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おまけ×4 イギリス「海賊ドレークの活躍」

 「海賊ドレークの活躍」 一部引用編集簡略版

  スペインが”無敵艦隊”をイギリスへ差し向けた当時、イギリス人は海洋勢力として興隆しようとしていたが、スペインが海を支配していた。スペインはとくにアメリカに金銀を豊かに産出する植民地をもち、アメリカとの貿易を独占して、スペイン船にしかアメリカ貿易に従事することを許さなかった。

  イギリスの私掠船(しりゃくせん)がアメリカ貿易に従うスペイン船を頻繁に襲った。私掠船は勅許(勅命による許可)された海賊船であるが、いってみればイギリスはスペインに対して非公式な戦争を戦っていた。それにイギリスはスペインが支配していたネーデルランド(オランダ)の反乱を支援していた。スペインのフェリペ二世はイギリスに侵攻して征服することを決意して、1586年に準備を始めた。
  ところが、翌年の四月にフランシス・ドレーク(1545頃~1596年)が率いる23隻のイギリス艦隊が、カディス港にあったスペイン艦隊を奇襲して33隻を焼き払ったために、イギリスへの侵攻計画が大幅に遅れてしまった。ドレークといえば、海賊として有名だ。

  ドレークはイギリス史で、私(加瀬氏)が会ってみたいと思う一人だ。当時のイギリスの海へ向けたエネルギーを象徴している。ドレークは海水がイギリス人の血潮となった時代のヒーローである。貧しい航海牧師の息子だったが、海賊となって私掠船の大胆な船長として、メキシコ湾でスペイン船を略奪したり、西インド諸島のスペイン植民地を襲撃した。
  ドレークは三十代前後だったが、排水量が百トンの「ペリカン」と二十五トンの「スワン」の二隻と七十三人の乗組員を率いて、カリブ海を荒らし回った。ドレークはあまり背が高くなく、痩せて、赤みがかった金髪に青い目をして、見栄坊で傲慢だったが、すべての行動を細心に計画した。

  スペイン人はドレークを「エル・ドラク」=竜と呼んで、恐れた。千里眼をもっている超人という意味である。
  私掠船はロンドンで出資者を募った。エリザベス一世も、ドレークの出資者の一人だった。

  ドレークは1577年にプリマス港から出発して、世界一周に挑戦した。排水量百トンの旗艦「ペリカン」に乗って、四隻を従えたが、百六十人の乗組員のなかには薬剤師、牧師、靴屋、仕立屋、楽隊までいた。海賊を働いて、殺人や略奪を行ったのにもかかわらず、牧師を乗せていたというのは、そのような行為が良心を咎めなかったことを意味する。ドレークは食事のときには、楽隊に演奏させた。
  ドレークは略奪を繰り返しながら、南アメリカ大陸の南端を回って、イギリス人として初めて太平洋に出た。それまでスペイン人は、太平洋を自分の湖水のようにみなしていた。「太平洋」と名づけたのも、スペイン人だった。そしてドレークはニューギニア島やセレベス島、ジャワ島を訪れて、アフリカの最南端の喜望峰を回って、三年後に帰国することによって、世界一周に成功した最初のイギリス人になった。

  略奪品をいっぱい積んでプリマス港に帰港したのちに、エリザベス一世が乗船して、ドレークにナイトの称号を授けたので、たちまちイギリスの国民的英雄となった。これまでイギリスの女王や国王が授けたなかで、もっとも価値がある「サー」の称号だったといわれる。こののちに、ドレークは私掠船隊を指揮して、再びカリブ海に出てスペイン船を襲った。
 (ちなみに、カズオ・イシグロ(1954年~)も2019年にナイトの爵位を授与されています。関係ない話ですけど創作作家は65歳前後で作品に劣化がみられがちですが、彼の最新作にもそういう劣化が感じられ残念に思いました。投稿者私見です)

参考:加瀬英明著「イギリス 衰亡しない伝統国家」
   加瀬英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長
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