真珠

深海の真珠は輝かず。

ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第四十六節[現実的な義務]

2022年05月04日 | 哲学

 

§46

 

Durch die intellektuelle (※1)und moralische Bildung erhält der Mensch die Fähigkeit, die Pflichten gegen Andere zu erfüllen, welche Pflichten reale(※2) genannt werden können, da hingegen die Pflichten, die sich auf die Bildung beziehen, mehr formeller (※3) Natur sind.

§46[現実的な義務]

人間は知性的な教養と道徳的な教養を通して、他者に対する義務を果たす能力を手に入れる。こうした他人に対する義務は現実的な義務と呼ぶことができる。それに対して、教養に関わる義務は、より形式的な性質のものである。


(※1)

intellektuelle  Bildung  知的な教養
moralische  Bildung 道徳的な教養 


(※2)

 reale  と formelle 内容と形式

(※3)

「知的な教養」は多くは「実学」と呼ばれる教育によって培われる能力であり、
「道徳的な教養」は道徳や宗教教育を通して得られる、思いやりや協調性といった能力や性格の育成と考えることができる。

 

 

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(CNN) -- Is it ISIL, ISIS or Islamic State?

2014年10月07日 | 時事評論

 

(CNN) -- Is it ISIL, ISIS or Islamic State?

Whatever you call the jihadist group known for killing dozens of people at a time, carrying out public executions, beheadings, crucifixions and other brutal acts, there is no denying they have captured the world's attention.

On the eve of President Barack Obama's speech outlining Washington's strategy against the group, in which he will likely refer to it as ISIL, we ask: What's in a name?

It all started in 2004 when the late Abu Musab al-Zarqawi formed an al Qaeda splinter group in Iraq. Within two years, al-Zarqawi's al Qaeda in Iraq was trying to fuel a sectarian war against the majority Shiite community.

Terrorists finding recruits in Canada

Why is U.S. not targeting ISIS leaders?

Twitter: Looking into terror threats

In June 2006, al-Zarqawi was killed in a U.S. strike. Abu Ayyub al-Masri, his successor, several months later announced the creation of the Islamic State in Iraq (ISI).

In April 2013, Islamic State in Iraq absorbed the al Qaeda-backed militant group in Syria, Jabhat al-Nusra, also known as the al-Nusra Front. Its leader Abu Bakr al-Baghdadi said his group will now be known as Islamic State in Iraq and the Levant. Since then, the English-speaking world seems to have had a hard time settling on a name for them.

ISIL

President Obama, the United Nations and some news organizations refer to the jihadist group by the acronym ISIL, which stands for Islamic State in Iraq and the Levant.

CNN Global Affairs Correspondent Elise Labott said the U.S. has stuck with ISIL because the group appears to have to set it sights beyond Iraq and Syria. And also because Washington doesn't want to recognize their plans for a caliphate.

CNN national security analyst Peter Bergen believes ISIL is a more accurate translation of the group's name.

The 'L' stands for Levant which is a translation of "al-Sham" -- the word the group uses to refer to itself, Bergen said.

"But the Levant is a relatively obscure word in English -- in English, we refer to Syria. Of course, the Levant is larger than Syria," Bergen said.

"We believe this is the most accurate translation of the group's name and reflects its aspirations to rule over a broad swath of the Middle East," said John Daniszewski, vice president and senior managing editor for international news for The Associated Press, according to an AP blog post.

Al-Sham is a reference to a region that stretches from Turkey through Syria to Egypt and includes the Palestinian territories, Jordan and Lebanon, according to Rashid Khalidi, a Columbia University professor and expert on Syrian history.

Part of the confusion stems from the fact that al-Sham has many meanings in Arabic.

Khalidi said: "How you translate 'al-Sham' determines whether you have an 'L' or an 'S' in English. It's the same word in Arabic. How you translate the term into English determines if you're of the 'ISIL' camp or the 'ISIS' camp. The Levant, which can extend from northern Egypt to Greece, is not as precise."

On the United States government's use of ISIL, Khalidi surmised: "Maybe because you don't want to give the dignity of the name that they give themselves."

Nawaf Obaid, a visiting fellow at the Belfer Center for Science and International Affairs at Harvard University, said via email that ISIL is preferable in English "to make it clear to a Western audience."

Levant denotes Syria and Lebanon in Arabic, "so better to stick to ISIL and clarify that it's the same as ISIS, but a more accurate translation from the Arabic," he said.

ISIS

ISIS is an English translation of the acronym in Arabic for Al-Dawla Al-Islamiya fi al-Iraq wa al-Sham, or the Islamic State in Iraq and al-Sham.

The organization has said its goal is to form an Islamic state, or caliphate, over the entire region, stretching from Turkey through Syria to Egypt and including the Palestinian territories, Jordan and Lebanon.

Some think ISIS flows better as a word in English. It also happens to be the name of one of a goddess of ancient Egypt.

CNN has been referring to the organization as ISIS, shorthand for the Islamic State in Iraq and Syria.

Arabic speakers say al-Sham can be translated to mean the Levant, Syria, greater Syria, and even Damascus.

Islamic State

The jihadists like to refer to themselves simply as the Islamic State, a term more accurately reflecting the organization's aspirations of creating a caliphate across national borders.

They prefer to be known either as the Islamic State -- al-Dawla al-Islamiya in Arabic -- or just the State, al-Dawla. That is what they call themselves in online videos.

DAIISH

Finally, a lesser-known acronym to Western readers: DAIISH. It is the straight Arabic shorthand for the group known as: al-Dawla al-Islamiya fi Iraq wa al-Sham, commonly used in the Arab world and among many Arab media outlets and politicians.

When people in the Arab world, use the term DAIISH, it's derogatory, according to Columbia's Khalidi.

"Those who disagree with them, call them DAIISH," Khalidi said, adding that the jihadists have objected to the name.

 

※出典

http://goo.gl/MQrpRt

 

 

 

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至高の国家形態

2006年04月03日 | 時事評論

皇室典範の改正問題を小泉首相が提起することによって図らずも、国民の世論が分裂しかねない危機を招いている。愚かなことである。最低の政治的な選択というほかはない。皇室典範(伝統として確立された「自然法」としての)については、本来的に改変ということはありえない。なぜなら、皇室典範の概念からいってそれは過去を踏襲し、将来に世襲してゆくこと自体に意義があるからである。この問題について前に論じたことがある。

男系天皇制か女系天皇制か──皇室典範に関する有識者会議をめぐる議論

保守と改革──守るべきもの改めるべきもの

これらの問題について、もう少し考察してみたい。

至高の国家形態とは、すなわち国家の概念は、その現実的な形態としては立憲君主制を取る。それは自由秩序が相互に緊張しながら調和している国家である。

自由は人間にとって至高のものであって、人間にとって光や空気がなければ肉体が死ぬように、精神的な存在である人間にとっては、自由がなければ精神は死ぬのである。だから自由のない国家は悲惨である。

しかし、神ならぬ人間はこの自由を正しく行使できず逸脱する。自由は専横でもなければ恣意でもない。自由とは守るべき秩序を正しく守ることがほんとうの自由である。

しかし、フランス革命や中国、カンボジアの文化大革命に見られたように、秩序なき「自由」において人間の悪は往々にして多数者の暴虐に帰結する。それは、過去の革命国家に例を見るように、いわゆる「人民民主主義」国家が、国家としての概念に一致せず、いわば奇形国家だからである。そうした国家ほど国民に不幸をもたらすものはない。

もっとも完成され調和の取れた、理念として正しく安定した国家は、君主の人格の中に国家全体の秩序を見る国家である。この秩序の中に国民の自由は最大限に確保されるのである。

秩序は君主制において実現される。君主制の中でも、もっとも純粋な君主制は一系君主制である。人間は男性と女性しかないから、現実には男系君主制か女系君主制かのいずれかでしかない。日本は伝統的に男子一系君主制に従ってきた。そして、君主制とは世襲そのものに意義があるから、日本にとっては従来どおり男系君主制を過去と同様に未来においても持続することがもっとも正しい選択である。もし日本が伝統的に女子一系君主制をとってきたのであれば、将来においても女系君主制を維持してゆくのが最善の選択である。男女同権とか男尊女卑といった、悟性的な浅薄な論議ではない。


欧米にも君主制があるが、それは、日本の男子一系君主制ほどその世襲は純粋なものではない。にもかかわらず、わが国が世界にもまれに貴重な男子一系世襲制を取り替えて、そこに女系君主制を導入するのは、世襲制の純粋を損なうものであって、君主制の本来の概念からいって、改悪というほかはない。それは、タリバンのバーミヤンの佛像破壊などとは比較にならない、過去の貴重な伝統遺産の破壊以外の何ものでもない。小泉首相をはじめ「有識者」と称される人々は、悟性的な理解力しか持たない人には、それが理解できないのである。君主制の価値を正しく理解するのは最も困難なことである。(欧米人の多くも理解できない)

明治の大日本帝国憲法で、伊藤博文は、「立憲君主制」の理念にしたがって、日本国を、正しい国家概念へと、「至高の国家」へと形成するのに少なからず貢献した。しかし、「立憲制」についての、すなわち「民主主義」について、伊藤博文をはじめ国民の理解に未熟と欠陥があったために、昭和の初期に、正しい「立憲制」を逸脱して「全体主義」にいたる道を開けてしまった。

自由とは共同体の意思が国民の個々の意思と一致することにある。民主主義が自由と不可分の関係にあるのはそのためである。戦前の大日本帝国憲法の「立憲君主制」では、その「立憲」における民主主義の未熟のために、「全体主義」を許し、太平洋戦争の開戦を抑止し切れなかった。現在の日本国憲法が今後改正されるに当たっても、この過去の教訓に深く学んで、より完成された民主主義と君主制にもとづく「立憲君主制」の理念を新しい憲法で追求してゆく必要がある。

曲がりなりにも保持しているわが国の「立憲君主国家」体制は、至高の国家体制である。日本国民は、自らの国家体制に誇りを持つべきであるし、さらに、国家と国民は「立憲君主制」国家の理念を追求してゆくべきだと思う。

アメリカなどに見られるような大統領制国家は、剥き出しの市民社会国家であって、ただ多数であることだけが「真理」とされる、恣意と悟性の支配する、往々にして品格と理性に欠ける国家であることを日本国民は忘れるべきではないだろう。

2006/02/09

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男系天皇制か女系天皇制か──皇室典範に関する有識者会議をめぐる議論

2006年04月02日 | 時事評論
 

皇室典範に関する有識者会議での答申が小泉首相に提出され、そこでの結論が、女性天皇と女系天皇を肯定したものであったことから、天皇制の伝統を破壊するものであるといった批判的な意見が出て来ている。それと同時に、一方で、男女同権の現代の時代の趨勢に合致して賛成だといった意見に至るまで、さまざまな議論が出ているようである。

しかし、天皇制についての本質的な、理性的な、あるいは同じことであるが哲学的な論証に基づく議論はあまり多くないように思われる。

天皇制の問題の考察には、国家の概念が前提になるし、それを前提にしない議論は、必然性の証明や論証のない軽佻浮薄なものにならざるを得ないと思う。

国家の本質からいえば、君主制は必然的に出てくるものであるし、また、そうであるなら君主の本質からいってもっとも妥当であるのは、男系による天皇制以外にはありえないということになるだろう。ここでは、その具体的な論証をおこなう余裕はないが、国家にとって君主制が必然的であるとするならば、その君主は必然的に男系でなければならないのである。君主制の本来の概念とはそういうものである。日本の歴史がそれを実証してきた。それは、哲学的に論理的に絶対的であって、それ以外にありえないものである。それは国家の概念から必然的に出てくるものであるから。

だから、男系は「男女同権」の現代思想に合致しないからとか、皇室の安定性を図るためには、長子や女子の継承が認められなければなければならないといった議論は、すべて本末転倒した本質を見ない議論であると言わざるを得ない。

天皇制の議論の本質は、国家の秩序の問題から論じる必要があり、この秩序が国民の福祉に絶対的に不可欠なものであるという要請からくるものである。だから、この観点を外した、皇室典範に関する議論は誤ったものにならざるを得ないと思う。

今回の有識者会議の議論は、やはり拙速に過ぎると思う。議論の内容は、少数意見か多数意見かといった数量的に「民主的」に決せられるべき事柄ではなく、その判断が真理であるかどうか、その判断の質だけが問題にされるべきものであるから。もっと時間をかけて、そして有識者の選抜そのものにも、もっと議論を深めるべきであると思う。

2005/12/06

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保守と改革──守るべきもの改めるべきもの

2006年04月01日 | 時事評論
 

ここ二三日寒い日が続く。今日は最低気温が零度を下回った。

昨夜、中川八洋氏の『日本核武装の選択』を読む。中川氏は現代の著作家のなかでも気にか掛かっている一人である。だが著書をまともに読んだのははじめてである。書店などで立ち読みしたときの印象では、反進歩主義者の保守派で、特にイギリスの保守的な思想家、エドマンド・バークの考え方に共鳴されているようである。反ヘーゲル主義者でもあるようだ。書評は書いておこうと思っている。

また、最近の皇室典範の諮問会議で答申をうけて、男系天皇か女系かと問われているなかで、すでに中川氏は今日を見越して、自身の見解を著書に明らかにされているようである。

どんな物事にも改めるべきものと守るべきものがあると思う。それは、単に個人について言えるばかりではなく、社会についても言えるのではないだろうか。

最近の日本の政治改革でも、郵政改革やその他の小泉改革は断固として推進されるべきだが、男系天皇などは必ずや守られなければならない伝統であると思われる。何が改められ、何が守られるべきか、この問題についての理性的な判断が重要であると思う。

2005/12/14

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永遠の命──ヨハネ書第六章第四十節

2006年03月31日 | 宗教

私の父の御心は、子を見て信じる者がすべて永遠の命を保つことであり、終わりの日に私が彼を蘇らせることである。

 

父──天に在られる父なる神、創造主。
子──イエス。キリスト。創造主を父とする者。
御心──望み、成し遂げようと欲しておられる気持ち。
信じる──真実であると考えること、事実として認めること。
永遠の──始まりも終わりもないこと。時間を超えていること。
命──絶対的な豊かさ。生き生きとした活動性。死んでいないこと。
私──イエス。人間性をまとったロゴス(理性)。受肉した神。
終わりの日──時間の終わる時。最後の審判が行われて神の国が完成する                    日。
蘇り──死んで横たわっていたものが起き上がること。死から生き返る              こと。

ヨハネ書第六章には、イエスがいくつか奇跡を行ったことが記されている。一つは大麦のパン五つと魚の二匹で、五千人の群集を満腹させられたことである。もう一つは、イエスが湖の上を歩いて、沖合いの舟のところまで歩いて来られたことである。

イエスに満腹させてもらった群集は、彼を自分たちの王にして、引き続き飢えを満たせてもらおうとしてイエスを探し回っていた。イエスの奇跡の意味を理解したからではなかった。
イエスを見つけ出した彼らは言った。「先祖のモーゼが天からパンを降らせたように、私たちにもそのパンをください。」
すると、イエスは「私が命のパンである。私のところに来る者は、飢えることも渇くこともない。」そして言われた。「私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を保ち、私は彼を終わりの日に蘇らせる。活かすものは神の霊であり、人の肉は役に立たない。私の話した言葉こそ、聖霊であり命である。」


この話を聴いたときから、多くの弟子たちがイエスのもとを離れて去っていった。信じられなかったからである。父なる神は彼らがイエスのもとに来ることをお許しにならなかった。

2006/3/18

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書評  藤原正彦『国家の品格』3

2006年03月19日 | 書評

だから、藤原氏が第三章の末尾で、「もちろん民主主義、自由、平等には、それぞれ一冊の本になるほどの美しい論理が通っています。だから世界は酔ってしまったのです。論理とか合理に頼りすぎてきたことが、現代世界の当面する苦境の真の原因と思うのです。」(p94)と言うときも、その洞察に思わず微笑せざるをえないし、また、それに続く第四章で、その苦境の「一つの解決策として」「日本人が古来から持つ「情緒」あるいは伝統に由来する「形」」を藤原氏は提示しておられるけれども、(p95)それらが、現代世界の「苦境」を根本的に解決する能力も可能性もないことについては、ここではこれ以上に論証するつもりはない。

ただ、この藤原氏の主張が、「情緒の過剰」と「論理と合理の欠乏」という日本人の民族としての根本的な弱点を拡大再生産することにつながらないことを願うばかりである。ここで「自然に対する繊細な感受性」や「世界一の庭師」や「茶道、華道、書道」などの伝統文化に藤原氏が誇りを持ち、それらにアイデンティティーを見出すのはもちろん自由であるが、その文化の反面は「ひよわな花」と形容されることも知るべきだろう。

また、現代日本の市民社会が退廃しているからという理由で、第五章で「武士道精神の復活」を主張され、志されること自体は、もちろん悪いことではないし、それなりに意義のあることかもしれない。しかし、もはや江戸時代の鎖国社会に後戻りもできない現代日本において、「近代的合理主義の欧米の精神や文化」の否定的な側面を「批判」するということは、そういうことではないと思う。

確かに、武士道の精神であれ、きっちりそれを日本人が実行できれば、それは欧米の「平均的な」モラル以上ぐらいは達成できるかもしれない。しかし、藤原氏が、この「武士道の精神」を「つまらない論理ばかりに頼っている世界の人々に伝えてゆかなければならない」と言って、「武士道の精神」から「論理と合理の精神」を排除するとき、この「武士道」の行き着く先は、先の世界大戦でのインパール作戦の悲劇の再演にしかならないだろう。

そして引き続く第六章で、「なぜ「情緒と形」が必要であるか」、その理由も説明しておられるが、ここでは、それにいちいち反論する意思も暇もないけれども、ただ、部分的には真実が語られているからこそ、この本が広く受け入れられていることになっている事は認めてよいと思う。

しかし、藤原氏が「情緒と形」という言葉で表現されている人間の「感性」という能力は、「悟性」や「理性」よりも低い動物的な能力であること、その分を弁えて、日本人の美しく素晴らしい繊細な「情緒と形」を主張するのでなければ、それは「おのれ誉め」にしかならず、それはすぐに「自惚れ」に転化することを知っておくべきだろう。それに、藤原氏は伝統やユーモアを重んじるイギリスの国柄やその美しい田園風景を評価され、イギリスの政治家のモラルの高さも認めておられるけれども、このイギリスも西欧の一国として、一面は近代的合理主義の精神の国であったはずである。「論理」と「情緒」は両立するし、させるべきものである。論理なき情緒は動物の情緒でしかない。

そして、藤原氏が「人間中心主義というのは欧米の思想です。欧米で育まれた論理や合理は確かに大事です。しかし、その裏側には拭いがたく「人間の傲慢」が張り付いています。」(p152)というとき、それは日本人が欧米人程度の傲慢さも持ちえないということでもある。それに傲慢であればあるほど謙虚さも深い。

また「閉塞感、虚脱感には、人間中心主義により自然が対立関係に陥った事実が深く影響」(p153)しているというとき、対立や分裂のない調和は、子供の調和でしかないし、対立や分裂が大きいだけ、快復した調和は深いということもある。一般に藤原氏に、こうした弁証法的な認識のないことが思考の弱点をなしていると思う。

「繊細な美的感受性の国」(p97)日本の現実の自然破壊(湾岸のコンクリート化や森林伐採を見よ)や風俗産業における女性の人身売買の現実は、「人間中心主義」の欧米よりも日本では深刻であるという事実を藤原氏はどのように説明されるだろうか。日本のパチンコ文化や都市景観の現実を見れば、日本人の「情緒と形」の精神の実際の現象形態がどういうものであるかがわかるだろう。果樹の良し悪しは、その結ぶ実によって分かると言うではないか。

藤原氏のように、「第二章で(自身の)論理の無力を説き、第四章で、それに代わるものとしての「情緒と形」を述べる」(p185)ことによって、果たして目的とする「国家の品格」が取り戻せるかどうか。

家族や友人たちとの人間関係において「論理」を優先するのは、おそらくアメリカなどの多民族の新興国であって、イギリスや日本のような多少なりとも伝統のある国ではその愚かさを国民は知っている。

そうではなく、国家のレベルで品格を取り戻すためには、政治や経済活動の公共の領域において、何が善で何が悪か、高い倫理と論理にもとづく正義を回復してゆくことである。その論理を主張するということは、もちろん「口角泡を飛ばす」ことなどではなくて(修道院の奥で行われる、静かで情熱的な論争がある)、自由や民主主義の哲学についての深い理解と高い論理的な構築力によって、より完成された立憲君主国を建設してゆくことによってである。

もし藤原氏が「自由と民主主義」を疑うのなら、それに代わる武士道の精神にもとづく「品格ある国家」がどのようなものかを具体化してゆく必要があるだろう。

 

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書評  藤原正彦『国家の品格』2

2006年03月18日 | 書評

先の章で藤原氏は、帝国主義や植民地主義を、さらには、資本主義の現代的形態である市場原理主義と、その根底にある近代的合理主義の精神の「破綻」について述べたあと、この「第三章」で、現代国家一般の基本的な理念である、自由、平等、民主主義に対する疑いと批判へ歩を進める。

とくに欧米人の「論理の出発点」である「自由」という概念がよく分からない藤原氏は(p66)、とくに戦後日本における「自由」という名の化け物のことさらな強調とその現実の帰結を見て、「どうしても必要な自由は、権力を批判する自由だけだ。それ以外の意味での自由は、このことばとともに廃棄すべきだ」とまで言う。(p66)

そして、この自由は、藤原氏にとっては、欧米人の「論理の出発点」であり、また、それはまた、欧米が作り上げた「フィクション」にすぎないという。(p67)

しかし、果たして自由は、藤原氏が言うように、フィクションなのだろうか。藤原氏は、福沢諭吉の自伝でも読んで、いわゆる近代的な自由のない封建的身分社会に暮らしてみることを想像してみるか、あるいは、現実に北朝鮮や共産主義中国に移住して、氏の欲するような言論活動に従事してみればよいのではないかと思う。そうすれば、「自由」がフィクションであるか否かが、体験によって分かるのではあるまいか。理論的に分からない子供は、旅をし体験して理解するしかないのである。

また、自由は、日本国憲法には、言論の自由、結社の自由、職業選択の自由などと具体的に規定されているのであって、決して「フィクション」であるわけではない。

そして、この自由については第九七条には、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるとも書かれている。この「人類」とは実際には、直接的具体的には、欧米人のことであって、歴史的にさまざまな革命と変革において、西洋人が血の代償として贖いとってきたものである。

確かに、藤原氏が「欧米が作り上げた」(p67)と言うように、この自由の実現の功績は主として、欧米人によって担われたのであって、アジア人やアフリカ人には、自由の実現ということについては、歴史的にも思想的にも、ほとんど貢献するところはない。しかし、もし西洋人のそうした歴史的な貢献がなければ、今日の日本国憲法下に暮らして私たちが享受しているような自由もなかったはずである。

なるほど、自由は明治期の自由民権運動の成果として、わが国においては大日本帝国憲法によっても、一定限度において実現されていた。しかし、その帝国憲法下の自由と、太平洋戦争後に日本国憲法に規定された、自由に対する権利の内容と比較すれば、後者において格段に自由が増大していることは明らかである。

そして、この自由と権利の保持の責任とその濫用の禁止については、日本国憲法が、その第十二条にこの上なく明確に規定しているにもかかわらず、この日本においては「自由」が、藤原氏の言うような「身勝手の助長」(p66)にしかならなかったのは、結局、日本人にとっては、自由が「豚に真珠」「猫に小判」でしかなかったからではないのか。

西洋人が理解した自由とは、自由の真の概念とは、次ぎのような言葉に表現されているのではないかと思う。


「自分の身にふりかかることを自分自身の発展とのみ見、自分はただ自分の罪を担うのだということを認める人は、自由な人として振舞うのであり、その人は自分の身にどんなことが起こっても、それは少しも不当ではないのだという信念を持っている。」(ヘーゲル「小論理学§147)


ここには自由に「身勝手」という意味はない。藤原氏の自由観は真実を尽くしていないと思う。
 参照 必然性と運命(自由)

自由に対する筆者の「批判」と同じように、藤原氏の「民主主義」批判についても欠陥があると思う。藤原氏は「自由」の場合と同じように、「民主主義」についても、日本の戦後の「自由」や「民主主義」の特殊な「現実」から、自由や民主主義の「概念」を批判する。これでは真の批判にはならない。

そうではなく、批判とは、自由や民主主義についての正しい概念でもって、特殊な戦後日本の「自由」と「民主主義」の現実を判断すべきものである。だから、批判するためには、まず、自由や民主主義の概念を正しく理解していることが前提になる。

藤原氏は疑って「民主主義は素晴らしいのか」(p74)と言う。民主主義すなわち国民主権、主権在民は、「国民が成熟した判断をすることができる」場合には、文句なしに最高の政治形態である(p75)と。

もちろん、民主社会における国民の判断や世論のそうした限界はよく知られているし、一部の狂信的な「民主主義者」だけが、民主主義の限界も弁えずに崇拝し、「絶対性」を主張しているだけである。

それぐらいは誰も知っているし、だからこそ、チャーチルも、「民主主義は最悪の政治形態であるが、今まで存在したいかなる政治制度よりはまだましである」と言ったのだ。民主主義の価値は相対的なものであり、まだその絶対性を論証した者はいない。民主主義は、概念としては、藤原氏が言うように「国民が成熟した判断をする」ことを自明の前提とはしていない。

しかし、だからと言って、「国民は永遠に成熟しない」(p82)と断言して済ませるだけでは、民主主義における日本国民の文化的な成熟度についてや、その国民的な資質の向上についての教育上の課題も問題意識に上ってこない。


それとも、アメリカやイギリス、オランダ、デンマーク、スイスなどの欧米諸国民の民主的な成熟度と日本のそれとが同一の水準にあると藤原氏は見ているのだろうか。雲仙市会議員たちの、口にするのも愚かしいような乱行が、今日も明らかになったばかりである。これが、日本の国民や政治家の現実ではないか。

さらに言うなら、歴史的にプロテスタント・キリスト教文化を背景にする民主主義には、国民が宗教改革を体験し、自由の意識を確立しているという前提がある。この前提がなければ、日本やイラクにその例を見るように、借り物の「民主主義」による悲喜劇を見るだけではないのか。

それとも藤原氏は、この借り物の「民主主義」を本物にしようとするのではなく、民主主義の精神と制度に代えて、武士道の精神に置き換えようとするのだろうか。

民主主義国家にも「真のエリート」が必要である(p83)と言うのはそのとおりであると思う。民主主義国家であれ、株式会社のような経営者の「独裁的」な組織であれ、指導者、幹部の質がその国家なり組織の質を決定することになるのは言うまでもない。

藤原氏が言うように、もはや現在の日本の「官僚」は真のエリートでない(p84)どころではなく、政治家も含めて、「高級公務員」が、反国民的な単なる利益集団に変質し、堕してしまっているのが現実である。

イギリスやフランスやアメリカで養成されているようなエリートが日本にはおらず、養成もされていないことが問題であるのは藤原氏の言うとおりであると思う。しかし、だからと言って、民主主義の「限界」を拡大解釈して、民主主義の持つ「意義」をすら否定しようとするのは、藤原氏の「政治思想」の水準を示すものでしかないと思う。

藤原氏の自由観や民主主義観についていえることは、また平等についてもいえる。悪平等と言う言葉があるように、「平等」をただ抽象的に狂信的に振り回せば、どういうことになるか。それは、フランス革命や中国の文化革命の末期に吹き荒れた凶暴な人民の暴力、日本の「男女平等法案」に教育上の問題を見るまでもない。家庭内において、親と子が「平等」でありうるわけがない。

それにも係わらず、藤原氏は、「平等とは何か」その真の概念を問い、それを具体的に展開しようとせず、「平等」もフィクション(p88)とか、「平等」ではなく「惻隠」を(p90)といって、不完全ながらも、曲がりなりにも「平等」を具体化し制度化した現行の制度を無視する。そして現行の組織や行政を具体的にさらに「真に平等」のものに改革して、本当の惻隠の情を実行しようとするのではなく、「惻隠という武士道精神」の抽象的なスローガンで応じるだけである。そして「論理だけではもたない」とか、「自由と平等は両立しない」(p92)と断言するだけで、より高い論理能力で問題を解決する方向には進まないのである。

 

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書評  藤原正彦『国家の品格』

2006年03月18日 | 書評

およそ批判や批評の対象として取り上げる科学論文なり学術論文が、理論的に価値のある著作であれば、そこで展開されている思想の概念、判断、推理は当然に精確なものであるはずである。

とはいえ、もちろん批判や批評の対象は、必ずしも科学論文、学術論文のみに限らない。詩歌や小説などの文学作品から絵画、音楽、また映画などの芸術作品なども当然に取り上げられる。だが、その際には、「純粋な」科学論文,学術論文を批判する場合のように、その理論を厳密に検証するということにはならない。学術論文を批判する場合と、随筆や宗教的著作や芸術作品を批評の対象とする場合とでは、当然にその方法も内容も異なったものになる。

とはいえ、批判とはいずれにせよ、対象作品を、批判者自身の価値観の体系のなかに取り組み、位置付けることによって評価することである。このことは同時に、批判者の判断力や認識能力など、その理論的水準自体が問われることでもある。だから、何よりも批判者自身が、その作品を批判し、批評する能力や資格があるのか、ということが当然にまず問題にされるだろう。また、その内容がどれだけの理論的な水準にあるか、その批評行為そのものによって批判者自身が批判されることでもある。

この藤原正彦氏の『国家の品格』はベストセラーにもなったそうだ。それにしても、この作品は、ジャンルとしては何に分類されることになるのだろう。作者の藤原正彦氏は数学者である。しかし、言うまでもなく、この著書は数学の本ではない。『国家の品格』という書名が付けられているけれども、国家理論などを厳密に展開したいわゆる国家学の書物であるということもできない。恋愛や愛国心などの人間の心理を掘り下げ追求した心理学書でもなければ、もちろん小説というジャンルに分類することもできない。

また、多くの個所で「論理」の問題が取り上げられているけれども、認識や存在や時間や弁証法などを問題にする哲学の本に分類するにも無理がある。

一読したところ、一冊の本としては、倫理を問題にした随筆か、あるいは愛国心などについて論じた道徳的な啓蒙書として捉えるのが妥当であると思う。愛国心(筆者によれば祖国愛)や倫理的な精神としての武士道を取り上げている。これが本書のテーマでもあるといえる。

「はじめに」(p3~6)のなかに、本書の全体の趣旨が簡単にまとめられているといえる。筆者自身のアメリカとイギリスでの留学体験が語られ、そこでの筆者の価値観の変化、すなわち論理偏重から情緒重視へと、さらに武士道精神の再発見へと心境の変化が語られる。それは、現在わが国社会においても進行しているグローバリズム、アメリカナイズの過程で、市場経済に代表される欧米の「論理と合理」に日本が身を売り、わが国古来の「情緒と形」を忘れ、それが日本の「国家の品格」を失わせることになったという筆者の問題意識が、その時代的な背景としてある。(p6)

第一章 近代的合理的精の限界(p11~34)

もともと「野蛮で遅れていた」西洋はルネッサンス、宗教改革、科学革命により理性が解放されて、ヨーロッパは初めて論理や近代的な合理的精神を手にし、それによって産業革命を起こし、世界の欧米支配が実現した。 (p16)

しかし、今日いわゆる先進諸国では、家庭や教育が崩壊し、犯罪が多発している。筆者の主張によれば、それは近代的な合理的精神が破綻したからだという。そして、帝国主義や植民地主義もその西欧的な論理であり、その論理が通っているからこそ非道なことも行われたという。

ここで、筆者は「西欧的な論理」とか「傲慢な論理」とか「美しい論理」「見事な論理」というように「論理」にさまざまな形容詞を冠してしているが、論理それ自体は、感情的な評価とは無縁なのではないか。論理においては正しいか、必然的であるかだけが問題にされるのではないだろうか。


筆者は「帝国主義の論理」や「資本主義の論理」を取り上げているが、それらの論理がどういうものであるのか、具体的に展開して説明しないで、その論理の帰結だけを見て、弱肉強食とか卑怯とかケダモノとか下品とかといったことばで評して非難しているだけであるのは、単なるレッテル張りで、具体的な説明の展開がないだけ物足りない。この分野を専門としないことから来る限界かもしれない。


そして現在、資本主義の進化した市場原理主義に至って、世界経済自体が危機的な破綻を迎えているといい、それを救済するのは、筆者の主張によれば、「武士道精神」なのだそうである。なぜそうなのかは以下の第二章で説明される。


第二章 「論理」だけでは世界が破綻する(p35~64)     

どんなに論理的に正しくとも、それを徹底してゆくと人間社会はほぼ必然的に破綻に至ると筆者は言う。(「必然的」に「ほぼ」という形容詞を付すのはどういうことなのかよく分からない(笑)が)、だから、「論理」だけでは世界が破綻するという。その理由として、さらに筆者が追加するのは、

①論理には限界があること、   

②もっとも重要なことは論理で説明できないこと、

③論理には出発点が必要であること、

④論理は長くなりえないこと、

などをあげている。   
しかし、この四つ内容は、本当に「「論理」だけでは世界が破綻する」ことの理由の説明になっているだろうか。これらの四点は、理由として必要十分でかつ、必然的だろうか。いずれも非常に粗雑な説明で、論証になっていないと思う。

まず、「「論理」だけでは世界が破綻するという」説明自体が、第一にそもそも意味不明である。おそらく、論理のほかに「情緒や形」がなければ幸福な世界は成り立たないことを説明しようとしているのだと思うけれども。


また「人間の論理や理性の限界」の例として、「社会に出るとタイプが必要だから、学校でタイプを教えると、ろくな英語しか使えなくなった」ことを筆者は取り上げているが、それは、アメリカの当局者の教育理論が、ただお粗末なだけであって、「論理」に限界があるといった大げさなことではまったくない。そして、さらに、筆者は「論理に限界があること」の事例として、「市場経済主義だから株式投資」とか「国際化だから英語」という理由で小学生に英語や株式投資を教えることを、教育上の失敗の例として挙げているが、これもまた、その教育理論が拙劣なだけであって、「論理に限界がある」ためなどではない。

こんな拙劣な事例を取り上げて、厳密に「論理」を検証する余裕も能力もない人々に、事実として「論理」に対する偏見や蔑視を植え付けるのは教育上においても問題ではないだろうか。

特にわが国のように、過去において、その精神主義本位の傾向のために、人間性尊重と技術合理主義の精神の徹底を図れないまま、多大の被害や犠牲を出すという失敗の経験に事欠かない民族においては、「論理」や「合理主義」に対する偏見や蔑視を助長するような、筆者の非合理的な「説明」は、弊害が少なくないのではないかと思う。


また、「論理」だけでは世界が破綻する(笑)第二の理由として、「もっとも重要なことは論理では説明できない」ことをあげているが、これも、また当然のことであって、たとえば女性の心理など、「数学的な論理」で説明できないのは言うまでもないことである。しかし、大衆は日常生活の経験から鍛えられた論理的思考で、のびのびと「論理的」に思考し、日常の問題を解決しているのではないだろうか。奥さんが氏の話を「半分は誤りと勘違い、残りの半分は誇張と大風呂敷」というのも一つの見識ではないかとさえ思う。


注意しておく必要があるのは、筆者である数学者藤原正彦氏の念頭にある「論理」の内容が、とくに「数学の論理」であって、それが「特殊な論理」であることである。

数学の論理というのは、ただ、量と数をのみ目的として、その証明は機械的な自然の段階、領域においてのみ通用する論理であって、有機体や生命や社会構成体の運動や発展を説明できる論理ではない。

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文明の質──ディープインパクトの衝撃

2005年09月10日 | 時事評論

『ディープ・インパクト』衝突の画像、ネット上で速報 (HOTWIRED) - goo ニュース

 

先日の七月四日、この日はアメリカの独立記念日だった。日本では郵政民営化関連法案が、特別委員会で可決された日でもある。この日に宇宙では、アメリカ航空宇宙局(NASA)宇宙探査機『ディープ・インパクト』から発射された370キログラムの衝撃弾がターゲットのテンペル第一彗星に激突した。その際の映像もさまざまなサイトで見られる。

それにしても残念ながら、こうした宇宙探検のできる国は、今のところアメリカのみである。このアメリカは今、イランやイラクの国民から憎まれているが、冷静に客観的に見ても、毎日自爆攻撃で他殺自殺に励んでいるイスラム教徒と比べても、アメリカのキリスト教文明は自由で明るい。中東やアラブ諸国のいわゆるイスラム圏との文化文明の質の相異は明きらかだ。

 

宗教にせよ文化にせよ、その良否は果実によって識別できるとするならば、イスラム教は必ずしも良い果実を生んでいるようにも思えない。パレスチナの住民も、その多くはイスラム教徒で、ユダヤ人と比較しても、その生活水準の差は歴然としている。私は決して、アメリカに対して何の義理立てする必要もないし、アメリカにも嫌いなところは少なくない。また、個人的にはイスラム教は好きな宗教だが、過激派のそれは別だ。彼らの暴力的で狂信的な宗教には吐き気を催す。

 

イランやイラクなどのイスラム諸国とアメリカのキリスト教の文化文明の差違は、諸国民の持っている自由度に比例していると思われる。イスラム諸国では、まだ多くの婦人は選挙権も持てず、チャドルを身につけることを強制されている。先のイランでの大統領選挙では、保守派のテヘラン市長が選び出されたが、この市長が信奉するような他人の死を叫び、憎しみを駆り立てるような宗教は、まともな宗教だとは思えない。要するに、多くのイスラム諸国では、「自由」が少ないのである。これは、これらの国の民主化の水準と比例している。それが宗教に起因するのかどうかは、私にはまだ良くわからない。

 

イラクの国民にしても、一刻も早く、武器を捨て、全国民一体となって民主国家の建設に励み、国民が流血ではなく、アメリカが従事している宇宙探査のような科学研究に乗り出すことを願うものだ。イランにしても、核兵器に使うような原子力の研究を止め、科学技術の水準でアメリカと競争する段階に達して欲しいと思う。アメリカ国内の自動車の販売実績でGMやフォードを上回ったトヨタを生んだ日本を見習うべきである。

 

日本についても、小泉首相の靖国神社参拝が問題になっているが、この靖国神社は戦後は一宗教法人過ぎない。そして、日本では、刑法に反しない限り、どんな宗教を信奉しようが自由な幸福な国である。ただ、忘れてはならないのは、この靖国神社が、今日のイスラム教徒のように、かってアメリカに向かって国民を自爆攻撃や玉砕に駆り立てた『宗教』であったことである。私にはアメリカに反抗している今日のイラク国民やイラン国民が、戦前の日本国民にダブって見える。残念ながら、どんなに公平な目で見ても、「靖国神社」の宗教や「イスラム教」という宗教が、キリスト教ほどに「人間的」であるとも思えない。

 

今年の一月十二日にケープカナベラル空軍基地から打ち上げられ、ほぼ六か月掛かって、四億三千百万キロメートル離れたテンペル第一彗星に向かって激突したそうである。このニュースとそれによって宇宙からもたらされた、衝突の映像を見ながら、それぞれの国家や国民の持つ宗教や文化文明の差違について考えざるをえなかった。

 

 2005/07/05

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郵政民営化解散と経済的な影響

2005年08月24日 | 追加カテゴリー

郵政民営化をめぐる衆議院の解散が経済にどのような影響を与えるかは未知数である。しかし、解散直後に一時株価の下落したほかは、すぐに株価は回復し、現在は日経平均で12488円をつけており、2年来の高値である。

海外の論評も、小泉首相の郵政改革に好意的であり、外国株も買いに入っている。株式口座としては楽天とライブドアとイートレードの三社を予定している。

現在はまだその時期ではないが、焦らず、時期の成熟を待ちながら、着実に研究を重ね、シュミレーションを積み重ねて行く。はじめは、安値株からはじめて行くのが当然である。政治経済学の研究は趣味の一つでもある。インターネットの発達によって、政治経済の研究と分析に必要なほとんどの情報資料は自宅にいながらにして瞬時に手に入るようになった。このブログなどを通じて、認識能力を倦まず弛まず高めて行くことがあるだけである。私の個人的な反省としては、これまで、あまりにも金銭に無頓着、無自覚であったことである。現代のいわゆる資本主義社会の中で、金銭の持つ意義を理性的に認識しておかなければならない。金銭を軽蔑することも、また、崇拝しその奴隷になることも明らかに誤りである。金銭を稼ぎ出す能力は必要だし、それを使いこなさなければならない。もちろん、金がなければ使いこなすことすらできない。過度の金欠病は他者の奴隷となり精神的肉体的な堕落を招く。

シンガポールの指導者から、見習うべきは韓国のサムスンやLG電子、オランダのPHIRIPPS社であって、赤字に苦しんでいるソニーはもはや有料ブランドではないというのである。過去の勝利におごり、謙虚さを忘れ、自足する企業はどんな会社でも、転落して行く。盛者必衰の理は、平家物語の昔から周知のことである。

中国埜人民元の再引き上げが取り沙汰されている。原油不足で、中国では自動車の給油に列ができたり、ガソリンスタンドが営業停止したりしているようである。

ブッシュ大統領徒胡錦涛首相が九月七日ホワイトハウスで会談する。中国は北朝鮮などと同様に最終的には民主化され、アメリカや日本などと同じ自由民主主義国家へと解放される必要がある。それまでは極東には平和も訪れないし、日本も真の独立国家となることができない。中国の民主化は日本の真の独立と深い関係がある。

郵政民営化総選挙で、与党が勝利を収めれば、株価はさらに高騰するだろう。日本経済の発展のためにも、労働組合や特定郵便局長会のなどの既得利益団体や族議員の反対を尾さえなければならない。

次の課題は、官僚機構、正確には、国家と地方の両方の公務員制度の抜本的な改革である。こうした問題も引き続き研究課題になる。

 

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ブログの変更

2005年08月13日 | 日記

 

近いうちに、ココログへの掲載を中止するつもりです。それで、これまでにココログで薔薇と十字架(SORA)というタイトルで書いてきたブログ記事を、転載しました。05/08/13

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JR福知山脱線事故から一ヶ月

2005年08月13日 | 時事評論

 

最近起きた事故としては、左の写真に掲げたJR福知山線脱線事故が凄まじい。こうした事故を見聞して改めてわかることは、私たち現代人の生活が、実に危険と隣り合わせに存在しているということである。

この列車に乗車していた人たちも私たちと異なった特別の存在ではなく、違った点といえば、たまたまこの列車に乗り合わせたということだけである。事故に遭われた人が私たちに比べて特別に罪深かったとか、悪人だったためではない。平均的に見れば、私たちとまったく同じ普通の人々だったろう。あたかも市民の日常生活の一区画が突然そっくり切り取られたに等しい。

乗客たちも、まさかこの朝に、通勤や通学の途上で、自分たちの人生が断ち切られるなどとは夢にも思わなかっただろう。大学生などの若者も多く、本人も遺族もやりきれない悔しい思いをされていると思う。言葉が切れる。

現代の生活は確かに便利になった。しかし、この便利さが科学技術の上に成り立ち、現代の科学がまだ極めて未熟なものであることを、この事故は改めて再確認させる。そして、これまできわめて安全な交通機関だと思われていた鉄道が必ずしもそうではなかったこともわかった。また、被害者の方々の怒りや憎しみが、JR西日本という鉄道会社の安全管理の企業の体質や労務管理の問題に向けられ、新聞記者の鉄道会社に対する取材上での行き過ぎた感情移入や、鉄道従業員に対する嫌がらせなど民衆のバッシング騒ぎも取り沙汰されることもあった。日本国民一般の国民精神における理性の確立の未熟さも教えている。

確かに今回の事故は、鉄道会社の安全管理、労務管理上に問題に大きく影響されているようである。列車の乗務員の労務管理に関する情報をもれ聞いても、そこには何か旧大日本帝国陸軍の精神主義を彷彿させるようなものがある。企業の体質として、あるいは日本人の国民の体質としても、そうした弱点を克服して、人間性尊重と技術合理主義をいまだ確立しきれないでいる。先進的であるはずの現代の大企業においても、労務管理や人間関係の多くの部面で、相変わらずの旧態依然としたものが少なくないことをうかがわせる。科学技術の導入や変革に比べて、人間関係や労務管理、さらには世界観や価値観などの思想の導入や確立はそれほど容易ではないのだろう。現代企業が人間性尊重と技術合理主義を確立し定着するためにはまだ歳月が必要なのかも知れない。

現代の企業は、市場競争でぎりぎりの所まで追い詰められている面がある。市場の競争によって、消費者、利用者の利便が著しく向上することも確かである。旧国鉄の解体と再編は絶対的な必要として行われた。それに大きな意義のあったことは否定し得ない。しかし、その「効率化」の追求が、消費者や利用者の安全を犠牲にせざるを得ないというのであれば、本末転倒としか言いようがない。列車の運行の安全も、運転手の職人的な技術に依存する点が大きく、自動列車停止装置(ATS)などの機械装置による安全確保もまだ十分に行き届いていなかったようである。早急な改善が望まれる。

しかし、どんなに安全に配慮しても、神ならぬ人間には、完全を期することは永久に不可能かも知れない。私たちの世代にうちに完全な安全を期待するのは不可能であると考えたほうが合理的である。20年前の過去にも日本航空機が、群馬県多野郡上野村・御巣鷹の尾根に墜落する事故があった。そして今回も被災者の遺族、関係者が生きている間は、事故の痛みは決して風化することはない。

死は避けられない。それは突然やってくるかもしれない。それは運命次第、神様の思し召しひとつのところがある。だから私たちにできることは、人間としてできることには万全を尽くし、その上で、常に次のような覚悟をしておくことかも知れない。

「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである。」 (ルカ伝12章)

「何もかも物憂い。かってあったことは、これからもあり、かって起きたことは、これからも起きる。太陽の下、新しいものは何一つない。昔のことを心に留めるものはない。これから先にあることも、その後の世には誰も気にも留めない。」(伝道の書 第一章)

ニュース源

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もし私が聖書を編纂するなら

2005年08月13日 | 芸術・文化

 

洗礼を受けていなくとも、また特定の教会に所属していなくても、聖書に価値を認めて愛読している人は少なくないと思います。教会の特定の解釈や教義に縛られることなく自由に研究したいと思う者は、特に、その傾向が強いのではないでしょうか。


それにしても、現行の新旧約聖書は、あまりに大部で、忙しい現代の多くの日本人には質量ともに重過ぎると思います。テキストの形式としてふさわしいとも思えません。新約聖書だけなら、かなり、ボリュームが減るので、取り付きやすくなります。また、ユダヤ人でもない私たち日本人にはそれで十分なのかも知れません。しかし、それでは貴重な旧約聖書の遺産が失われますし、多くのクリスチャンの信仰がユダヤ人のそれよりも劣ることになりかねません。それで、もし私が現代の日本人向きに聖書を編纂しなおすとすれば、どれを選べきか考えてみました。


選択の根拠を詳しく説明するのもわずらわしいので省略しますが、まず、『詩篇』は欠かせないと思います。詩篇は聖書の中の聖書と言えるもので、日常のその朗読と判読は、聖書の宗教の基礎を形作るもので、不可欠だと思うからです。


そして、聖書を多くの現代のクリスチャンのように単なる信仰の書とすることなく、自分の頭で考え直す本とするために、旧約の「知恵の書」に属するテキストも欠かせなと思います。それで『箴言』や『伝道の書』も欲しい。さらに、聖書を芸術の香気豊かなものにしている、『雅歌』も不可欠です。また、旧約聖書の出発点である『創世記』はやはり必要かも知れません。


旧約の中から、最小限選ぶとすれば、これらのテキストを取り上げたいと思います。もちろん哲学書ならぬ宗教の書として、これらのテキストの選択について絶対的な必然性は証明できないのですが。


新約聖書の中からは何を選ぶべきでしょうか。共観福音書の中からはユダヤ教の色彩の薄い『ルカ福音書』と、それからギリシャ哲学の影響の濃い『ヨハネ福音書』を選びたいと思います。


それからキリスト教の教義の基礎を確立したパウロの『ローマ人への手紙』です。新約聖書からは、この三つのテキストで、現代人に必要な信仰と倫理道徳の基礎は十分に養成できると思います。そして、最後に聖書の教えを歴史的に、締めくくるために不可欠な書としてのヨハネの『黙示録』です。
このように聖書を簡易に改めて編纂すれば、現代日本人の多くにとっても「聖書」が『座右の書』となるのではないでしょうか。

ですから、私が私のために現行の聖書を編纂しなおすとすれば、さしあたっては

①創世記
②箴言
③詩篇
④伝道の書
⑤雅歌
⑥ルカ伝
⑦ヨハネ伝
⑧ロマ書
⑨黙示録


のテキストを選ぶことになると思います。そして、これらのテキストのそれぞれに平易な現代英語の対照訳をつけて、日本語と英語で聖書を読めるようにします。そうすれば、日常の聖書の判読が、同時に、英語の習熟と読解のトレーニングにもなります。


個人的にはこのような新編聖書があればと思っているのですが、どこかの奇特な出版社があって、編纂して出版していただければうれしいのですが。それは日本国がキリスト教国となるのにいささか貢献することにもなり、その意義は決して小さくはないと思うのです。もちろん、聖書を本格的に勉強したい者は、オーソドックスな従来の新旧約聖書を利用すればよいのです。


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私の生活五箇条

2005年08月13日 | 日記

 

人間は通常は必ずしも複雑で確固とした思想をもって生きているわけではありません。しかし、生活の中に原則や信条があれば、より揺るぎなく生きてゆけるのではないかと思います。私が生活してゆく上で必要な基本原則のようなものを考えてみまました。おおよそのところ、次のようなものになると思います。さらに、より良い生活原則ができれば改訂してゆきたいと思います。単純であっけないものですが、今のところ、次のような信条で、過ごしてゆこうと考えています。皆さんも、ご自分の生活信条をおつくりになればいかがでしょう。


        私の生活五箇条

    一、主なる神を敬愛せよ。

    二、他人を愛せよ。

    三、私だけが私の主人である。汝の道を行け。

    四、自分の城を守れ。

    五、生活を楽しめ。

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