真珠

深海の真珠は輝かず。

至高の国家形態

2006年04月03日 | 時事評論

皇室典範の改正問題を小泉首相が提起することによって図らずも、国民の世論が分裂しかねない危機を招いている。愚かなことである。最低の政治的な選択というほかはない。皇室典範(伝統として確立された「自然法」としての)については、本来的に改変ということはありえない。なぜなら、皇室典範の概念からいってそれは過去を踏襲し、将来に世襲してゆくこと自体に意義があるからである。この問題について前に論じたことがある。

男系天皇制か女系天皇制か──皇室典範に関する有識者会議をめぐる議論

保守と改革──守るべきもの改めるべきもの

これらの問題について、もう少し考察してみたい。

至高の国家形態とは、すなわち国家の概念は、その現実的な形態としては立憲君主制を取る。それは自由秩序が相互に緊張しながら調和している国家である。

自由は人間にとって至高のものであって、人間にとって光や空気がなければ肉体が死ぬように、精神的な存在である人間にとっては、自由がなければ精神は死ぬのである。だから自由のない国家は悲惨である。

しかし、神ならぬ人間はこの自由を正しく行使できず逸脱する。自由は専横でもなければ恣意でもない。自由とは守るべき秩序を正しく守ることがほんとうの自由である。

しかし、フランス革命や中国、カンボジアの文化大革命に見られたように、秩序なき「自由」において人間の悪は往々にして多数者の暴虐に帰結する。それは、過去の革命国家に例を見るように、いわゆる「人民民主主義」国家が、国家としての概念に一致せず、いわば奇形国家だからである。そうした国家ほど国民に不幸をもたらすものはない。

もっとも完成され調和の取れた、理念として正しく安定した国家は、君主の人格の中に国家全体の秩序を見る国家である。この秩序の中に国民の自由は最大限に確保されるのである。

秩序は君主制において実現される。君主制の中でも、もっとも純粋な君主制は一系君主制である。人間は男性と女性しかないから、現実には男系君主制か女系君主制かのいずれかでしかない。日本は伝統的に男子一系君主制に従ってきた。そして、君主制とは世襲そのものに意義があるから、日本にとっては従来どおり男系君主制を過去と同様に未来においても持続することがもっとも正しい選択である。もし日本が伝統的に女子一系君主制をとってきたのであれば、将来においても女系君主制を維持してゆくのが最善の選択である。男女同権とか男尊女卑といった、悟性的な浅薄な論議ではない。


欧米にも君主制があるが、それは、日本の男子一系君主制ほどその世襲は純粋なものではない。にもかかわらず、わが国が世界にもまれに貴重な男子一系世襲制を取り替えて、そこに女系君主制を導入するのは、世襲制の純粋を損なうものであって、君主制の本来の概念からいって、改悪というほかはない。それは、タリバンのバーミヤンの佛像破壊などとは比較にならない、過去の貴重な伝統遺産の破壊以外の何ものでもない。小泉首相をはじめ「有識者」と称される人々は、悟性的な理解力しか持たない人には、それが理解できないのである。君主制の価値を正しく理解するのは最も困難なことである。(欧米人の多くも理解できない)

明治の大日本帝国憲法で、伊藤博文は、「立憲君主制」の理念にしたがって、日本国を、正しい国家概念へと、「至高の国家」へと形成するのに少なからず貢献した。しかし、「立憲制」についての、すなわち「民主主義」について、伊藤博文をはじめ国民の理解に未熟と欠陥があったために、昭和の初期に、正しい「立憲制」を逸脱して「全体主義」にいたる道を開けてしまった。

自由とは共同体の意思が国民の個々の意思と一致することにある。民主主義が自由と不可分の関係にあるのはそのためである。戦前の大日本帝国憲法の「立憲君主制」では、その「立憲」における民主主義の未熟のために、「全体主義」を許し、太平洋戦争の開戦を抑止し切れなかった。現在の日本国憲法が今後改正されるに当たっても、この過去の教訓に深く学んで、より完成された民主主義と君主制にもとづく「立憲君主制」の理念を新しい憲法で追求してゆく必要がある。

曲がりなりにも保持しているわが国の「立憲君主国家」体制は、至高の国家体制である。日本国民は、自らの国家体制に誇りを持つべきであるし、さらに、国家と国民は「立憲君主制」国家の理念を追求してゆくべきだと思う。

アメリカなどに見られるような大統領制国家は、剥き出しの市民社会国家であって、ただ多数であることだけが「真理」とされる、恣意と悟性の支配する、往々にして品格と理性に欠ける国家であることを日本国民は忘れるべきではないだろう。

2006/02/09

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男系天皇制か女系天皇制か──皇室典範に関する有識者会議をめぐる議論

2006年04月02日 | 時事評論
 

皇室典範に関する有識者会議での答申が小泉首相に提出され、そこでの結論が、女性天皇と女系天皇を肯定したものであったことから、天皇制の伝統を破壊するものであるといった批判的な意見が出て来ている。それと同時に、一方で、男女同権の現代の時代の趨勢に合致して賛成だといった意見に至るまで、さまざまな議論が出ているようである。

しかし、天皇制についての本質的な、理性的な、あるいは同じことであるが哲学的な論証に基づく議論はあまり多くないように思われる。

天皇制の問題の考察には、国家の概念が前提になるし、それを前提にしない議論は、必然性の証明や論証のない軽佻浮薄なものにならざるを得ないと思う。

国家の本質からいえば、君主制は必然的に出てくるものであるし、また、そうであるなら君主の本質からいってもっとも妥当であるのは、男系による天皇制以外にはありえないということになるだろう。ここでは、その具体的な論証をおこなう余裕はないが、国家にとって君主制が必然的であるとするならば、その君主は必然的に男系でなければならないのである。君主制の本来の概念とはそういうものである。日本の歴史がそれを実証してきた。それは、哲学的に論理的に絶対的であって、それ以外にありえないものである。それは国家の概念から必然的に出てくるものであるから。

だから、男系は「男女同権」の現代思想に合致しないからとか、皇室の安定性を図るためには、長子や女子の継承が認められなければなければならないといった議論は、すべて本末転倒した本質を見ない議論であると言わざるを得ない。

天皇制の議論の本質は、国家の秩序の問題から論じる必要があり、この秩序が国民の福祉に絶対的に不可欠なものであるという要請からくるものである。だから、この観点を外した、皇室典範に関する議論は誤ったものにならざるを得ないと思う。

今回の有識者会議の議論は、やはり拙速に過ぎると思う。議論の内容は、少数意見か多数意見かといった数量的に「民主的」に決せられるべき事柄ではなく、その判断が真理であるかどうか、その判断の質だけが問題にされるべきものであるから。もっと時間をかけて、そして有識者の選抜そのものにも、もっと議論を深めるべきであると思う。

2005/12/06

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保守と改革──守るべきもの改めるべきもの

2006年04月01日 | 時事評論
 

ここ二三日寒い日が続く。今日は最低気温が零度を下回った。

昨夜、中川八洋氏の『日本核武装の選択』を読む。中川氏は現代の著作家のなかでも気にか掛かっている一人である。だが著書をまともに読んだのははじめてである。書店などで立ち読みしたときの印象では、反進歩主義者の保守派で、特にイギリスの保守的な思想家、エドマンド・バークの考え方に共鳴されているようである。反ヘーゲル主義者でもあるようだ。書評は書いておこうと思っている。

また、最近の皇室典範の諮問会議で答申をうけて、男系天皇か女系かと問われているなかで、すでに中川氏は今日を見越して、自身の見解を著書に明らかにされているようである。

どんな物事にも改めるべきものと守るべきものがあると思う。それは、単に個人について言えるばかりではなく、社会についても言えるのではないだろうか。

最近の日本の政治改革でも、郵政改革やその他の小泉改革は断固として推進されるべきだが、男系天皇などは必ずや守られなければならない伝統であると思われる。何が改められ、何が守られるべきか、この問題についての理性的な判断が重要であると思う。

2005/12/14

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