真珠

深海の真珠は輝かず。

国家の身勝手

2005年08月13日 | 時事評論

 

@nifty:NEWS@nifty:マーティン首相、米国にカナダ産牛「輸入再開」を要求(読売新聞)


国家というのがどれほど身勝手なものか、またその「倫理的性格」という点ではどれほど低いかという事例が、この記事である。アメリカはあれほど強く日本にアメリカ産の牛肉の輸入を迫っておきながら、お隣のカナダ産の牛肉の輸入には見向きもしなかったのである。

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失われた大和撫子

2005年08月13日 | 芸術・文化

 

撫子は私の好きな花の一つである。一番好きな花かと問われると、必ずしもそうも断言できない。桜の花も好きだし、菊も、ダリアも、リンドウも、キキョウも、蘭も皆それぞれの趣があって好きである。しかし、撫子は、大和撫子を連想させることもあって、取り分けて好きな花の一つである。初夏の堤や海辺で、草むらの影にひっそりと咲いている撫子に出会うと、その清楚な美しさについ足を止め、見つめてしまう。


 
 

放つ矢のゆくへたずぬる草むらに見いでて折れるなでしこの花

 
             (草径集 大隈言道 なでしこ)


それにしても、なぜ大和撫子と言うのだろうか。どうして、日本の女性が撫子に結び付けられたのか、いつ、誰の発想に拠るのか調べようがなく私には分からない。しかし、撫子と日本の女性が結び付けられた大和撫子という可憐な言葉は本当に美しく、また、日本の女性にとっても名誉な言葉だと思う。


それにしても、最近残念に思うことは、この大和秋津島から、本当に大和撫子がすっかりいなくなってしまったように思われることだ。本当に美しいと思う大和撫子に、すっかり出会わなくなったと思う。現代の女性には失礼かも知れないが。寂しいし、残念なことである。どうしていなくなったのだろう。本当の大和撫子はどこに行ってしまったのだろう。西洋タンポポに土着のタンポポが追い払われたように、戦後の圧倒的なアメリカ文化の、洋風文化の流入によるものだろうか。


大和撫子の伝統はそんなに浅く、弱いものだったのか。もちろん、こんなことを言っても、現代の日本女性には一笑に付されるのが落ちだということも良く分かっている。しかし、私はこの事実を哲学の問題として考えて見たいのである。


まず、私が何に美を見出しているのか。また、美とはなにか。それを哲学的に理論的に考察することはここではできない。ただ、この国から内面的な精神的な深さを感じさせる女性がすっかりいなくなってしまった。それは、真の宗教がこの国から蒸発してしまったことに起因していると思う。真の宗教こそが、女性を内面から本当の美人に作るのである。その宗教が亡くなってしまったからなのだ。心に赤いバラ黒いバラを咲かせている女性がどこにもいなくなってしまったのである。


しかし、私はまた楽観している。キリスト教の真理が不滅であるように、この国においても、やがて可憐な大和撫子が復活すると信じている。ただ、儒教や神道の仏教の土壌の中から芽を出すのではないと思う。そうではなく、古臭い伝統主義者から蛇蝎のように嫌われたキリスト教の、そのキリスト教婦人の中に、大和撫子の再生を見ることを。


まもなく春が来て、きれいな桜が咲く。そして、また日本の初夏がやってくる。そのとき、どこかの浜辺で、岸辺で、ひっそりと咲いている大和撫子に会えるかも知れない。

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恥を知れ、東京四区選挙民

2005年08月13日 | 政治・経済

 


衆議院東京四区から選出された中西一善議員が、強制わいせつ罪で現行犯逮捕された。酒に酔った挙句の乱行である。ワイン一本、焼酎ボトル半分、ビールも2、3本を飲んでいたと言う。本人は被害者や国民に謝罪し、議員も辞職して事件の責任をとったが、それにしても、これほどの飲酒家を、なぜ東京四区の選挙民は国会議員に選んだのか。


衆議院議員を選ぶということは、国政に選良を送るということである。国家の指導者としてふさわしい人物を、地域の選挙民は責任を持って送り出す必要がある。単に地元の利益に貢献するかどうかという理由だけで選出すべきでないのはいうまでもない。国家全体にとって本当に有為な人材は誰かという基準で、市民は政治家を選ぶ必要がある。これほどの酒飲みが、本当に国家のために尽くすことができるだろうか。東京四区にはもっとふさわしい候補者はいなかったのか。


国民は自分たちが選出する代議士の品性、能力をつねに見極めなければならない。国会議員は地元を犠牲にしてでも、むしろ、その選出された地盤よりも日本国全体の国政に責任をになうに足る人材でなければならない。政治家と国民の一人一人がそうした気概を持つのでなければ、いつまでたっても日本の政治は高潔なものにならず、したがって、国民自身も幸福にならない。


国会議員は、したがって、知性、能力、品性,も最高の人材でなければならない。また最高のモラリストでなければならない。そうした、最高の人物のみを国政に参画させるようにする必要がある。日本の政治にいつまでも品格に欠けるのは、国政にふさわしい人物を国会議員に選出するという厳しい選択が国民の間になく、またそうした政治家を育てるという自覚もないからである。


現在の衆議院議員の定数は、四八〇人である。それにしても、国家に真に有為な優秀な人材が事実として四八〇人もいるだろうか。それほど日本は人材に豊富な国か。その中には、中西一善氏のような、凡庸な人物も少なくないはずである。議員定数の四八〇人は多すぎる。真のエリートが集まれば定数は半数の二四〇人で十分である。そうしてこそ、日本の政治は高貴なものになり、政治に国民の尊敬も集められるようになる。自分たちの選出した政治家と政治を軽蔑しかできないよう国民は、自業自得である。中西一善議員のような人物が国会に居座っている限り、いつまでたっても低劣な政治から救われない。信頼にたる政治が行われるようにはならない。


西洋に、「国民は自分にふさわしい政治しかもてない」ということわざがある。国民は、自分たちが選んだ人物が本当に国政にふさわしい人物であるか、よくよく胸に手を当ててて考えてみる必要があると思う。


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民主主義と孤独

2005年08月13日 | 政治・経済

 

久しぶりに、ヘーゲル辞典に「大人」と「青年(若者)」の項を追加した。

「伝道の書」の第一章の注釈は、とうの昔に書き上げたのに、電子テキストの空しさ、一瞬の内に消えてしまった。「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」(伝道の書第1章)という言葉を実感させられることになった。苦笑。その後、改めて書き直す意欲をまったく失ってしまう。宮崎駿男さんのアニメ「風の谷のナウシカ」の主題歌を聴きながら書く。安田成美さんの素人っぽい歌い振りが一番良いと思う。


ドラマや映画、演劇、小説、音楽などで本当に良い仕事をする才能が少なくなった今の日本で、宮崎駿男さんは貴重な存在だと思う。大学と大学院を真の意味での学問の府にすることができるか否かに、日本の命運がかかっている。大学での、芸術論や美学の教育の貧弱なことが、ろくなドラマしか作り出すことのできいない原因になっている。大学教育の貧弱なことは、なにも芸術、美学だけではない。学問全体にいえることである。そして多くの有為な若者の進路を正しく指導する能力を失っている。マスコミ関係者も国民に必要な情報や分析を的確に提供し得ているようにも思えない。高額の受信料を徴収していながら、NHKは、自前で優れた脚本家を育てることもできず、国民を満足させることのできるドラマを作ることもできず、韓国ドラマを嬉しげに放送して、恥も外聞もない。それにしても優れた芸術は、神の仕事に等しい。


個人が完全に自立するということには、すなわち自由であることの半面には、孤独を覚悟せざるを得ないのだろう。
特にプロテスタントでは、その精神的な営みのもっとも奥深いところに、ただ、神と自分だけが対面する場があり、そこで人間は絶対的な孤独を意識せざるを得ない。そしてキリスト教の神は精神的な神であり、聖書の神を自己の神とする限り、私の倫理的な性格が、自分の責任において問われざるを得ない。このことは、異教徒の与り知らぬ世界である。これは、ある意味ではキリスト者の特権であると共に、またそれが彼の運命である。善悪を知る果実を味わったキリスト者は、異教徒の持つ天真爛漫さを失ってしまったともいえる。しかし、異教徒の天真爛漫さは、完成されたキリスト者の真の天真爛漫さには、もちろん及ばない。キリスト者の不安は、罪の意識から来るが、しかし、それはもちろんキリスト者の真の姿ではない。キリスト教の目的は、罪からの解放であり、真の自由であるから。


それにしても、わが国の民主主義はキリスト教抜きの民主主義であり、したがって、それは、政治における自己の判断の倫理的な、宗教的な責任を自覚させることがない。民主主義はプロテスタンティズムの論理的な帰結として存在するのに、国家の統治原理として民主主義を導入し採用しておきながら、一方でキリスト教を受け入れないことが、どれほどの茶番になるかということに国民は気づきもしない。GHQの押し付けではなく、国民の主体的な選択になるまでは。


キリスト教抜きのわが国の民主主義が、倫理的な緊張感のない、義理と人情と飲み食いがらみの情実民主主義になるのは仕方がない。靖国神社への公式参拝を標榜する小泉首相を始めとして、現在の自民党員のなかに、いったい、どれだけの自民党員が自由と民主主義を、その真の概念において理解しているのだろうか。自民党の自由と民主主義を、その実態に合わせるのなら、党名を情実的自由民主党とでも改名すべきだろう。この自民党の体質が改革されない限り、日本の政治に乾いた風が吹くことがなく、水臭い孤独な民主主義に耐えるとができない。。


また東京大学という国立大学の中枢で、公務員として樋口陽一氏のように、キリスト教を抜きにした民主主義や人権の理論を展開することが、その真実の概念の理解から遠ざけ、今日の日本の現状に見るように、「欲望民主主義」や「戦後民主主義」、フェミニズム、左翼無国籍者として帰結することになっていることに、いったいどれだけ気づいているか。また、それが一方で、佐伯啓思氏や西尾幹二氏ような保守派から批判を招くことになっているか。とはいえ、彼らもまた、キリスト教を拒否する限り、必然的に、倫理的な根拠を天皇制や教育勅語に求めざるを得ない。しかし、天皇制や教育勅語が、真実の倫理的な基礎と成り得ないのは歴史と論理が証明しているではないか。あるいは、ニーチェのように、自己を神とする絶対的な傲慢に陥るかである。しかし、真理は自己を貫徹する。ただ、客観的な条件によって、それに要する時間がそれぞれ異なるだけだ。


明治期にも国家と社会の腐敗を、東京帝国大学の井上哲次郎教授らは、儒教や神道を背景とする教育勅語の創案によって防ごうとしたが、日本の敗戦と共に、その偽善によってすっかり信用を失墜させてしまった。そして、戦後60年、戦争によって国家に対する信用を失った国民は、その一方でキリスト教を拒否してきた日本は、さまざまな側面で、その倫理的な崩壊に直面することになった。今日の青少年の現実や学校の深刻な危機を、キリスト教と真実の民主主義なくしてどのように解決できるのか、私には分からない。またキリスト教の理解を欠いた、倫理的な宗教的な基礎を欠いた日本の民主主義が、どれだけ浅薄で歪んだものになっているか。


日本の民主主義のほかに、神のいない民主主義の一つの姿が、中国や北朝鮮の「人民民主主義」である。中国や北朝鮮の腐敗と堕落は、やがて、国家の骨組みすら腐らせてしまうだろう。この「人民民主主義」の大多数は、すでに、多くの国で歴史から姿を消したが、北朝鮮、中国、キューバなど、まだ幾つかの国で生きている。

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食卓の音楽

2005年08月13日 | 日記

 

月日の経つのは早いものです。もう今年も三月になりました。今日は久しぶりにゲオルグ・フィリップ・テレマンの音楽を聴きました。勘違いしていて、この作曲家はバッハの後の作曲家とばかり思っていたのですが、そうではありませんでした。テレマンがライプチッヒのトーマス教会の合唱指揮者の職を断ったために、その後任としてバッハがオルガン奏者として穴埋めにその地位に就いたのだそうです。ですから、テレマンはバッハとは同時代人か、多少先輩にあたると言うことになります。


今日は、彼の「ターフェルムジーク(食卓の音楽)」を聴いたのですが、とても自然で、技巧を感じさせず、モーツァルトの音楽を聴いたときと同じような快い感覚をもたらす音楽です。「食卓の音楽」とありますが、当時の人は、このような音楽を聴きながら食事をしたのでしょうか。難しいことを考えずに、純粋に音の世界を楽しむ、しかも、おいしい料理といっしょに味わうことは、きっとこの世にありながら、生きながらにして至福のひととき経験することになるのかも知れません。


今日は机の上でワープロを打ちながら聴いたのですが、次回は、この音楽の題名の「食卓の音楽」にふさわしく、食事をとりながら聴いてみようかなと思っています。所々、バッハの音楽を思わせるような個所もあります。やはり同時代人なのでしょう。クラシック音楽を聴いたのは久しぶりです。最近は、ポップスが中心でした。私の好きな歌手は、ダイアナ・ロス、クリス・レアなど。宮崎アニメソングも聴いていて楽しいです。最近では「冬のソナタ」のテーマソングなども聴いています。とても美しいと思います。残念なのは、最近の日本には本当に良い曲だなと感じる作品が少なくなったと思うことです。それとも、私の耳が時代遅れになっただけでしょうか。最近聴いていないビバルディやモーツァルト、やはり繰り返し聴く音楽は限られるようです。


昔書いた書評を少しずつ、ワープロに打って、ホームページに載せて行こうかなと思っています。今日は、栄光学園の校長先生だったグスタフ・フォス神父の『日本の父へ』という本の書評をワープロで打ち、ネットに載せました。1988年5月9日に書いたことになっていますから、17年前に書いたことになります。こうした本やテーマを取り上げたところに昔の私の興味や関心、問題意識がどんなところにあったかが分かります。今そうした書評を読み直しても、きわめてお粗末な書評だと思います。物足りないところがありますが、当時の文章をそのまま載せるようにつとめました。また折りがあれば、書きなおすか、追加したいと考えています。


幸いにしてと言うべきか、私はこうして地震にも津波にも襲われずに、命長らえて生きています。しかし、一歩一歩死に向かって行進している事実には変わりありません。昨年末のインド洋大津波で亡くなった10万人以上の人々との違いはただ時間の問題だけだと思います。死なない人間はいないのですから。


それにしても、亡くなった方々にも、きっと遣り残したことが多くあって、とても心残りだっただろうと思います。生き残っている私も限られた貴重な時間を本当に有意義なことだけに使いたいと思っているのに、なかなか、そうは行かないのは、私の愚かさ弱さゆえです。心は熱していても、肉体は弱いのです(マタイ書26:41)。どうか肉の弱さに打ち勝つことができますように。

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JR福知山脱線事故から一ヶ月

2005年08月13日 | Weblog

 

jiko

最近起きた事故としては、左の写真に掲げたJR福知山線脱線事故が凄まじい。こうした事故を見聞して改めてわかることは、私たち現代人の生活が、実に危険と隣り合わせに存在しているということである。

この列車に乗車していた人たちも私たちと異なった特別の存在ではなく、違った点といえば、たまたまこの列車に乗り合わせたということだけである。事故に遭われた人が私たちに比べて特別に罪深かったとか、悪人だったためではない。平均的に見れば、私たちとまったく同じ普通の人々だったろう。あたかも市民の日常生活の一区画が突然そっくり切り取られたに等しい。

乗客たちも、まさかこの朝に、通勤や通学の途上で、自分たちの人生が断ち切られるなどとは夢にも思わなかっただろう。大学生などの若者も多く、本人も遺族もやりきれない悔しい思いをされていると思う。言葉が切れる。

現代の生活は確かに便利になった。しかし、この便利さが科学技術の上に成り立ち、現代の科学がまだ極めて未熟なものであることを、この事故は改めて再確認させる。そして、これまできわめて安全な交通機関だと思われていた鉄道が必ずしもそうではなかったこともわかった。また、被害者の方々の怒りや憎しみが、JR西日本という鉄道会社の安全管理の企業の体質や労務管理の問題に向けられ、新聞記者の鉄道会社に対する取材上での行き過ぎた感情移入や、鉄道従業員に対する嫌がらせなど民衆のバッシング騒ぎも取り沙汰されることもあった。日本国民一般の国民精神における理性の確立の未熟さも教えている。

確かに今回の事故は、鉄道会社の安全管理、労務管理上に問題に大きく影響されているようである。列車の乗務員の労務管理に関する情報をもれ聞いても、そこには何か旧大日本帝国陸軍の精神主義を彷彿させるようなものがある。企業の体質として、あるいは日本人の国民の体質としても、そうした。弱点を克服して、人間性尊重と技術合理主義をいまだ確立しきれないでいる。先進的であるはずの現代の大企業においても、労務管理や人間関係の多くの部面で、相変わらずの旧態依然としたものが少なくないことをうかがわせる。科学技術の導入や変革に比べて、人間関係や労務管理、さらには世界観や価値観などの思想の導入や確立はそれほど容易ではないのだろう。現代企業が人間性尊重と技術合理主義を確立し定着するためにはまだ歳月が必要なのかも知れない。

現代の企業は、市場競争でぎりぎりの所まで追い詰められている面がある。市場の競争によって、消費者、利用者の利便が著しく向上することも確かである。旧国鉄の解体と再編は絶対的な必要として行われた。それに大きな意義のあったことは否定し得ない。しかし、その「効率化」の追求が、消費者や利用者の安全を犠牲にせざるを得ないというのであれば、本末転倒としか言いようがない。列車の運行の安全も、運転手の職人的な技術に依存する点が大きく、自動列車停止装置(ATS)などの機械装置による安全確保もまだ十分に行き届いていなかったようである。早急な改善が望まれる。

しかし、どんなに安全に配慮しても、神ならぬ人間には、完全を期することは永久に不可能かも知れない。私たちの世代にうちに完全な安全を期待するのは不可能であると考えたほうが合理的である。20年前の過去にも日本航空機が、群馬県多野郡上野村・御巣鷹の尾根に墜落する事故があった。そして今回も被災者の遺族、関係者が生きている間は、事故の痛みは決して風化することはない。

死は避けられない。それは突然やってくるかもしれない。それは運命次第、神様の思し召しひとつのところがある。だから私たちにできることは、人間としてできることには万全を尽くし、その上で、常に次のような覚悟をしておくことかも知れない。

「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである。」 (ルカ伝12章)

「何もかも物憂い。かってあったことは、これからもあり、かって起きたことは、これからも起きる。太陽の下、新しいものは何一つない。昔のことを心に留めるものはない。これから先にあることも、その後の世には誰も気にも留めない。」(伝道の書 第一章)

ニュース源

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裁判官の人間観

2005年08月13日 | Weblog

 

近年司法の改革が進められて来た。昨年には裁判員法が公布され、五年以内に裁判員制度が発足することになった。よりよき司法制度に向かっての一歩前進として評価したい。昔から「三人寄れば文殊の知恵」ということわざもあるように、出来うる限りの多くの人の知恵、知識、経験を持ち寄って合議が行われれば、さらにいっそう正義と真実が実現されることになるだろう。市民が公共の問題に関心を持ち、認識を深めつつ公共の精神を培ってゆくのは良いことである。


とはいえ、現在の裁判制度のもとで下される判決の中には、首を傾げたくなるようなものも多い。1997年に神戸でおきたいわゆる「神戸児童連続殺傷事件」に対する判決もその一つであった。この事件の犯罪者が14歳の少年であったということもあって、この特異な事件は世間の耳目を集めることにもなった。この事件を契機として、ますます凶悪化する少年犯罪にの傾向に対して、少年法の改正にも取り組まれることになった。事件に対しても判決が下されたが、少年は少年院ではなく、医療少年院に送致され、保護処分になることが明らかになった。そのときに、私は何かこの判決に不本意なものを感じたのだが、はっきりしないままに中途に放棄したままだった。

私が感じたそのときの違和感とは、要するにこの判決によっては正義が回復されないのではないかということから来るものである。この判決では、少年は犯罪者ではなく病人として、少なくとも一種の精神的な異常者として取り扱われることになる。しかし、これでは、犯罪と精神病理との区別を解消してしまうことになる。確かに、犯罪は一種の「精神的な病」といえるかも知れないが、しかし、少なくとも犯罪は肉体的な病理現象とは区別されなければならない。実際にこの判決で検討された協同鑑定書においても、少年が「普通の知能を有し、意識も清明で精神病であることを示唆する所見のないこと」を認めて裁判官もそれに同意している。


もともと、犯罪とは精神的な機能においてはまったく「正常」な状態で実行されるものである。そうでなければそれは、もはや犯罪とは言えず、「病気」にすぎない。私には現在の裁判官がどのような人間観、刑法理論に基づいて判決を下す傾向があるのかよくわからない。しかし、裁判というのは、失われた正義を回復することが、根本的な使命である。欧米の裁判所の梁を飾っている、目隠しされた正義の女神の像が手に天秤を握っているのはこのことを象徴している。裁判官が医療者や精神的カウンセラーになってしまっては、裁判は裁判の意義を保てない。

裁判官の中垣康弘判事も、被害女児の両親の「少年を見捨てることなく少年に本件の責任を十分に自覚させてください」ということばを引用し、そして、「いつの日か少年が更生し、被害者と被害者の遺族に心からわびる日の来ることを祈っている」といいながら判決文を結んでいる。ただ、私がこの井垣判決で感じた疑問点は、そこには少年の更正のための配慮はあっても、失われた正義を回復するという、裁判官の──それは国家の意思でもある──確固とした意思のないことである。犯罪とは国家の法(正義)を侵害することである。そして、犯罪者による正義への、法へのこの不当な侵害については、犯罪者が正当に処罰されることによって、犯罪者に刑罰が課せられることによって、法と正義が回復されるのである。また、犯罪者自身も正しく処罰されることによって人格として尊重されることになる。なぜなら人間の尊厳は意思の自由の中にあるのであり、犯罪者といえども善悪を知る存在であり、かつ、明確に悪を選択し、正義を侵害する選択をしたからである。


神戸児童連続殺傷事件の判決では、女神の天秤は著しく傾いたままで、失われた正義の均衡は回復していないようにも思える。社会と国家の正義は破損されたままである。そして、再び、神戸の犯罪少年の崇拝者が最近になって同じ犯罪を犯した。裁判官は今回の十七歳の少年をどのように処断するのだろうか。

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イラク戦争の新局面

2005年08月13日 | 政治・経済
戦争は人類とその歴史を同じくする。人類の歴史と戦争とは切り離すことができない。その人類を戦争から解放することは永遠の課題だということができる。これは現代においても変わることがない。


すでに戦後六〇年、私たちの世代は戦争を体験せずに済んでいる。これがどんなに幸せなことか。



戦争の時代に生まれ合わせた人たちは、不本意にも、戦争に巻き込こまれ、そして、人を殺すことを余儀なくされ、戦争がなければ生涯犯すことのなかったはずの、略奪、傷害、強姦などの犯罪を犯すことになった。そして、自己の生涯を突然に断ち切られ、妻子との平和な生活を失い、自他ともに筆舌に尽くせない苦難を運命づけられた。戦争の悲惨はいまさらいうまでもないことである。なくて済ませるものがあれば、戦争ほどのものはない。


イラク移行政府のドレイミ国防相は26日、首都バグダッドで近くイラク軍や警察などの治安部隊4万人以上を動員し、武装勢力の大規模な掃討作戦を実施することを明らかにしたそうである。イラク国民自らの力で国内の治安を確立する能力を高め、アメリカ軍がイラク国内から、一刻も早く撤退することのできるときの来ることを願うものである。


このイラク戦争に際しても、日本国民の多くが戸惑い、自己の態度決定に悩んだことと思う。イラク戦争についての私の立場はすでに明らかにしておいた。このイラク戦争についても、日本国民の間でも、さまざまに見解が分かれ、それぞれの異なった対応となって現れた。こうした問題については一人一人が自分の良心にしたがって決断せざるを得ない。


私は原則的に小泉首相の選択を支持するものである。私の判断と時の政府の政策と一致できるのはある意味では幸せであるといえる。私の現在の思想は、少なくとも小泉首相の対イラク政策、自衛隊のイラク派遣などの問題で反対せざるを得ないものではない。


イラク戦争はイラクの政治体制とアメリカの政治体制が根本的な敵対的矛盾関係に至ったために起きたものである。あるいは、少なくとも、それが将来において予測されたということである。時間を引き延ばしにして、敵に軍備に猶予を与え、将来の戦争でさらに被害を大きくするよりも、一昨年の時点で、この矛盾の早期解消を目指してブッシュ大統領はイラク侵攻を決断するに至ったということができる。10年前の湾岸戦争では、父ブッシュは、フセイン・イラクとの敵対的矛盾を解決できなかったからである。


私が基本的にブッシュの選択を支持するのは、結局、自由主義と民主主義という価値観をアメリカと共有していることを自覚しているからである。フセイン体制は、アメリカと比較すれば、より抑圧的で不自由であることを認めざるを得ない。フセインの息子たちの高級な外車を何台も所有するような放埓な行動や、フセインが亡命した娘婿たちに対して行った処刑などを見ても、また、国内に居住するクルド人に対する政策を見ても、この政権が民主主義とは程遠いことがわかる。


少なくともアメリカにおいては、ブッシュを選挙によって落選させることもできるし、また、映画監督のマイケルムーアのように、映画でブッシュ大統領を痛烈に皮肉ることによって、金儲けをすることもできる。市民も自由にブッシュ大統領のイラク戦争を批判することもできる。少なくとも、イラクのフセイン体制では、そうしたことは不可能だろう。どちらが自由な社会であるかは一目瞭然ではないか。


この戦争の選択の根底には、イラクのフセイン体制とアメリカのブッシュ体制のいずれを支持するかという問題がある。さらに積極的には、未来において、より自由で民主的な世界を作り広げて行くという意思の選択の問題もある。基本的な人権を侵害する抑圧的、独裁的な政権をこの地上からなくしてゆくという価値選択の問題でもある。もちろん、それは基本的には言論と選挙という手段を通じて実現して行くべきものであって、戦争という手段は、最後の最後の手段であるべきであることはいうまでもない。


アメリカのブッシュ体制とイラクのフセイン体制が、敵対的な矛盾に陥り、戦争が避けられないとすれば、選択は限られてくる。中立的な立場の選択は、問題を先送りするだけの無責任な選択であると思う。もちろん、現在のアメリカの民主主義政治体制にも問題の多いことは十分にわかっているつもりである。しかし、また、現在の日本はアメリカとは安全保障条約を結んでおり、対中国や対北朝鮮の関係もあって、アメリカとの同盟関係はこれからも堅持して行かなければならない。


そして、すでに賽は投げられたのである。もう、イラクの戦争で後戻りすることはできない。イラク国民が、将来において、より自由で民主的な社会を豊かに享受することができるように支援することがあるのみである。フセイン一派の反体制派も、早く武器を捨て、言論と選挙によってのみ自分たちの価値観を実現して行く政治体制を認め、それに参加して行くべきである。どんな恨みがあるとしても、人質たちを残虐に処刑したり、まして、それをネットで公開するような非人間的で愚劣な行為はやめるべきである。


自衛隊の皆さんが今もなお異郷の地イラクにあって、社会復興に貢献していることを、私も誇りに思っている。もちろん、自衛隊が、やがて、堂々たる民主国家日本の国防軍となることを願い、現在のように、オランダやイギリスやオーストラリヤ軍などに守られて職務を遂行せざるを得ないような、情けない状況を改革して行くのも国民の責務であると思っている。
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寡作な小栗康平監督

2005年08月13日 | 芸術・文化

 

今日のテレビに映画監督の小栗康平氏が出ていた。残念ながら、小栗監督の映画を私はまだ一度もまともに、完全に見たことがない。ただ、この監督の処女作でもある『泥の川』は、作家の宮本輝氏がこの作品で芥川賞を取っていたこともあって、原作の小説は、早くから読んでいた。

この小説は、戦後まだ日の浅い、日本が経済の高度成長を成し遂げて豊かな暮らしを実現する前の、大阪の海に近い比較的貧しい町を舞台にしている。この小説の作者の宮本輝氏は、ほとんど、私と同じ世代で時代を共有し、私の育った時代と場所も重なる。そのせいか、この小説を読んでも共感できるところが多かった。

それにしても、この小栗監督の処女作品が制作され発表されたのは、1981年である。それからすでに20年以上が経っている。テレビでもこの映画の放映があったが、私はそのとき、この映画の一部を見ただけで、完全には見ていない。叙情的な名品で、芸術作品と呼べるものであることは確かだったようである。doronokawa

その小栗監督が、新しく映画を製作したと言う。それにしても9年ぶりの作品であると聞いて驚いた。この監督は、9年間も作品を製作していなかったのである。処女作の『泥の川』以来、20年以上が経過している。しかし、この監督には、まだ五つの作品しかない。それほどに寡作であるとは知らなかった。確かに、映画の製作にはお金が掛かり、とくに、非商業的な作品は、お金がネックになって、なかなか製作が思うに任せないということは、熱心な映画ファンでもない私も聞いて知っていた。

それにしても、この監督は、きわめて寡作ながらも、過去の作品は、国内のみならず海外からも、すべて高い評価を獲得している。カンヌ映画祭でグランプリも獲得している。この監督の技量はきわめて確かなものである。それにも関らず、財政的な理由で、この監督が思う存分にメガフォンを取れないとすれば、それは大げさではなく、日本の国にとっても大きな損失であるといえる。このような優れた芸術家が、もし持てる力量を十分に発揮できないとすれば、それは社会全体の損失とも言える。一方には今日の日本の「屈辱的な」韓流ブームを見てもわかるように、優れた芸術作品、娯楽作品を生み出せない現実がある。現代では芸術や文化の持つ経済効果も大きい。

群馬県の協力によって、『眠る男』という作品が撮られたこともあるらしい。もちろん、政府や自治体の後援は望ましいけれども、やはり、芸術や文化は、国民全体の、民間による理解と協力と支援が基本ではないだろうか。そこに、芸術や文化に対する国民の成熟度が問われていると思う。

最近は、映画もビデオ化されたり、テレビで放映されたり、また、DVD化されたりして、それなりに著作権収入はあるのかも知れない。その点は良くわからない。しかし、この優れた監督が、たとえ9年間も作品が製作できなかったとしても、それが本人の才能や能力以外の、もし、それが財政的な理由によるものであるとすれば、やはり、社会全体、国民全体の観点から、自分たちの文化と芸術の問題として反省する点があるのではないだろうか。

それは何も、映画だけにとどまらない。絵画、建築、文学その他、学術、文化、芸術一般にいえることである。私たちの市民社会の質の高さが問われていると言える。私たち市民、国民の間にどれだけ優れた、娯楽作品、芸術作品を産出し共有できるかという問題である。国民の芸術や文化の産出力も国際的な競争にさらされているといえる。文化学術政策のあり方を見なおす必要もありそうである。韓国では金大中大統領時代の文化政策の効果が今現れているとも言われる。

いずれにせよ、近いうちにこの小栗監督の全作品を鑑賞できることを楽しみにしている。その時は批評でも書いてみたい。

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渚の院の七夕

2005年08月13日 | 芸術・文化

 

                           

今日は七夕の日。子供の頃、笹飾りを作って、近所の人たちと淀川にまで流しに行った時の記憶が懐かしくよみがえる。子供の心の世界は分裂を知らず、この世で天国を生きている。思春期を過ぎて、心は二つに分裂し、人は悪を知りエデンの園から追放される。
 


残念ながら、夕方から雷をともなったかなり激しい雨。六時ごろには止んだが、天の川は眺められそうにもない。七夕という言葉から、伊勢物語の中で業平が、昔、交野で詠んだ歌を思い出した。今の枚方市に「天の河」という地名があるらしい。つい眼と鼻の先に暮らしていながら全く疎い。



  狩り暮らし、たなばたつめに、宿からむ、天の河原に、我は来にけり



八十二段の渚の院の桜に因む七夕の歌。

渚の院とは、水無瀬にあった惟喬の親王の離宮で、惟喬の親王はよくここに出掛けて狩をされたことが伊勢物語に記されている。皇子は業平をつねに伴われた。今も阪急京都線に水無瀬駅があり、我が家からも近い。

曇り空の今宵、部屋の中で、業平のこの「たなばたの歌」についての小論を書いて、七夕の記憶にする。

 

水無瀬に惟喬の親王の離宮があった関係で毎年、桜の花の盛りの頃には皇子は御幸せられた。その際にはいつも右の馬の頭をお連れになられた。ある春の出来事でした。交野の原での狩はいいかげんにし、お酒を飲み交わしお楽しみになった。そのとき、離宮は渚の院と呼ばれていましたが、そこに咲いていた桜があまりに美しかったので、その桜の樹の許にすわって、桜の枝を折ってかんざしに刺して、身分の高い者も低い者もすべて和歌を詠んだ。 そのとき馬の頭は、この世の中に桜という花が、全く無かったとすれば、春も物思いにふけることもなく、どんなにのどかだろうと思って、

   世の中に、たえて桜のなかりせば、春の心は、のどけからまし

と、こんな歌を詠んだ。この右の馬の頭がどんな名前だったのか、もう遠い昔のことになってしまったので忘れてしまいました。

そうすると、お側でお仕えしていた他のもう一人が、次のような歌を詠んで反論しました。

   

   散ればこそ、いとど桜は、めでたけれ、うき世になにか、久しかるべき

桜の花は、はかなく散るからこそ、すばらしいのですよ。このつらく悲しい世の中に、桜と同じように散りもしないで、いつまでも永らえるものが一体あるとでも言うのですか。

こうして歌を詠んだりして、やがて、みんなは桜の樹の下から離れ、立って帰って行きます。すっかり日も暮れてしまったとき、御神酒を下げたお供の人が野原から出てきました。そして、このお酒を飲んでしまおうということになり、よい場所を探して行くと、天の河というところに来ました。業平が親王に御酒を差し上げると、皇子は「交野を狩りしてきて天の河のほとりに来てしまった」という題で、歌を詠んでから杯を注ぎなさいと言われた。そこで、業平が詠んだ歌、

   狩り暮らし、たなばたつめに、宿からむ、天の河原に、我は来にけり

一日中狩り暮らしていて、とうとう天の河原のほとりにまで来てしまいました。今宵はこの近くにおられるはずの織姫さんに宿を借りることにしよう

親王はこの歌を繰り返し繰り返し朗誦されましたが、歌がすばらしくて、返歌なさることができませんでした。それで、いっしょにお供してきた紀の有常という人が、この人は業平の舅にあたる人でしたが、代わって次のような歌を詠みました。

   一年に、ひとたび来ます、君待てば、宿貸す人も、あらじとぞ思ふ

織姫さんは、一年にただ一度だけ訪れる愛しい牽牛さんを待っていますから、 今宵、宿を貸してくれる人はいないと思いますよ

こんな歌を詠みながら業平に反論します。こうして皆は渚の院にお帰りになった。

これらは、過ぎ去った昔の、惟喬親王と業平らのまだ若かった日々の楽しい思い出で話である。もちろん、伊勢物語の読者は、後年、惟喬親王の、雪深い小野の里に隠棲しなければならなかった運命を知っている。

そして、業平の時代からほぼ七〇年後に、まだ彼らの記憶も生なましいとき、土佐での勤めを終えて京に帰る途上にあった紀貫之が、渚の院の傍らを船で行き過ぎる時、惟喬野皇子と業平の故事を思い出して、

  

    千代経たる、松にはあれど、いにしえの、声の寒さは、変わらざりけり

千年という歳月を経た松ではあるけれども、その梢を吹き抜ける、松風の荒涼とした騒ぎは、今も昔も変わりません

という歌を詠んで、時間と自然の非情の中に生きざるをえない人間と、悲運の生涯を生きた惟喬親王や業平たちを懐古すると供に、

   君恋ひて、世を経る宿の、梅の花、昔の香にぞ、猶匂ひける

かって主君のそばで美しく咲いていた梅の花は、その主人がいなくなってからも、長い歳月を経て朽ちつつある屋敷の庭にあっても昔と同じままに、今も猶あなたを慕って美しく咲き匂っていますよ

という歌を詠んで、不如意に生きざるをえなかった惟喬親王の魂を鎮めようとした。

皇后高子や業平とはゆかりの深い大原野神社は、我が家とはつい眼と鼻の先にある。今度訪れる折があれば、伊勢物語の世界を思い出しながらゆっくり歩いてみたいと思っている。

05/07/08

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民主主義の人間観と倫理観(1)──より良き民主国家建設のために

2005年08月13日 | 政治・経済

民主主義の人間観と倫理観──より良き民主国家建設のために

      
民主主義の倫理観や人間観について述べようとすると、「民主主義に倫理観や人間観があるのですか」と問われたりする。もちろん、他の多くの重要な社会思想と同じように、民主主義にも、人間観や倫理観は含まれている。結論からいって、歴史的にも社会的にもこれほど重要な役割を果してきた民主主義のような思想に人間観や倫理観が含まれないと考えるほうがおかしいのではないでしょうか。こんな質問を受けること自体、日本の民主主義の伝統の浅さや、学校での民主主義教育の貧しさを推測させるものと思います。


民主主義とは、語源からすれば、民衆の権力、人民の支配と言う意味ですが、起源としては、古代ギリシャが考えられています。しかし、現代の民主主義は、古代ギリシャではなくフランス革命とイギリス・プロテスタンティズムに直接の根拠を持つと考えられます。そして、ことばは同じ民主主義であっても、フランス革命の人民主権の色彩の強い政治的民主主義と、個人の尊重や社会構成員の権利の平等を強調するプロテスタントの社会的民主主義は区別されるべきでしょう。


民主主義とは、基本的人権の尊重や法の下の平等、納税や兵役の義務などといった個人と共同体の関係のあり方を規定する倫理観や人間観の体系といってよいと思います。この民主主義は、経済的弱者や被抑圧者を母胎とする思想であるいえます。今日の社会に当てはめれば、勤労者や一般消費者の論理を代弁する価値観といえます。


それに対して、 自由主義とは、簡単に定義すれば、人間の欲望を無制限に追及することを肯定する人生観、倫理観といえます。この思想は、歴史的には産業ブルジョアジーの考え方として登場したものであり、したがって、この主義は、今日の社会では、いわゆる資本家=生産者の論理を代弁することになります。


こうした自由主義観や民主主義観は、これらの思想の母体となった特に欧米では自明の前提だったのではないでしょうか。そして、逆にこうした本質的な理解を欠いたままに、浅薄な議論が行われてきたことが、日本で「民主主義」の信用を貶めることになったのではないでしょうか。不幸なことだとも思います。



ところで、民主主義の倫理観についてですが、これは日本国憲法においても「納税の義務」、「教育の義務」、「労働の義務」「生存権や財産権の保障」などに現われています。これらは共同体の個人に対する義務や個人の共同体に対する義務を規定したものです。納税の義務や労働の義務や教育の義務は比較的にわかりやすいと思います。国民の国家や共同体に対する倫理的義務を示しています。封建時代の年貢制度などと比較されると民主主義の倫理観がどのようなものであるかわかると思います。


儒教道徳を根底にした封建社会の倫理とは違って、民主主義には「個人としての尊重」や「基本的人権の尊重」や「法の下に平等」「他者の自由の尊重」といった人間観、倫理観が根底にあります。これらの権利義務は強制によるものではなく、民衆の多数決原理によって自ら制定した法律に基づく自発的意思によるものです。



中でも、民主主義国家の国民の国家に対する倫理的な義務を規定した納税の義務などについては、日本では、ほとんどが「源泉徴収」によって行われているので、国家や公共団体に対する国民の倫理的な義務は自覚されにくくなっていると思います。全国民が一律に「収入の10パーセント」を納付することなど、税制を根本的に簡素化し、また源泉徴収制度も廃止し、国民の自主的な納付制度に改革すれば、国民の民主的な自覚も少しは高まるかもしれません。
 

そして、国民の国家に対する倫理的な義務の最たるものである「兵役の義務」があります。しかし、日本国憲法には、その成立の特異性ゆえに、「兵役の義務」については規定されていません。民主主義にとってあまりにも自明な「兵役の義務」が規定されていないのです。本来、民主主義国家では、国民は何よりも、国家国民のために、自ら国防の任務を負うのです。


封建社会や絶対主義国家では、武士や軍隊が主君である大名や天皇のために国防の使命を負いましたが、民主主義国家では国民全体が国民自身のために、その責任を担います。国防のために兵役の義務を果すことは、民主主義国家の国民にとってはあまりにも自明のことです。兵役に従事し、身命をとして国家国民のために奉仕すること、これ以上の倫理的義務があるでしょうか。封建社会や絶対主義国家には、国民全体にこうした意識はありません。そして、現在の日本人の「民主主義」には、この倫理観が完全に欠落しているのです。



民主国家の事例としてスイスが取り上げられますが、スイスの国防の実体は、「軍事国家」といえるほどのものです。これが、歴史的に典型的な民主主義国家の実際です。「徴兵制」(正しくは志願制兵役)や「愛国心」などというと、いわゆる「右翼的な思想」の専売特許のように思われていますが、論理的に考えて、民主主義国家の国民の愛国心ほど強いものはありません。もしそうでないとすれば、その国家は名目はとにかく、実質的には「民主主義国」ではないのです。なぜなら、民主主義国家であるほど、その政府は、国民に奉仕する存在となり、また、その国家は一般国民にとって暮らしやすい幸福な国になるからです。国家や政府からの恩恵を十分に自覚している国民は、なにも政府から強制されることがなくとも、もっとも愛国的な国民になります。


また、民主主義は伝統文化を尊重するものです。その倫理観からも、私たちの祖国と祖先の、動かすことのできない過去の伝統文化を、その宗教や習俗を尊敬し愛することのない民主主義があるのでしょうか。民主主義の原則が、単に空間的にだけではなく時間的にも歴史的にも貫かれれば、当然の論理的帰結としてそうなります。「戦後の民主主義」が、日本の伝統文化を破壊しているというのは、民主主義の思想の本来的な欠陥から来るのでしょうか。あるいは、民主主義を、浅薄にしか理解しなかった国民の、特に自称左翼の責任でしょうか。


こうした民主主義観が真に基礎を得るには宗教が必要なのですが、残念ながら、日本ではその基礎を欠いていたといえます。宗教抜きの民主主義は、今日の日本のような「欲望民主主義」「悪平等民主主義」になりがちです。明治の指導者は、民主主義の人間観や倫理観を拒絶して、あるいは理解しないで、天皇制や「教育勅語」などによって、当時の道徳的危機を打開しようとしました。その結果が、民主主義国イギリスとの同盟ではなく、ヒットラーとの同盟となったのだと思います。この歴史的教訓を、それは歴史的必然と言ってよいと思いますが、深く学ばないと、かってのドイツと同じように、再び同じ結果を招くことになると思います。


特に、日本の民主主義は、太平洋戦争による敗北を契機に日本国民に導入されたために、多くの点で、歪曲され、浅薄化していると思います。というよりも、民主主義の概念が、いわゆる左翼から右翼まで混乱しています。イギリス・プロテスタンティズムを基盤とする「社会的民主主義」については、古代ギリシャ民主主義やフランス革命の「政治的民主主義」と区別するために、これを「共和主義」と呼んだほうがよいかもしれません。いずれにせよ「民主主義とは何か」という本質的な論議と認識をいっそう深める必要があると思います。



そして、民主主義には、多くの伝統的な宗教や倫理道徳にも共通する、もっとも普遍的な人間観や倫理観が含まれているのですから、国民はこの民主主義の倫理観、人間観によって自分たち国民を教育すればよいのです。確かに、民主主義には、「あなたの父母を敬え」とか「殺すなかれ」とか「盗むな」といったこと細かな倫理規定まで含むものではありませんが、しかし、基本的人権の尊重とか、個人の尊厳、少数意見の尊重というような根本的な倫理観は含まれているのです。



そうして国民全体の民主主義についての認識を高め、民主主義によって自己教育を深めて行きながら、同時に、民主主義政治が衆愚政治や全体主義に反転することを防いでゆく必要があるのですが、それには、民主主義の概念を国民全体で深く体得しつつ解決して行くしかないと思います。これはプラトン以来の人類の困難な課題なのかも知れません。ニーチェの思想やマルクス主義などの「全体主義」も、その解決法が正しいかいなかはとにかく、端緒は衆愚政治に対する抵抗でした。

 
歴史的には民主主義はプロテスタント・キリスト教の論理的帰結、もしくはその完成、もしくはその世俗化であるともいえます。ですから、そこには当然、キリスト教の倫理観、人間観が内容的に保存されているのです。ですから、民主主義は、宗教という形式を止揚した「宗教」ともいえます。(宗教をどのように定義するかによりますが)この点については、 私は実証的な歴史学者でもないので、論理的に推測するしかないのですが。とはいえ、民主主義の倫理観や人間観は、最も普遍的で、多くの伝統的宗教や倫理道徳の最大公約数としての意義ももっています。



最後に、 さらに逸脱するかも知れませんが、 大学や教育者、政治家、公務員、そして国民自身の責任として、学校教育における正しい民主主義教育の必要について主張したいと思います。最近一部の人には評判の悪い、古色蒼然とした「民主主義」ですが、そのせいか、人間観や倫理観としての観点からの民主主義教育の重要性が自覚されてもいず、実行もされていません。これは学校で「道徳の時間」に民主主義の訓練がほとんど行われていないことにもあらわれています。


共産主義者の「民主主義観」に対する大衆の健全な反感が、民主主義の健全な育成の障害になったのかも知れません。共産主義者の「唯物論人民民主主義」は、個人としての人格を尊重せず、学問、宗教、思想信条の自由を尊重する精神を欠き、自己の思想を相対化して反省することを知らない、全体主義的で狂信的なものだからです。


いじめの問題も学力低下の問題も、「クラス共同体」の問題として、子供たち自身が民主主義の精神とルールに従って、自主的に主体的に問題解決に取り組むための民主的な訓練の機会として活用すべきなのですが、指導者や学校に、そのような問題意識がありません。単に学校や教師自身の問題として、あるいは、その生徒個人の問題として扱われています。その結果、子供たちの倫理観も人間観も深まりません。「クラス共同体」の問題として、社会や共同体の倫理の問題としてクラス全体で主体的に取り組み解決しようという自覚も姿勢も欠いています。今日のこのような学校現場や、また日本社会全体としての一般的な道徳的危機を、正しい民主主義の人間観や倫理観の普及と徹底以外にどうして正しく解決で
きるでしょうか。


そして学校教育の現場では「政治活動」と「政治教育」とが混同され、はっきりと区別されてきませんでした。「政治活動の禁止」という名目で「政治教育」まで否定され行われてこなかったのです。確かに、学校教育においては、特定の価値観にしたがった「政治活動」は完全に禁止される必要があります。しかし、「政治教育」は、つまり民主主義の制度とその精神、その倫理観と人間観はあらゆる場面で教育され、民主主義の能力は訓練される必要があります。


いじめの問題や、生徒自身の学力の問題なども、生徒自身の参加と自治の精神を活用して、民主主義的に解決する能力を高めるよい機会になります。そのためには、なによりも特に学校関係者が 民主主義の制度と精神を、実際に活用し運営する「能力」として普段に高めてゆく必要があると思います。


学校でのこの民主主義教育の充実が、今日の「郵政民営化問題」や北朝鮮や中国などの「非民主的国家」との外交のあり方、「北朝鮮の拉致被害者の救済」といった、政治的な課題に対する国民の問題解決能力を高めることになります。年金問題や少子高齢化問題といった政治的課題についての、国民の判断能力や問題解決能力を高めることになります。


そして、今日の政党政治を、利権がらみの錯綜し閉塞したものから、もっと合理的なものに再編して行く必要があります。先にも述べたように、今日のいわゆる「市民社会」は、基本的に生産者、資本家と消費者、勤労者の利害の対立と調和の上に構成されているのですから、生産者、資本家の利害を代表するのか、それとも、消費者、勤労者の利害を代表するのか、政治家にその旗幟を鮮明にさせ、それぞれの旗幟にしたがって、自由党と民主党に結集させ、民主主義の原理にたつ二大政党が国家と国民のために、政治の質を競いあわせるようにするのです。そのためにも、現在の自由民主党は、解体されて、自由党と民主党になり、現在の岡田民主党をも巻き込んで、今一度政界が再編成される必要があります。


そして、生産者、資本家の利益を代弁する自由党と消費者、勤労者の利益を代弁する民主党のそれぞれが国民のための政治を目指して競争し合うことです。
それが、劣悪な政治という長年の不幸から国民を救うことにもなると思います

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