ。 

前身は、八重が教師として勤務した「新英学校及女紅場」です。正門は、旧九条殿河原町邸から移築され、九条家所縁の壮麗さと歴史を感じました。
  次に「松林院旧跡」を見に清浄華院へ。 松林院は会津藩の寄宿地で、幕末には会津藩主で京都守護職を務めた松平容保公が半年ほど逗留したそうです。
  続いて、フレンドピースハウスへ。

 

フレンドピースハウスは同志社大学の宣教医ジョン・C・ペリーの旧自邸で、後には同大学のハワイ寮と使われ、現在は国際親善の施設や会合など多目的に使われています。
  次に、京都御苑。八重さんは御苑内にあった旧柳原邸のディビス宅で洗礼を受け、結婚式を挙げました。八重さんは結婚の翌月から本格的に女子教育を始めましたが、紆余曲折と葛藤があったようです。でも、これが同志社設立の原点になりました。御苑内の近衛邸跡のしだれ桜が見事で、皆で記念撮影を…。

 
  最後は同志社大学を見学。新島襄が「同志社」を創立しましたが、現キャンパスの建設用地を提供し、「同志社」と名付けたのは八重さんの兄・覚馬だと伝えられています。同志社礼拝堂、彰栄館、有終館、ハリス理化学館、クラーク記念館は国の重要文化財にも指定されている、明治の煉瓦造り建築物です。幸運にも新島襄が「同志社の精神」と位置づけた礼拝堂が公開されていて、内部を見学することができました。  
  京の街並みと早春の自然に加えて、「八重の桜」で有名な、新島襄と八重が生きた歴史背景へと想いを馳せられた、大変意義深い一日となりました。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )