近いうちに、ココログへの掲載を中止するつもりです。それで、これまでにココログで薔薇と十字架(SORA)というタイトルで書いてきたブログ記事を、転載しました。05/08/13
近いうちに、ココログへの掲載を中止するつもりです。それで、これまでにココログで薔薇と十字架(SORA)というタイトルで書いてきたブログ記事を、転載しました。05/08/13
人間は通常は必ずしも複雑で確固とした思想をもって生きているわけではありません。しかし、生活の中に原則や信条があれば、より揺るぎなく生きてゆけるのではないかと思います。私が生活してゆく上で必要な基本原則のようなものを考えてみまました。おおよそのところ、次のようなものになると思います。さらに、より良い生活原則ができれば改訂してゆきたいと思います。単純であっけないものですが、今のところ、次のような信条で、過ごしてゆこうと考えています。皆さんも、ご自分の生活信条をおつくりになればいかがでしょう。
私の生活五箇条
一、主なる神を敬愛せよ。
二、他人を愛せよ。
三、私だけが私の主人である。汝の道を行け。
四、自分の城を守れ。
五、生活を楽しめ。
命のはかなさは桜の花にたとえられる。本当にそのとおりで、たった一日見なかっただけなのに、あれほど満開だった桜の花が、今朝見るとすでにほころび、その花々の間から新芽が見える。朝晩はまだしも、昼中はすっかり寒さも和らぎ、春爛漫の時期に入る。
桜の花のことで西行のことを思い出し、久しぶりに彼の歌集を開いた。釈迦入寂と時を同じくして如月満月のころに、かねての願いどおりに桜の花の下に逝った西行らしく、桜を愛でた歌には事欠かない。
自然が春の命に脈動する様子を歌ったのは次の歌である。花と鳥が、春の到来を受けて共に和して生命を謳歌する。ここに植物と動物がこぞって神の創造を賛美する姿を見る。
70 白川の 春のこずゑの うぐいすは 花のことばを 聞く心地する
平明な歌で、何の注釈もいらない。花の名所で有名な京都白川を通り過ぎようとした時のこと、桜の梢で囀っている鶯の鳴き声を聴いたとき、あたかも桜が私に語り掛けて来るような気がしましたよ、という。単純なことばで、美の極地を現す。
今年も西行を忘れずにやって来た春を前にして、あらためて、彼の精神的な内面を知らされるのは次の歌である。俗名佐藤義清は武士の身分も妻子をも棄て、その名の通り、西方浄土を求めて旅に出た。そうして、この世の思い煩いをすっかり棄てて自由な身になったはずなのに、桜の花に対する執着だけは棄てきれないでいる。そして、あらためて、煩悩の源である自分の心の執着の深さに気づかされて歌う。
76 花に染む 心のいかで 残りけん 捨て果ててきと 思ふわが身に
花に執着する心がどうしてこんなに強く残っているのでしょう。すべてを振り捨てて出家してきたと思っていた私でしたのに。
もちろん、春を感じさせるのは、花ばかりではない。雨も、しとふる春雨もさらにしみじみと春の物思いに耽けさせる。岸辺にうな垂れ、風に乱れる新緑の柳は、自由になろうと釈迦の跡を慕って出てきたのに、かえって在家のときよりもさらに矛盾する西行の心を思い乱れさせる。
53 なかなかに 風のほすにぞ 乱れける 雨に濡れたる 青柳の糸
しっとり雨に濡れて岸辺に佇んでいるみずみずしい新緑の柳を、風は親切に吹いて乾かせてあげようとしてくれるのですが、そのためにいっそう柳の心は思い乱れるのです。
月日の経つのは早いものです。もう今年も三月になりました。今日は久しぶりにゲオルグ・フィリップ・テレマンの音楽を聴きました。勘違いしていて、この作曲家はバッハの後の作曲家とばかり思っていたのですが、そうではありませんでした。テレマンがライプチッヒのトーマス教会の合唱指揮者の職を断ったために、その後任としてバッハがオルガン奏者として穴埋めにその地位に就いたのだそうです。ですから、テレマンはバッハとは同時代人か、多少先輩にあたると言うことになります。
今日は、彼の「ターフェルムジーク(食卓の音楽)」を聴いたのですが、とても自然で、技巧を感じさせず、モーツァルトの音楽を聴いたときと同じような快い感覚をもたらす音楽です。「食卓の音楽」とありますが、当時の人は、このような音楽を聴きながら食事をしたのでしょうか。難しいことを考えずに、純粋に音の世界を楽しむ、しかも、おいしい料理といっしょに味わうことは、きっとこの世にありながら、生きながらにして至福のひととき経験することになるのかも知れません。
今日は机の上でワープロを打ちながら聴いたのですが、次回は、この音楽の題名の「食卓の音楽」にふさわしく、食事をとりながら聴いてみようかなと思っています。所々、バッハの音楽を思わせるような個所もあります。やはり同時代人なのでしょう。クラシック音楽を聴いたのは久しぶりです。最近は、ポップスが中心でした。私の好きな歌手は、ダイアナ・ロス、クリス・レアなど。宮崎アニメソングも聴いていて楽しいです。最近では「冬のソナタ」のテーマソングなども聴いています。とても美しいと思います。残念なのは、最近の日本には本当に良い曲だなと感じる作品が少なくなったと思うことです。それとも、私の耳が時代遅れになっただけでしょうか。最近聴いていないビバルディやモーツァルト、やはり繰り返し聴く音楽は限られるようです。
昔書いた書評を少しずつ、ワープロに打って、ホームページに載せて行こうかなと思っています。今日は、栄光学園の校長先生だったグスタフ・フォス神父の『日本の父へ』という本の書評をワープロで打ち、ネットに載せました。1988年5月9日に書いたことになっていますから、17年前に書いたことになります。こうした本やテーマを取り上げたところに昔の私の興味や関心、問題意識がどんなところにあったかが分かります。今そうした書評を読み直しても、きわめてお粗末な書評だと思います。物足りないところがありますが、当時の文章をそのまま載せるようにつとめました。また折りがあれば、書きなおすか、追加したいと考えています。
幸いにしてと言うべきか、私はこうして地震にも津波にも襲われずに、命長らえて生きています。しかし、一歩一歩死に向かって行進している事実には変わりありません。昨年末のインド洋大津波で亡くなった10万人以上の人々との違いはただ時間の問題だけだと思います。死なない人間はいないのですから。
それにしても、亡くなった方々にも、きっと遣り残したことが多くあって、とても心残りだっただろうと思います。生き残っている私も限られた貴重な時間を本当に有意義なことだけに使いたいと思っているのに、なかなか、そうは行かないのは、私の愚かさ弱さゆえです。心は熱していても、肉体は弱いのです(マタイ書26:41)。どうか肉の弱さに打ち勝つことができますように。