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終章 イギリス「女好きが大国の歴史をかえた」

 「女好きが大国の歴史をかえた」 一部引用編集簡略版

  ヘンリー八世は議会を用いて、イングランドの教会をローマ法王から分離して独立させる立法を、つぎつぎと行わせた。1532年に収入税法を成立させて、それまで教会がローマ法王に収入を上納していたのを国王に納め、イングランドの教会のために使用するように改めた。聖職者も議席を占めていたが、買収されるか、脅迫に屈した。

  1533年には、法王庁に対する上訴を禁じる上告禁止法を成立させて、ローマ法王がイングランドの教会に干渉できなくした。その翌年には、国王を「神のもとで、イギリス国教会の地上唯一の至上の首長」とする国王至上法を立法させた。ヘンリー八世はそうすることによって、ローマ法王に代わってイギリス国教会の法王となった。
  これは社会革命をもたらすとともに、イギリスを大陸からいっそう独自の道を歩ませるのを促した。1536年には群小の修道院を解散させて、修道院が全国に所有していた荘園を中心とする莫大な不動産や、おびただしい金額の宝飾器を王室財産にして没収した。二年後には、大きな修道院もすべて対象となった。これは枯渇していた王室の金庫を大いに潤した。

  ヘンリー八世がローマ法王に対して絶縁状を叩きつけたのは、宗教上の理由からではなかった。色恋沙汰から起こったことだった。最初の妃だったキャサリンと離婚して、女官のアン・ブレーンと結婚しようと強く望んだが、ローマ法王が離婚を認可しなかったからだった。
  ヘンリー八世の海軍好きと女好きが、イギリスの歴史を大きくつくりかえたのだ。

  アンは1525年にキャサリンの女官に取り立てられた直後に、ヘンリーの目にとまった。アンは二十四歳で、ヘンリーが三十代なかばだった。王妃は四十歳に近かった。ヘンリーはそれまで何人もの愛人をもったが、アンを見初めたときには、アンの姉のメリーを愛人にしていた。メリーも王妃に女官として仕えていた。

  ヘンリーはアンに激しく恋した。ところがアンはヘンリーが誘っても、結婚するまでは王と同衾(どうきん)することを拒んだ。そこでキャサリンとの離婚を認めるようにローマ法王と六年近くも交渉したが、法王は応ぜずに、ヘンリーを破門するといって脅かした。そこでヘンリーはローマ法王とイングランドの教会の関係を断ち切った。もちろん、国王のもとに置かれるようになった協会は、離婚を認めた。

  といっても、ヘンリーがわがままを通すことができたのは、それまでイングランドにおいて、ローマ法王の権力に対して強い不満が鬱積するようになっていたからであった。このころには、イングランドの人々は外国人を嫌うようになっていたし、それまでも歴代の国王とローマ法王庁とのあいだに何回も軋轢が発生していた。ヨーロッパでプロテスタント=新教が力をもつようになっていたのにも、助けられた。このような土壌があったからこそ。ヘンリーはローマ法王と袂を分かつことができたのだった。
  それにイギリス人は今日でも、フランシス人やドイツ人のように、抽象的な理念によって引きずり回されたり、理屈を弄ぶことがない。イギリス人はプラクティカル=いたって実利的なのだ。

  アングリカン・チャーチ=イギリス国教会は宗教の教義上の対立とは全く関係なしに、ヘンリー八世の浮気から発したものであるが、イギリスのナショナリズムが生んだものだった。イギリス国教会は神に合わせたのではなく、人の必要に合わせてつくられたといわれる。だから教義が厳しくなく、キリスト教の教派のなかでは、きわめておおらかである。
  この点では、日本の神道に似ている。イギリス人は宗教的に無精だ。イギリス人の宗教への態度はずぼらで、日本人と共通しているところがあるのだ。

参考:加瀬英明著「イギリス 衰亡しない伝統国家」
   加瀬英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長
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