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5.紫式部の恋 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)

5.紫式部の恋 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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喪失 宣孝の死

  宣孝が死んだのは長保(ちょうほう)三(1001)年四月二十五日のことだった。(「尊卑分脈」)。
  宣孝には死の影などなかったと思う。仕事は順調で、多忙だった。結婚した長徳四(998)年の八月には、それまでの右衛門権佐(うえもんのごんのすけ)に加えて、山城守を拝命した。(「権記」同年八月二十七日)。

  山城国はこの平安京が置かれている地域だ。守は賀茂祭の行列などにも参加して、受領ではあるが雅で華やかな職だ。また、翌長保元(999)年には名誉なことが沢山あった。十一月七日、藤原道長殿の姫君である彰子様が帝に入内し女御となられた夜には、宴に奉仕した。上機嫌の道長殿に命ぜられ、藤原実資様にお酒をついだりしたのだという(「小右記」同日)。

  同じ月の十一日には賀茂の臨時の祭りの「調楽」と呼ばれる総稽古で舞い、会心のできだったようだ(「権記」同日)。また二十七日には、九国豊後の宇佐八幡宮へと遣わされる「宇佐遣い」として、勿体なくも帝のお言葉を携えて出発した(「日本紀略」同日)。帰ったのは翌年二月で、道長殿に馬二匹を献上した。(「御堂関白記」同月三日)。

  こうした日々の中で、私には娘が生まれていた。宣孝にとっても私にとっても充実した日々が続いていたと言える。もちろん夫婦だし、宣孝はもてる男でもあるしで、時にはつまらない喧嘩などがなかった訳でもない。だがそうしたことも含めて、今思えばすべてが大事なき日常だった。今日は昨日の繰り返しであり、明日はまた今日と似た日の繰り返しになるのだと、私は何の根拠もなく思いこんでいた。それはなんと浅はかな考えだったことだろうか。

  思えば宣孝が宇佐から帰った頃から、不吉な兆しはあったのだ。四月七日、大内裏豊楽院(ぶらくいん)の招俊堂(しょうしゅんどう)が落雷に遭い出火、灰燼に帰した(「日本記略」同日)。五月には一条天皇の母君である女院、東三条院詮子様の病が重篤となり、帝は天下に大赦を施された(同 五月十八日)。しかしその効果が見えないまま、道長殿までもが重病に臥された(同 五六月之間)。

  お二人が回復されたと思ったら、八月には大雨で賀茂川の堤が決壊。多くの家が流された。私のこの家はもちろん、東京極通りを挟んですぐ向かいの道長殿の邸宅土御門殿にも被害が及んで、庭の池があふれ海の如くであったという(「権記」八月十六日)。

次回「続き1 喪失 宣孝の死」につづく
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