一人人海戦術

世界の3%くらいの人に納得してもらえばいいかなと考える、オメガ・ブロガーを目指してみようか。

「個人の自由」という概念は周りの人が批判するといった弱い強制力には及ばない

2010-12-09 18:25:52 | 今日の言葉

『kikulog:EMで川はきれいになるのだろうか』の中での技術開発者さんのコメントより、

EM団子を川に投げ込んで河川がきれいになると信じてそれを全国に広めようとしている人に対して、法律で取り締まれないものかという意見に対する技術開発者さんのお言葉、

~引用開始~

#61. 技術開発者  October 5, 2010 @14:29:36

こんにちは、KOHさん。

>でも,まだ居るんでしょうか..
>無邪気といいますか,乱暴と言いますか.

ずいぶん沢山居ると思いますよ、そういう人はね。なんていうか「法による罰」ということでしか社会秩序を考えられない人にずいぶん沢山であった気がします、悪徳商法とかを扱っているとね。

「法は最低限のモラル」なんて何度も説明している訳ですが、この言葉には、「法に触れるような行為はモラルからみても最低の行為である」という意味もありますし、「法に触れなくてもモラルに触れる行為はある」という意味も当然あります。そして法というのは国家による強制力を持ちますが、実はモラルというのも社会が弱い強制力を発揮して守ってきた面があるんですね。その弱い強制力というのは社会の周りの人からそれなりに「嫌われる」ような部分なんですね。

個人の権利とか自由という意識は、皆さんに大事にしていただきたい人類の貴重な文化なのですが、その「権利とか自由」というののお相手というのは、国家権力などに対して発達してきたんですね。別なところで、ミルの愚行権ということを説明するのに「愚行であっても強制的に止めない」という場合の止め手は「国家権力」であり、愚行権があっても周りの人が「そんなことをするのは愚かだよ」と弱く止めるのを止めさせることができるものではない訳です。

実は現代社会で危なくなっているのが、このモラルの部分のような気がする訳です。国家と社会というのは別物なんですね。社会という共同体の中でも秩序を維持するための規範は生まれます。その規範の「最低限」の部分を強制する必要があって国家といったシステムが生まれる訳です。国家という強制力が暴走すれば危険なシステムに対する対抗として「個人の権利や自由」という概念が生まれるのですが、その対抗が社会規範にも及んで、「個人の自由だろ」と社会の弱い強制力をも塞いでしまう事がおきている様にみえるんですね。社会の方も「個人の自由だから」と口をつぐんてしまうような事です。本来、その「個人の自由」という概念は国家権力の様な強い強制力に対する対抗ですから、周りの人が批判するといった弱い強制力には及ばない部分があるはずなんです。

こういう流れの中で、モラルが守られ無くなるときに、多くの人が権力による強制力に頼らないと社会秩序が維持出来ないと思うようになっていく面があると考えています。

~引用終了~

 技術開発者さんの法解釈に関しては、立法主義的立場に立つ私にとっては、法律は合理的な理由に基づいて自分たちで作るものであり、国家も作っていくものだから、法律は国家権力を縛るためのものというのは、もはや時代遅れという気がするが、この件に関しては賛同できる。

 愚かしいことをする人たちに対して社会の側が間違っていると声を上げることは、そこに個人の自由というものがあっても何ら障害にはならない。これからも大いに声を上げることを勧めよう。たとえ法律に触れていないものに対してもである。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« それでも尖閣衝突ビデオ(後... | トップ | 仮免許 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

今日の言葉」カテゴリの最新記事