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おまけ×5 イギリス「新戦法でスペイン無敵艦隊に大勝利その後無敵艦隊壊滅」

 「新戦法でスペイン無敵艦隊に大勝利その後無敵艦隊の壊滅」 一部引用編集簡略版

  スペイン語で「アルマダ・インベンシブレ」=”無敵艦隊”と呼んだ百三十隻の大艦隊がリスボンからイギリスへ向けて北へ針路をとったのは、1588年5月だった。一万九千人の陸兵と、八千五百人の水夫や奴隷が乗り込んでいた。しかし、すぐに嵐に遭遇したために、ラ・コルニャ港に退避して、損傷した船を応急に修理したうえで、七月に出航した。
  イギリス艦隊のほうが隻数が少なかったが、射程の長い砲をスペイン艦隊の数倍ももっていた。イギリス側が射程の長い大型のカルバリン(鉄製砲)を153門と、小型344門載せていたのに対して、スペイン側はそれぞれ21門と151門しかなかった。というのは、スペイン海軍は接舷したうえで陸兵が喚声をあげて敵艦に乗り移って強襲する、旧来どおりの戦術を取っていたからだった。スペインの大多数の砲は対人殺傷用だった。しかも、帆だけを使って帆走するイギリス艦のほうが、船底に繫がれた奴隷たちにオールを漕がせて進むスペイン艦より小回りがきいたし、速度も速かった。

  ”無敵艦隊”に対するイギリスの勝利は、イギリスの地理的な位置によるものが大きかった。新しい時代がイギリスに微笑んだのだった。ヨーロッパにとって海といえば、つい昨日までは地中海だった。
  そしてギリシャ、ローマ時代から、”無敵艦隊”のころまで、船といえば波が比較的に穏やかな地中海に合わせて、櫂(かい)と帆を併用して進んだ。そして海戦は接舷して陸兵が斬りこんで勝敗を決めたから、地上戦闘の延長だった。
  ”無敵艦隊”がブリテン島西端のリザード岬から初めて望見されてから、九日間にわたって、イギリス海峡を東進するスペイン艦隊とイギリス艦隊のあいだで遭遇戦が闘われた。スペイン艦隊はイギリス艦隊から射程の長い砲火を浴びて、接舷することができなかった。
  イギリス艦隊はドレークが率いる艦隊も加わって、大きな戦果をあげた。このとき、ドレークが旗艦「ペリカン」で戦闘開始を告げるために使った軍鼓が、ロンドンに展示されている。

  イギリスの無敵艦隊に対する勝利は、官制に対する民活の勝利でもあった。イギリスの船は私掠船をはじめとして民間の出資によって建造され、外洋へ送り出された。そこで、あらゆる工夫と創意が生かされた。それに対してスペインは絶対王政のもとにあったために、民間の力が弱かったので、技術の進歩が阻まれた。

 「無敵艦隊」の壊滅
  スペイン艦隊は強風のために引き返せなかったので、ブリテン島を大きく回って、北海を通って帰国することを試みた。それから先は悲惨な航海となった。八月初めにスコットランドのフォース湾のワイクスネス岬沖を通過した後に、何回にもわたって激しい嵐に遭い、十九隻がスコットランドとアイルランドの沿岸で座礁した。
  ケルト人たちは難破したスペインの貴族や兵士たちを容赦なく襲撃して、略奪した。そして一万数千人が餓死するか、ケルト人に襲われて死んだ。三十三隻が行方不明になった。九月にスペインへ戻れたのは、百三十隻のうち五十数隻しかなかった。二万人以上の将兵や奴隷が死んだ。

  ”無敵艦隊”が壊滅したのを境にして、スペイン帝国の凋落が始まった。スペインは二度と大艦隊を海に浮かべることはできなかった。そしてイギリスがかわって、新しい海洋勢力として台頭するようになった。

参考:加瀬英明著「イギリス 衰亡しない伝統国家」
   加瀬英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長
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