真珠

深海の真珠は輝かず。

タイトルについて

2005年08月13日 | Weblog

 

このウェブログの副題にしている「薔薇と十字架」は、ヘーゲルの法哲学序文から引用したものである。十字架とは、もちろんそれはイエスの十字架上での犠牲のシンボルであるが、また、ここでは、理性的なものを認識する際の労苦を意味している。それに対し、薔薇は喜びの象徴である。ルター主義者でもあったヘーゲルが、ルターの家紋である白い薔薇に囲まれた黒い十字架と、そこに記された「キリスト者の心は十字架の真中にある薔薇の花に向かう」という銘文との連想において記述したものである。rosecross

十字架と薔薇は、ルターにおいてキリスト教信仰の純粋な象徴であったが、ヘーゲルにおいては、それは理性に対する信仰になった。理性に対する信仰とはなにか。現実の中の対立と分裂の中に和解させる力としての理性に対する信頼である。ヘーゲルにおいては「分裂の只中にあって統一を回復するところに精神の真の生命がある」(金子武蔵)。ヘーゲルは言う。


「しかしながら、精神の生というものは、死を避け荒廃からおのれを清く保つ生のことではなくして、死に耐え死のただなかにおのれを保つ生のことである。精神がその真実態をうるのは、ただ絶対の四分五裂のただなかにありながら、そのうちに己れ自身を見出すことにのみよっている。」(現象学序文金子訳)


この世界は対立と矛盾に満ち、人類はそれに苦悩している。冷戦後の今日もまだ、それらから解放されない。しかし、救いと喜びと精神の生は、この矛盾対立の中に調和と統一の可能性を見出すところにある。

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JR福知山脱線事故から一ヶ月

2005年08月13日 | Weblog

 

jiko

最近起きた事故としては、左の写真に掲げたJR福知山線脱線事故が凄まじい。こうした事故を見聞して改めてわかることは、私たち現代人の生活が、実に危険と隣り合わせに存在しているということである。

この列車に乗車していた人たちも私たちと異なった特別の存在ではなく、違った点といえば、たまたまこの列車に乗り合わせたということだけである。事故に遭われた人が私たちに比べて特別に罪深かったとか、悪人だったためではない。平均的に見れば、私たちとまったく同じ普通の人々だったろう。あたかも市民の日常生活の一区画が突然そっくり切り取られたに等しい。

乗客たちも、まさかこの朝に、通勤や通学の途上で、自分たちの人生が断ち切られるなどとは夢にも思わなかっただろう。大学生などの若者も多く、本人も遺族もやりきれない悔しい思いをされていると思う。言葉が切れる。

現代の生活は確かに便利になった。しかし、この便利さが科学技術の上に成り立ち、現代の科学がまだ極めて未熟なものであることを、この事故は改めて再確認させる。そして、これまできわめて安全な交通機関だと思われていた鉄道が必ずしもそうではなかったこともわかった。また、被害者の方々の怒りや憎しみが、JR西日本という鉄道会社の安全管理の企業の体質や労務管理の問題に向けられ、新聞記者の鉄道会社に対する取材上での行き過ぎた感情移入や、鉄道従業員に対する嫌がらせなど民衆のバッシング騒ぎも取り沙汰されることもあった。日本国民一般の国民精神における理性の確立の未熟さも教えている。

確かに今回の事故は、鉄道会社の安全管理、労務管理上に問題に大きく影響されているようである。列車の乗務員の労務管理に関する情報をもれ聞いても、そこには何か旧大日本帝国陸軍の精神主義を彷彿させるようなものがある。企業の体質として、あるいは日本人の国民の体質としても、そうした。弱点を克服して、人間性尊重と技術合理主義をいまだ確立しきれないでいる。先進的であるはずの現代の大企業においても、労務管理や人間関係の多くの部面で、相変わらずの旧態依然としたものが少なくないことをうかがわせる。科学技術の導入や変革に比べて、人間関係や労務管理、さらには世界観や価値観などの思想の導入や確立はそれほど容易ではないのだろう。現代企業が人間性尊重と技術合理主義を確立し定着するためにはまだ歳月が必要なのかも知れない。

現代の企業は、市場競争でぎりぎりの所まで追い詰められている面がある。市場の競争によって、消費者、利用者の利便が著しく向上することも確かである。旧国鉄の解体と再編は絶対的な必要として行われた。それに大きな意義のあったことは否定し得ない。しかし、その「効率化」の追求が、消費者や利用者の安全を犠牲にせざるを得ないというのであれば、本末転倒としか言いようがない。列車の運行の安全も、運転手の職人的な技術に依存する点が大きく、自動列車停止装置(ATS)などの機械装置による安全確保もまだ十分に行き届いていなかったようである。早急な改善が望まれる。

しかし、どんなに安全に配慮しても、神ならぬ人間には、完全を期することは永久に不可能かも知れない。私たちの世代にうちに完全な安全を期待するのは不可能であると考えたほうが合理的である。20年前の過去にも日本航空機が、群馬県多野郡上野村・御巣鷹の尾根に墜落する事故があった。そして今回も被災者の遺族、関係者が生きている間は、事故の痛みは決して風化することはない。

死は避けられない。それは突然やってくるかもしれない。それは運命次第、神様の思し召しひとつのところがある。だから私たちにできることは、人間としてできることには万全を尽くし、その上で、常に次のような覚悟をしておくことかも知れない。

「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである。」 (ルカ伝12章)

「何もかも物憂い。かってあったことは、これからもあり、かって起きたことは、これからも起きる。太陽の下、新しいものは何一つない。昔のことを心に留めるものはない。これから先にあることも、その後の世には誰も気にも留めない。」(伝道の書 第一章)

ニュース源

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裁判官の人間観

2005年08月13日 | Weblog

 

近年司法の改革が進められて来た。昨年には裁判員法が公布され、五年以内に裁判員制度が発足することになった。よりよき司法制度に向かっての一歩前進として評価したい。昔から「三人寄れば文殊の知恵」ということわざもあるように、出来うる限りの多くの人の知恵、知識、経験を持ち寄って合議が行われれば、さらにいっそう正義と真実が実現されることになるだろう。市民が公共の問題に関心を持ち、認識を深めつつ公共の精神を培ってゆくのは良いことである。


とはいえ、現在の裁判制度のもとで下される判決の中には、首を傾げたくなるようなものも多い。1997年に神戸でおきたいわゆる「神戸児童連続殺傷事件」に対する判決もその一つであった。この事件の犯罪者が14歳の少年であったということもあって、この特異な事件は世間の耳目を集めることにもなった。この事件を契機として、ますます凶悪化する少年犯罪にの傾向に対して、少年法の改正にも取り組まれることになった。事件に対しても判決が下されたが、少年は少年院ではなく、医療少年院に送致され、保護処分になることが明らかになった。そのときに、私は何かこの判決に不本意なものを感じたのだが、はっきりしないままに中途に放棄したままだった。

私が感じたそのときの違和感とは、要するにこの判決によっては正義が回復されないのではないかということから来るものである。この判決では、少年は犯罪者ではなく病人として、少なくとも一種の精神的な異常者として取り扱われることになる。しかし、これでは、犯罪と精神病理との区別を解消してしまうことになる。確かに、犯罪は一種の「精神的な病」といえるかも知れないが、しかし、少なくとも犯罪は肉体的な病理現象とは区別されなければならない。実際にこの判決で検討された協同鑑定書においても、少年が「普通の知能を有し、意識も清明で精神病であることを示唆する所見のないこと」を認めて裁判官もそれに同意している。


もともと、犯罪とは精神的な機能においてはまったく「正常」な状態で実行されるものである。そうでなければそれは、もはや犯罪とは言えず、「病気」にすぎない。私には現在の裁判官がどのような人間観、刑法理論に基づいて判決を下す傾向があるのかよくわからない。しかし、裁判というのは、失われた正義を回復することが、根本的な使命である。欧米の裁判所の梁を飾っている、目隠しされた正義の女神の像が手に天秤を握っているのはこのことを象徴している。裁判官が医療者や精神的カウンセラーになってしまっては、裁判は裁判の意義を保てない。

裁判官の中垣康弘判事も、被害女児の両親の「少年を見捨てることなく少年に本件の責任を十分に自覚させてください」ということばを引用し、そして、「いつの日か少年が更生し、被害者と被害者の遺族に心からわびる日の来ることを祈っている」といいながら判決文を結んでいる。ただ、私がこの井垣判決で感じた疑問点は、そこには少年の更正のための配慮はあっても、失われた正義を回復するという、裁判官の──それは国家の意思でもある──確固とした意思のないことである。犯罪とは国家の法(正義)を侵害することである。そして、犯罪者による正義への、法へのこの不当な侵害については、犯罪者が正当に処罰されることによって、犯罪者に刑罰が課せられることによって、法と正義が回復されるのである。また、犯罪者自身も正しく処罰されることによって人格として尊重されることになる。なぜなら人間の尊厳は意思の自由の中にあるのであり、犯罪者といえども善悪を知る存在であり、かつ、明確に悪を選択し、正義を侵害する選択をしたからである。


神戸児童連続殺傷事件の判決では、女神の天秤は著しく傾いたままで、失われた正義の均衡は回復していないようにも思える。社会と国家の正義は破損されたままである。そして、再び、神戸の犯罪少年の崇拝者が最近になって同じ犯罪を犯した。裁判官は今回の十七歳の少年をどのように処断するのだろうか。

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