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解説-15.「紫式部日記」結婚

解説-15.「紫式部日記」結婚

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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結婚

  「紫式部集」によれば、紫式部には、下向先の越前まで恋文を送ってくる男がいた。花山天皇時代、六位蔵人として為時と同僚だった、藤原宣孝である。

  宣孝は紫式部の曾祖父である右大臣藤原定方の直系の曾孫で、紫式部とはまたいとこの関係に当たる。宣孝の父の為輔は公卿で寛和二(986)年権中納言にまで至って亡くなった。母は参議藤原守義(もりよし)女(むすめ)、宣孝とその兄弟たちは受領だったが、姉妹は参議藤原佐理(すけまさ)に嫁いでいる。
  また、宣孝の妻の一人は中納言藤原朝成(あさひら)女で、彼女と宣孝の間の子である隆佐(たかすけ)も、後に後冷泉天皇の康平二(1059)年、七十五歳で従三位に叙せられ公卿の一員になった。(図の関係系図参照)
  このように宣孝の周辺には、過去・宣孝現在・そして未来にわたって公卿が多い。為時とは違い、彼の一族は処世に長けていたのである。宣孝自身は正五位下右衛門権佐兼山城の守が極位極官だったが、それは壮年でなくなったためであろう。

  宣孝は目端の利く男で、行動力もあった。「枕草子:あはれなるもの」に書きとめられているエピソードは有名である。道長も参詣した吉野川金峯山(きんぷせん)は、誰もが浄衣(じょうえ)姿で行くと決まっている。だが宣孝は「人と同じ浄衣姿では大した御利益もあるまい」と、自らは紫の指貫に山吹の衣、同行の長男にも摺り模様の水干などを着させて参詣し、人々を驚かせた。

  ところがまさにその甲斐あってか、二か月後には筑前の守に任官できたという。宣孝が筑前の守になったのは事実で、西暦元(990)年のことである。
  なお、参詣に同行した長男隆光は「枕草子:監物(けんもつ:中務 (なかつかさ) 省に属し、大蔵 (おおくら) ・内蔵 (うちくら) などの出納を監督)」に「長保元(999)年六月蔵人、年二九」と記される。
  実際に長男隆光が蔵人になったのは長保三(1001)年六月二十日(「権記」)だが、いずれにせよ長男隆光は九九〇年代初めの生まれとなり、紫式部と同年代、或いは年上である可能性もある。

  つまり宣孝は、紫式部の父と言ってもよいほどの年配だったのだ。恋が進展した長徳三(997)年、紫式部は二十代半ば、宣孝は四十代半ばか五十がらみで、十分に大人の恋と言えた。

  宣孝は楽しい男だった。春先の恋文には「春は解くるもの」という謎々を書いてきたりした。何が解けるのか?氷や雪、そして冷たい女の心である。「春だもの、君は私を好きになるさ」というのが謎々の意味だ。いっぽう女性関係も盛んで、紫式部と同時期に近江の守の娘にも言い寄っているとの噂があったという。「尊卑分脈」によれば、紫式部以外に少なくとも三人の妻がいた。おそらく裕福でもあったのだろう。

  紫式部はこの年秋ごろに帰京したと考えられる。都では定子が天皇に復縁され、批判の的となっていた頃である。結婚は翌年であろう。なお紫式部は本妻ではなく、妾(しょう:本妻以外の妻)の一人だったので、結婚は終始宣孝が彼女を訪う妻問婚(つまどいこん:夫が妻の下に通う婚姻の形態)の形であった。やがて娘が生まれ、紫式部は妻そして母としての日々を生きた。

つづく
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