真珠

深海の真珠は輝かず。

寡作な小栗康平監督

2005年08月13日 | 芸術・文化

 

今日のテレビに映画監督の小栗康平氏が出ていた。残念ながら、小栗監督の映画を私はまだ一度もまともに、完全に見たことがない。ただ、この監督の処女作でもある『泥の川』は、作家の宮本輝氏がこの作品で芥川賞を取っていたこともあって、原作の小説は、早くから読んでいた。

この小説は、戦後まだ日の浅い、日本が経済の高度成長を成し遂げて豊かな暮らしを実現する前の、大阪の海に近い比較的貧しい町を舞台にしている。この小説の作者の宮本輝氏は、ほとんど、私と同じ世代で時代を共有し、私の育った時代と場所も重なる。そのせいか、この小説を読んでも共感できるところが多かった。

それにしても、この小栗監督の処女作品が制作され発表されたのは、1981年である。それからすでに20年以上が経っている。テレビでもこの映画の放映があったが、私はそのとき、この映画の一部を見ただけで、完全には見ていない。叙情的な名品で、芸術作品と呼べるものであることは確かだったようである。doronokawa

その小栗監督が、新しく映画を製作したと言う。それにしても9年ぶりの作品であると聞いて驚いた。この監督は、9年間も作品を製作していなかったのである。処女作の『泥の川』以来、20年以上が経過している。しかし、この監督には、まだ五つの作品しかない。それほどに寡作であるとは知らなかった。確かに、映画の製作にはお金が掛かり、とくに、非商業的な作品は、お金がネックになって、なかなか製作が思うに任せないということは、熱心な映画ファンでもない私も聞いて知っていた。

それにしても、この監督は、きわめて寡作ながらも、過去の作品は、国内のみならず海外からも、すべて高い評価を獲得している。カンヌ映画祭でグランプリも獲得している。この監督の技量はきわめて確かなものである。それにも関らず、財政的な理由で、この監督が思う存分にメガフォンを取れないとすれば、それは大げさではなく、日本の国にとっても大きな損失であるといえる。このような優れた芸術家が、もし持てる力量を十分に発揮できないとすれば、それは社会全体の損失とも言える。一方には今日の日本の「屈辱的な」韓流ブームを見てもわかるように、優れた芸術作品、娯楽作品を生み出せない現実がある。現代では芸術や文化の持つ経済効果も大きい。

群馬県の協力によって、『眠る男』という作品が撮られたこともあるらしい。もちろん、政府や自治体の後援は望ましいけれども、やはり、芸術や文化は、国民全体の、民間による理解と協力と支援が基本ではないだろうか。そこに、芸術や文化に対する国民の成熟度が問われていると思う。

最近は、映画もビデオ化されたり、テレビで放映されたり、また、DVD化されたりして、それなりに著作権収入はあるのかも知れない。その点は良くわからない。しかし、この優れた監督が、たとえ9年間も作品が製作できなかったとしても、それが本人の才能や能力以外の、もし、それが財政的な理由によるものであるとすれば、やはり、社会全体、国民全体の観点から、自分たちの文化と芸術の問題として反省する点があるのではないだろうか。

それは何も、映画だけにとどまらない。絵画、建築、文学その他、学術、文化、芸術一般にいえることである。私たちの市民社会の質の高さが問われていると言える。私たち市民、国民の間にどれだけ優れた、娯楽作品、芸術作品を産出し共有できるかという問題である。国民の芸術や文化の産出力も国際的な競争にさらされているといえる。文化学術政策のあり方を見なおす必要もありそうである。韓国では金大中大統領時代の文化政策の効果が今現れているとも言われる。

いずれにせよ、近いうちにこの小栗監督の全作品を鑑賞できることを楽しみにしている。その時は批評でも書いてみたい。


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