真珠

深海の真珠は輝かず。

恥を知れ、東京四区選挙民

2005年08月13日 | 政治・経済

 


衆議院東京四区から選出された中西一善議員が、強制わいせつ罪で現行犯逮捕された。酒に酔った挙句の乱行である。ワイン一本、焼酎ボトル半分、ビールも2、3本を飲んでいたと言う。本人は被害者や国民に謝罪し、議員も辞職して事件の責任をとったが、それにしても、これほどの飲酒家を、なぜ東京四区の選挙民は国会議員に選んだのか。


衆議院議員を選ぶということは、国政に選良を送るということである。国家の指導者としてふさわしい人物を、地域の選挙民は責任を持って送り出す必要がある。単に地元の利益に貢献するかどうかという理由だけで選出すべきでないのはいうまでもない。国家全体にとって本当に有為な人材は誰かという基準で、市民は政治家を選ぶ必要がある。これほどの酒飲みが、本当に国家のために尽くすことができるだろうか。東京四区にはもっとふさわしい候補者はいなかったのか。


国民は自分たちが選出する代議士の品性、能力をつねに見極めなければならない。国会議員は地元を犠牲にしてでも、むしろ、その選出された地盤よりも日本国全体の国政に責任をになうに足る人材でなければならない。政治家と国民の一人一人がそうした気概を持つのでなければ、いつまでたっても日本の政治は高潔なものにならず、したがって、国民自身も幸福にならない。


国会議員は、したがって、知性、能力、品性,も最高の人材でなければならない。また最高のモラリストでなければならない。そうした、最高の人物のみを国政に参画させるようにする必要がある。日本の政治にいつまでも品格に欠けるのは、国政にふさわしい人物を国会議員に選出するという厳しい選択が国民の間になく、またそうした政治家を育てるという自覚もないからである。


現在の衆議院議員の定数は、四八〇人である。それにしても、国家に真に有為な優秀な人材が事実として四八〇人もいるだろうか。それほど日本は人材に豊富な国か。その中には、中西一善氏のような、凡庸な人物も少なくないはずである。議員定数の四八〇人は多すぎる。真のエリートが集まれば定数は半数の二四〇人で十分である。そうしてこそ、日本の政治は高貴なものになり、政治に国民の尊敬も集められるようになる。自分たちの選出した政治家と政治を軽蔑しかできないよう国民は、自業自得である。中西一善議員のような人物が国会に居座っている限り、いつまでたっても低劣な政治から救われない。信頼にたる政治が行われるようにはならない。


西洋に、「国民は自分にふさわしい政治しかもてない」ということわざがある。国民は、自分たちが選んだ人物が本当に国政にふさわしい人物であるか、よくよく胸に手を当ててて考えてみる必要があると思う。



民主主義と孤独

2005年08月13日 | 政治・経済

 

久しぶりに、ヘーゲル辞典に「大人」と「青年(若者)」の項を追加した。

「伝道の書」の第一章の注釈は、とうの昔に書き上げたのに、電子テキストの空しさ、一瞬の内に消えてしまった。「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」(伝道の書第1章)という言葉を実感させられることになった。苦笑。その後、改めて書き直す意欲をまったく失ってしまう。宮崎駿男さんのアニメ「風の谷のナウシカ」の主題歌を聴きながら書く。安田成美さんの素人っぽい歌い振りが一番良いと思う。


ドラマや映画、演劇、小説、音楽などで本当に良い仕事をする才能が少なくなった今の日本で、宮崎駿男さんは貴重な存在だと思う。大学と大学院を真の意味での学問の府にすることができるか否かに、日本の命運がかかっている。大学での、芸術論や美学の教育の貧弱なことが、ろくなドラマしか作り出すことのできいない原因になっている。大学教育の貧弱なことは、なにも芸術、美学だけではない。学問全体にいえることである。そして多くの有為な若者の進路を正しく指導する能力を失っている。マスコミ関係者も国民に必要な情報や分析を的確に提供し得ているようにも思えない。高額の受信料を徴収していながら、NHKは、自前で優れた脚本家を育てることもできず、国民を満足させることのできるドラマを作ることもできず、韓国ドラマを嬉しげに放送して、恥も外聞もない。それにしても優れた芸術は、神の仕事に等しい。


個人が完全に自立するということには、すなわち自由であることの半面には、孤独を覚悟せざるを得ないのだろう。
特にプロテスタントでは、その精神的な営みのもっとも奥深いところに、ただ、神と自分だけが対面する場があり、そこで人間は絶対的な孤独を意識せざるを得ない。そしてキリスト教の神は精神的な神であり、聖書の神を自己の神とする限り、私の倫理的な性格が、自分の責任において問われざるを得ない。このことは、異教徒の与り知らぬ世界である。これは、ある意味ではキリスト者の特権であると共に、またそれが彼の運命である。善悪を知る果実を味わったキリスト者は、異教徒の持つ天真爛漫さを失ってしまったともいえる。しかし、異教徒の天真爛漫さは、完成されたキリスト者の真の天真爛漫さには、もちろん及ばない。キリスト者の不安は、罪の意識から来るが、しかし、それはもちろんキリスト者の真の姿ではない。キリスト教の目的は、罪からの解放であり、真の自由であるから。


それにしても、わが国の民主主義はキリスト教抜きの民主主義であり、したがって、それは、政治における自己の判断の倫理的な、宗教的な責任を自覚させることがない。民主主義はプロテスタンティズムの論理的な帰結として存在するのに、国家の統治原理として民主主義を導入し採用しておきながら、一方でキリスト教を受け入れないことが、どれほどの茶番になるかということに国民は気づきもしない。GHQの押し付けではなく、国民の主体的な選択になるまでは。


キリスト教抜きのわが国の民主主義が、倫理的な緊張感のない、義理と人情と飲み食いがらみの情実民主主義になるのは仕方がない。靖国神社への公式参拝を標榜する小泉首相を始めとして、現在の自民党員のなかに、いったい、どれだけの自民党員が自由と民主主義を、その真の概念において理解しているのだろうか。自民党の自由と民主主義を、その実態に合わせるのなら、党名を情実的自由民主党とでも改名すべきだろう。この自民党の体質が改革されない限り、日本の政治に乾いた風が吹くことがなく、水臭い孤独な民主主義に耐えるとができない。。


また東京大学という国立大学の中枢で、公務員として樋口陽一氏のように、キリスト教を抜きにした民主主義や人権の理論を展開することが、その真実の概念の理解から遠ざけ、今日の日本の現状に見るように、「欲望民主主義」や「戦後民主主義」、フェミニズム、左翼無国籍者として帰結することになっていることに、いったいどれだけ気づいているか。また、それが一方で、佐伯啓思氏や西尾幹二氏ような保守派から批判を招くことになっているか。とはいえ、彼らもまた、キリスト教を拒否する限り、必然的に、倫理的な根拠を天皇制や教育勅語に求めざるを得ない。しかし、天皇制や教育勅語が、真実の倫理的な基礎と成り得ないのは歴史と論理が証明しているではないか。あるいは、ニーチェのように、自己を神とする絶対的な傲慢に陥るかである。しかし、真理は自己を貫徹する。ただ、客観的な条件によって、それに要する時間がそれぞれ異なるだけだ。


明治期にも国家と社会の腐敗を、東京帝国大学の井上哲次郎教授らは、儒教や神道を背景とする教育勅語の創案によって防ごうとしたが、日本の敗戦と共に、その偽善によってすっかり信用を失墜させてしまった。そして、戦後60年、戦争によって国家に対する信用を失った国民は、その一方でキリスト教を拒否してきた日本は、さまざまな側面で、その倫理的な崩壊に直面することになった。今日の青少年の現実や学校の深刻な危機を、キリスト教と真実の民主主義なくしてどのように解決できるのか、私には分からない。またキリスト教の理解を欠いた、倫理的な宗教的な基礎を欠いた日本の民主主義が、どれだけ浅薄で歪んだものになっているか。


日本の民主主義のほかに、神のいない民主主義の一つの姿が、中国や北朝鮮の「人民民主主義」である。中国や北朝鮮の腐敗と堕落は、やがて、国家の骨組みすら腐らせてしまうだろう。この「人民民主主義」の大多数は、すでに、多くの国で歴史から姿を消したが、北朝鮮、中国、キューバなど、まだ幾つかの国で生きている。


イラク戦争の新局面

2005年08月13日 | 政治・経済
戦争は人類とその歴史を同じくする。人類の歴史と戦争とは切り離すことができない。その人類を戦争から解放することは永遠の課題だということができる。これは現代においても変わることがない。


すでに戦後六〇年、私たちの世代は戦争を体験せずに済んでいる。これがどんなに幸せなことか。



戦争の時代に生まれ合わせた人たちは、不本意にも、戦争に巻き込こまれ、そして、人を殺すことを余儀なくされ、戦争がなければ生涯犯すことのなかったはずの、略奪、傷害、強姦などの犯罪を犯すことになった。そして、自己の生涯を突然に断ち切られ、妻子との平和な生活を失い、自他ともに筆舌に尽くせない苦難を運命づけられた。戦争の悲惨はいまさらいうまでもないことである。なくて済ませるものがあれば、戦争ほどのものはない。


イラク移行政府のドレイミ国防相は26日、首都バグダッドで近くイラク軍や警察などの治安部隊4万人以上を動員し、武装勢力の大規模な掃討作戦を実施することを明らかにしたそうである。イラク国民自らの力で国内の治安を確立する能力を高め、アメリカ軍がイラク国内から、一刻も早く撤退することのできるときの来ることを願うものである。


このイラク戦争に際しても、日本国民の多くが戸惑い、自己の態度決定に悩んだことと思う。イラク戦争についての私の立場はすでに明らかにしておいた。このイラク戦争についても、日本国民の間でも、さまざまに見解が分かれ、それぞれの異なった対応となって現れた。こうした問題については一人一人が自分の良心にしたがって決断せざるを得ない。


私は原則的に小泉首相の選択を支持するものである。私の判断と時の政府の政策と一致できるのはある意味では幸せであるといえる。私の現在の思想は、少なくとも小泉首相の対イラク政策、自衛隊のイラク派遣などの問題で反対せざるを得ないものではない。


イラク戦争はイラクの政治体制とアメリカの政治体制が根本的な敵対的矛盾関係に至ったために起きたものである。あるいは、少なくとも、それが将来において予測されたということである。時間を引き延ばしにして、敵に軍備に猶予を与え、将来の戦争でさらに被害を大きくするよりも、一昨年の時点で、この矛盾の早期解消を目指してブッシュ大統領はイラク侵攻を決断するに至ったということができる。10年前の湾岸戦争では、父ブッシュは、フセイン・イラクとの敵対的矛盾を解決できなかったからである。


私が基本的にブッシュの選択を支持するのは、結局、自由主義と民主主義という価値観をアメリカと共有していることを自覚しているからである。フセイン体制は、アメリカと比較すれば、より抑圧的で不自由であることを認めざるを得ない。フセインの息子たちの高級な外車を何台も所有するような放埓な行動や、フセインが亡命した娘婿たちに対して行った処刑などを見ても、また、国内に居住するクルド人に対する政策を見ても、この政権が民主主義とは程遠いことがわかる。


少なくともアメリカにおいては、ブッシュを選挙によって落選させることもできるし、また、映画監督のマイケルムーアのように、映画でブッシュ大統領を痛烈に皮肉ることによって、金儲けをすることもできる。市民も自由にブッシュ大統領のイラク戦争を批判することもできる。少なくとも、イラクのフセイン体制では、そうしたことは不可能だろう。どちらが自由な社会であるかは一目瞭然ではないか。


この戦争の選択の根底には、イラクのフセイン体制とアメリカのブッシュ体制のいずれを支持するかという問題がある。さらに積極的には、未来において、より自由で民主的な世界を作り広げて行くという意思の選択の問題もある。基本的な人権を侵害する抑圧的、独裁的な政権をこの地上からなくしてゆくという価値選択の問題でもある。もちろん、それは基本的には言論と選挙という手段を通じて実現して行くべきものであって、戦争という手段は、最後の最後の手段であるべきであることはいうまでもない。


アメリカのブッシュ体制とイラクのフセイン体制が、敵対的な矛盾に陥り、戦争が避けられないとすれば、選択は限られてくる。中立的な立場の選択は、問題を先送りするだけの無責任な選択であると思う。もちろん、現在のアメリカの民主主義政治体制にも問題の多いことは十分にわかっているつもりである。しかし、また、現在の日本はアメリカとは安全保障条約を結んでおり、対中国や対北朝鮮の関係もあって、アメリカとの同盟関係はこれからも堅持して行かなければならない。


そして、すでに賽は投げられたのである。もう、イラクの戦争で後戻りすることはできない。イラク国民が、将来において、より自由で民主的な社会を豊かに享受することができるように支援することがあるのみである。フセイン一派の反体制派も、早く武器を捨て、言論と選挙によってのみ自分たちの価値観を実現して行く政治体制を認め、それに参加して行くべきである。どんな恨みがあるとしても、人質たちを残虐に処刑したり、まして、それをネットで公開するような非人間的で愚劣な行為はやめるべきである。


自衛隊の皆さんが今もなお異郷の地イラクにあって、社会復興に貢献していることを、私も誇りに思っている。もちろん、自衛隊が、やがて、堂々たる民主国家日本の国防軍となることを願い、現在のように、オランダやイギリスやオーストラリヤ軍などに守られて職務を遂行せざるを得ないような、情けない状況を改革して行くのも国民の責務であると思っている。

民主主義の人間観と倫理観(1)──より良き民主国家建設のために

2005年08月13日 | 政治・経済

民主主義の人間観と倫理観──より良き民主国家建設のために

      
民主主義の倫理観や人間観について述べようとすると、「民主主義に倫理観や人間観があるのですか」と問われたりする。もちろん、他の多くの重要な社会思想と同じように、民主主義にも、人間観や倫理観は含まれている。結論からいって、歴史的にも社会的にもこれほど重要な役割を果してきた民主主義のような思想に人間観や倫理観が含まれないと考えるほうがおかしいのではないでしょうか。こんな質問を受けること自体、日本の民主主義の伝統の浅さや、学校での民主主義教育の貧しさを推測させるものと思います。


民主主義とは、語源からすれば、民衆の権力、人民の支配と言う意味ですが、起源としては、古代ギリシャが考えられています。しかし、現代の民主主義は、古代ギリシャではなくフランス革命とイギリス・プロテスタンティズムに直接の根拠を持つと考えられます。そして、ことばは同じ民主主義であっても、フランス革命の人民主権の色彩の強い政治的民主主義と、個人の尊重や社会構成員の権利の平等を強調するプロテスタントの社会的民主主義は区別されるべきでしょう。


民主主義とは、基本的人権の尊重や法の下の平等、納税や兵役の義務などといった個人と共同体の関係のあり方を規定する倫理観や人間観の体系といってよいと思います。この民主主義は、経済的弱者や被抑圧者を母胎とする思想であるいえます。今日の社会に当てはめれば、勤労者や一般消費者の論理を代弁する価値観といえます。


それに対して、 自由主義とは、簡単に定義すれば、人間の欲望を無制限に追及することを肯定する人生観、倫理観といえます。この思想は、歴史的には産業ブルジョアジーの考え方として登場したものであり、したがって、この主義は、今日の社会では、いわゆる資本家=生産者の論理を代弁することになります。


こうした自由主義観や民主主義観は、これらの思想の母体となった特に欧米では自明の前提だったのではないでしょうか。そして、逆にこうした本質的な理解を欠いたままに、浅薄な議論が行われてきたことが、日本で「民主主義」の信用を貶めることになったのではないでしょうか。不幸なことだとも思います。



ところで、民主主義の倫理観についてですが、これは日本国憲法においても「納税の義務」、「教育の義務」、「労働の義務」「生存権や財産権の保障」などに現われています。これらは共同体の個人に対する義務や個人の共同体に対する義務を規定したものです。納税の義務や労働の義務や教育の義務は比較的にわかりやすいと思います。国民の国家や共同体に対する倫理的義務を示しています。封建時代の年貢制度などと比較されると民主主義の倫理観がどのようなものであるかわかると思います。


儒教道徳を根底にした封建社会の倫理とは違って、民主主義には「個人としての尊重」や「基本的人権の尊重」や「法の下に平等」「他者の自由の尊重」といった人間観、倫理観が根底にあります。これらの権利義務は強制によるものではなく、民衆の多数決原理によって自ら制定した法律に基づく自発的意思によるものです。



中でも、民主主義国家の国民の国家に対する倫理的な義務を規定した納税の義務などについては、日本では、ほとんどが「源泉徴収」によって行われているので、国家や公共団体に対する国民の倫理的な義務は自覚されにくくなっていると思います。全国民が一律に「収入の10パーセント」を納付することなど、税制を根本的に簡素化し、また源泉徴収制度も廃止し、国民の自主的な納付制度に改革すれば、国民の民主的な自覚も少しは高まるかもしれません。
 

そして、国民の国家に対する倫理的な義務の最たるものである「兵役の義務」があります。しかし、日本国憲法には、その成立の特異性ゆえに、「兵役の義務」については規定されていません。民主主義にとってあまりにも自明な「兵役の義務」が規定されていないのです。本来、民主主義国家では、国民は何よりも、国家国民のために、自ら国防の任務を負うのです。


封建社会や絶対主義国家では、武士や軍隊が主君である大名や天皇のために国防の使命を負いましたが、民主主義国家では国民全体が国民自身のために、その責任を担います。国防のために兵役の義務を果すことは、民主主義国家の国民にとってはあまりにも自明のことです。兵役に従事し、身命をとして国家国民のために奉仕すること、これ以上の倫理的義務があるでしょうか。封建社会や絶対主義国家には、国民全体にこうした意識はありません。そして、現在の日本人の「民主主義」には、この倫理観が完全に欠落しているのです。



民主国家の事例としてスイスが取り上げられますが、スイスの国防の実体は、「軍事国家」といえるほどのものです。これが、歴史的に典型的な民主主義国家の実際です。「徴兵制」(正しくは志願制兵役)や「愛国心」などというと、いわゆる「右翼的な思想」の専売特許のように思われていますが、論理的に考えて、民主主義国家の国民の愛国心ほど強いものはありません。もしそうでないとすれば、その国家は名目はとにかく、実質的には「民主主義国」ではないのです。なぜなら、民主主義国家であるほど、その政府は、国民に奉仕する存在となり、また、その国家は一般国民にとって暮らしやすい幸福な国になるからです。国家や政府からの恩恵を十分に自覚している国民は、なにも政府から強制されることがなくとも、もっとも愛国的な国民になります。


また、民主主義は伝統文化を尊重するものです。その倫理観からも、私たちの祖国と祖先の、動かすことのできない過去の伝統文化を、その宗教や習俗を尊敬し愛することのない民主主義があるのでしょうか。民主主義の原則が、単に空間的にだけではなく時間的にも歴史的にも貫かれれば、当然の論理的帰結としてそうなります。「戦後の民主主義」が、日本の伝統文化を破壊しているというのは、民主主義の思想の本来的な欠陥から来るのでしょうか。あるいは、民主主義を、浅薄にしか理解しなかった国民の、特に自称左翼の責任でしょうか。


こうした民主主義観が真に基礎を得るには宗教が必要なのですが、残念ながら、日本ではその基礎を欠いていたといえます。宗教抜きの民主主義は、今日の日本のような「欲望民主主義」「悪平等民主主義」になりがちです。明治の指導者は、民主主義の人間観や倫理観を拒絶して、あるいは理解しないで、天皇制や「教育勅語」などによって、当時の道徳的危機を打開しようとしました。その結果が、民主主義国イギリスとの同盟ではなく、ヒットラーとの同盟となったのだと思います。この歴史的教訓を、それは歴史的必然と言ってよいと思いますが、深く学ばないと、かってのドイツと同じように、再び同じ結果を招くことになると思います。


特に、日本の民主主義は、太平洋戦争による敗北を契機に日本国民に導入されたために、多くの点で、歪曲され、浅薄化していると思います。というよりも、民主主義の概念が、いわゆる左翼から右翼まで混乱しています。イギリス・プロテスタンティズムを基盤とする「社会的民主主義」については、古代ギリシャ民主主義やフランス革命の「政治的民主主義」と区別するために、これを「共和主義」と呼んだほうがよいかもしれません。いずれにせよ「民主主義とは何か」という本質的な論議と認識をいっそう深める必要があると思います。



そして、民主主義には、多くの伝統的な宗教や倫理道徳にも共通する、もっとも普遍的な人間観や倫理観が含まれているのですから、国民はこの民主主義の倫理観、人間観によって自分たち国民を教育すればよいのです。確かに、民主主義には、「あなたの父母を敬え」とか「殺すなかれ」とか「盗むな」といったこと細かな倫理規定まで含むものではありませんが、しかし、基本的人権の尊重とか、個人の尊厳、少数意見の尊重というような根本的な倫理観は含まれているのです。



そうして国民全体の民主主義についての認識を高め、民主主義によって自己教育を深めて行きながら、同時に、民主主義政治が衆愚政治や全体主義に反転することを防いでゆく必要があるのですが、それには、民主主義の概念を国民全体で深く体得しつつ解決して行くしかないと思います。これはプラトン以来の人類の困難な課題なのかも知れません。ニーチェの思想やマルクス主義などの「全体主義」も、その解決法が正しいかいなかはとにかく、端緒は衆愚政治に対する抵抗でした。

 
歴史的には民主主義はプロテスタント・キリスト教の論理的帰結、もしくはその完成、もしくはその世俗化であるともいえます。ですから、そこには当然、キリスト教の倫理観、人間観が内容的に保存されているのです。ですから、民主主義は、宗教という形式を止揚した「宗教」ともいえます。(宗教をどのように定義するかによりますが)この点については、 私は実証的な歴史学者でもないので、論理的に推測するしかないのですが。とはいえ、民主主義の倫理観や人間観は、最も普遍的で、多くの伝統的宗教や倫理道徳の最大公約数としての意義ももっています。



最後に、 さらに逸脱するかも知れませんが、 大学や教育者、政治家、公務員、そして国民自身の責任として、学校教育における正しい民主主義教育の必要について主張したいと思います。最近一部の人には評判の悪い、古色蒼然とした「民主主義」ですが、そのせいか、人間観や倫理観としての観点からの民主主義教育の重要性が自覚されてもいず、実行もされていません。これは学校で「道徳の時間」に民主主義の訓練がほとんど行われていないことにもあらわれています。


共産主義者の「民主主義観」に対する大衆の健全な反感が、民主主義の健全な育成の障害になったのかも知れません。共産主義者の「唯物論人民民主主義」は、個人としての人格を尊重せず、学問、宗教、思想信条の自由を尊重する精神を欠き、自己の思想を相対化して反省することを知らない、全体主義的で狂信的なものだからです。


いじめの問題も学力低下の問題も、「クラス共同体」の問題として、子供たち自身が民主主義の精神とルールに従って、自主的に主体的に問題解決に取り組むための民主的な訓練の機会として活用すべきなのですが、指導者や学校に、そのような問題意識がありません。単に学校や教師自身の問題として、あるいは、その生徒個人の問題として扱われています。その結果、子供たちの倫理観も人間観も深まりません。「クラス共同体」の問題として、社会や共同体の倫理の問題としてクラス全体で主体的に取り組み解決しようという自覚も姿勢も欠いています。今日のこのような学校現場や、また日本社会全体としての一般的な道徳的危機を、正しい民主主義の人間観や倫理観の普及と徹底以外にどうして正しく解決で
きるでしょうか。


そして学校教育の現場では「政治活動」と「政治教育」とが混同され、はっきりと区別されてきませんでした。「政治活動の禁止」という名目で「政治教育」まで否定され行われてこなかったのです。確かに、学校教育においては、特定の価値観にしたがった「政治活動」は完全に禁止される必要があります。しかし、「政治教育」は、つまり民主主義の制度とその精神、その倫理観と人間観はあらゆる場面で教育され、民主主義の能力は訓練される必要があります。


いじめの問題や、生徒自身の学力の問題なども、生徒自身の参加と自治の精神を活用して、民主主義的に解決する能力を高めるよい機会になります。そのためには、なによりも特に学校関係者が 民主主義の制度と精神を、実際に活用し運営する「能力」として普段に高めてゆく必要があると思います。


学校でのこの民主主義教育の充実が、今日の「郵政民営化問題」や北朝鮮や中国などの「非民主的国家」との外交のあり方、「北朝鮮の拉致被害者の救済」といった、政治的な課題に対する国民の問題解決能力を高めることになります。年金問題や少子高齢化問題といった政治的課題についての、国民の判断能力や問題解決能力を高めることになります。


そして、今日の政党政治を、利権がらみの錯綜し閉塞したものから、もっと合理的なものに再編して行く必要があります。先にも述べたように、今日のいわゆる「市民社会」は、基本的に生産者、資本家と消費者、勤労者の利害の対立と調和の上に構成されているのですから、生産者、資本家の利害を代表するのか、それとも、消費者、勤労者の利害を代表するのか、政治家にその旗幟を鮮明にさせ、それぞれの旗幟にしたがって、自由党と民主党に結集させ、民主主義の原理にたつ二大政党が国家と国民のために、政治の質を競いあわせるようにするのです。そのためにも、現在の自由民主党は、解体されて、自由党と民主党になり、現在の岡田民主党をも巻き込んで、今一度政界が再編成される必要があります。


そして、生産者、資本家の利益を代弁する自由党と消費者、勤労者の利益を代弁する民主党のそれぞれが国民のための政治を目指して競争し合うことです。
それが、劣悪な政治という長年の不幸から国民を救うことにもなると思います


民主主義の人間観と倫理観──より良き民主国家建設のために

2005年07月12日 | 政治・経済

 

民主主義の倫理観や人間観について述べようとすると、「民主主義に倫理観や人間観があるのですか」と問われたりする。もちろん、他の多くの重要な社会思想と同じように、民主主義にも、人間観や倫理観は含まれている。結論からいって、歴史的にも社会的にもこれほど重要な役割を果してきた民主主義のような思想に人間観や倫理観が含まれないと考えるほうがおかしいのではないでしょうか。こんな質問を受けること自体、日本の民主主義の伝統の浅さや、学校での民主主義教育の貧しさを推測させるものと思います。


民主主義とは、語源からすれば、民衆の権力、人民の支配と言う意味ですが、起源としては、古代ギリシャが考えられています。しかし、現代の民主主義は、古代ギリシャではなくフランス革命とイギリス・プロテスタンティズムに直接の根拠を持つと考えられます。そして、ことばは同じ民主主義であっても、フランス革命の人民主権の色彩の強い政治的民主主義と、個人の尊重や社会構成員の権利の平等を強調するプロテスタントの社会的民主主義は区別されるべきでしょう。


民主主義とは、基本的人権の尊重や法の下の平等、納税や兵役の義務などといった個人と共同体の関係のあり方を規定する倫理観や人間観の体系といってよいと思います。この民主主義は、経済的弱者や被抑圧者を母胎とする思想であるいえます。今日の社会に当てはめれば、勤労者や一般消費者の論理を代弁する価値観といえます。


それに対して、 自由主義とは、簡単に定義すれば、人間の欲望を無制限に追及することを肯定する人生観、倫理観といえます。この思想は、歴史的には産業ブルジョアジーの考え方として登場したものであり、したがって、この主義は、今日の社会では、いわゆる資本家=生産者の論理を代弁することになります。


こうした自由主義観や民主主義観は、これらの思想の母体となった特に欧米では自明の前提だったのではないでしょうか。そして、逆にこうした本質的な理解を欠いたままに、浅薄な議論が行われてきたことが、日本で「民主主義」の信用を貶めることになったのではないでしょうか。不幸なことだとも思います。

 

ところで、民主主義の倫理観についてですが、これは日本国憲法においても「納税の義務」、「教育の義務」、「労働の義務」「生存権や財産権の保障」などに現われています。これらは共同体の個人に対する義務や個人の共同体に対する義務を規定したものです。納税の義務や労働の義務や教育の義務は比較的にわかりやすいと思います。国民の国家や共同体に対する倫理的義務を示しています。封建時代の年貢制度などと比較されると民主主義の倫理観がどのようなものであるかわかると思います。


儒教道徳を根底にした封建社会の倫理とは違って、民主主義には「個人としての尊重」や「基本的人権の尊重」や「法の下に平等」「他者の自由の尊重」といった人間観、倫理観が根底にあります。これらの権利義務は強制によるものではなく、民衆の多数決原理によって自ら制定した法律に基づく自発的意思によるものです。
 

 
中でも、民主主義国家の国民の国家に対する倫理的な義務を規定した納税の義務などについては、日本では、ほとんどが「源泉徴収」によって行われているので、国家や公共団体に対する国民の倫理的な義務は自覚されにくくなっていると思います。全国民が一律に「収入の10パーセント」を納付することなど、税制を根本的に簡素化し、また源泉徴収制度も廃止し、国民の自主的な納付制度に改革すれば、国民の民主的な自覚も少しは高まるかもしれません。
 

そして、国民の国家に対する倫理的な義務の最たるものである「兵役の義務」があります。しかし、日本国憲法には、その成立の特異性ゆえに、「兵役の義務」については規定されていません。民主主義にとってあまりにも自明な「兵役の義務」が規定されていないのです。本来、民主主義国家では、国民は何よりも、国家国民のために、自ら国防の任務を負うのです。


封建社会や絶対主義国家では、武士や軍隊が主君である大名や天皇のために国防の使命を負いましたが、民主主義国家では国民全体が国民自身のために、その責任を担います。国防のために兵役の義務を果すことは、民主主義国家の国民にとってはあまりにも自明のことです。兵役に従事し、身命をとして国家国民のために奉仕すること、これ以上の倫理的義務があるでしょうか。封建社会や絶対主義国家には、国民全体にこうした意識はありません。そして、現在の日本人の「民主主義」には、この倫理観が完全に欠落しているのです。

 

民主国家の事例としてスイスが取り上げられますが、スイスの国防の実体は、「軍事国家」といえるほどのものです。これが、歴史的に典型的な民主主義国家の実際です。「徴兵制」(正しくは志願制兵役)や「愛国心」などというと、いわゆる「右翼的な思想」の専売特許のように思われていますが、論理的に考えて、民主主義国家の国民の愛国心ほど強いものはありません。もしそうでないとすれば、その国家は名目はとにかく、実質的には「民主主義国」ではないのです。なぜなら、民主主義国家であるほど、その政府は、国民に奉仕する存在となり、また、その国家は一般国民にとって暮らしやすい幸福な国になるからです。国家や政府からの恩恵を十分に自覚している国民は、なにも政府から強制されることがなくとも、もっとも愛国的な国民になります。


また、民主主義は伝統文化を尊重するものです。その倫理観からも、私たちの祖国と祖先の、動かすことのできない過去の伝統文化を、その宗教や習俗を尊敬し愛することのない民主主義があるのでしょうか。民主主義の原則が、単に空間的にだけではなく時間的にも歴史的にも貫かれれば、当然の論理的帰結としてそうなります。「戦後の民主主義」が、日本の伝統文化を破壊しているというのは、民主主義の思想の本来的な欠陥から来るのでしょうか。あるいは、民主主義を、浅薄にしか理解しなかった国民の、特に自称左翼の責任でしょうか。
 

こうした民主主義観が真に基礎を得るには宗教が必要なのですが、残念ながら、日本ではその基礎を欠いていたといえます。宗教抜きの民主主義は、今日の日本のような「欲望民主主義」「悪平等民主主義」になりがちです。明治の指導者は、民主主義の人間観や倫理観を拒絶して、あるいは理解しないで、天皇制や「教育勅語」などによって、当時の道徳的危機を打開しようとしました。その結果が、民主主義国イギリスとの同盟ではなく、ヒットラーとの同盟となったのだと思います。この歴史的教訓を、それは歴史的必然と言ってよいと思いますが、深く学ばないと、かってのドイツと同じように、再び同じ結果を招くことになると思います。


特に、日本の民主主義は、太平洋戦争による敗北を契機に日本国民に導入されたために、多くの点で、歪曲され、浅薄化していると思います。というよりも、民主主義の概念が、いわゆる左翼から右翼まで混乱しています。イギリス・プロテスタンティズムを基盤とする「社会的民主主義」については、古代ギリシャ民主主義やフランス革命の「政治的民主主義」と区別するために、これを「共和主義」と呼んだほうがよいかもしれません。いずれにせよ「民主主義とは何か」という本質的な論議と認識をいっそう深める必要があると思います。

 

そして、民主主義には、多くの伝統的な宗教や倫理道徳にも共通する、もっとも普遍的な人間観や倫理観が含まれているのですから、国民はこの民主主義の倫理観、人間観によって自分たち国民を教育すればよいのです。確かに、民主主義には、「あなたの父母を敬え」とか「殺すなかれ」とか「盗むな」といったこと細かな倫理規定まで含むものではありませんが、しかし、基本的人権の尊重とか、個人の尊厳、少数意見の尊重というような根本的な倫理観は含まれているのです。

 

そうして国民全体の民主主義についての認識を高め、民主主義によって自己教育を深めて行きながら、同時に、民主主義政治が衆愚政治や全体主義に反転することを防いでゆく必要があるのですが、それには、民主主義の概念を国民全体で深く体得しつつ解決して行くしかないと思います。これはプラトン以来の人類の困難な課題なのかも知れません。ニーチェの思想やマルクス主義などの「全体主義」も、その解決法が正しいかいなかはとにかく、端緒は衆愚政治に対する抵抗でした。

 
歴史的には民主主義はプロテスタント・キリスト教の論理的帰結、もしくはその完成、もしくはその世俗化であるともいえます。ですから、そこには当然、キリスト教の倫理観、人間観が内容的に保存されているのです。ですから、民主主義は、宗教という形式を止揚した「宗教」ともいえます。(宗教をどのように定義するかによりますが)この点については、 私は実証的な歴史学者でもないので、論理的に推測するしかないのですが。とはいえ、民主主義の倫理観や人間観は、最も普遍的で、多くの伝統的宗教や倫理道徳の最大公約数としての意義ももっています。
 

 
最後に、 さらに逸脱するかも知れませんが、 大学や教育者、政治家、公務員、そして国民自身の責任として、学校教育における正しい民主主義教育の必要について主張したいと思います。最近一部の人には評判の悪い、古色蒼然とした「民主主義」ですが、そのせいか、人間観や倫理観としての観点からの民主主義教育の重要性が自覚されてもいず、実行もされていません。これは学校で「道徳の時間」に民主主義の訓練がほとんど行われていないことにもあらわれています。


共産主義者の「民主主義観」に対する大衆の健全な反感が、民主主義の健全な育成の障害になったのかも知れません。共産主義者の「唯物論人民民主主義」は、個人としての人格を尊重せず、学問、宗教、思想信条の自由を尊重する精神を欠き、自己の思想を相対化して反省することを知らない、全体主義的で狂信的なものだからです。


いじめの問題も学力低下の問題も、「クラス共同体」の問題として、子供たち自身が民主主義の精神とルールに従って、自主的に主体的に問題解決に取り組むための民主的な訓練の機会として活用すべきなのですが、指導者や学校に、そのような問題意識がありません。単に学校や教師自身の問題として、あるいは、その生徒個人の問題として扱われています。その結果、子供たちの倫理観も人間観も深まりません。「クラス共同体」の問題として、社会や共同体の倫理の問題としてクラス全体で主体的に取り組み解決しようという自覚も姿勢も欠いています。今日のこのような学校現場や、また日本社会全体としての一般的な道徳的危機を、正しい民主主義の人間観や倫理観の普及と徹底以外にどうして正しく解決できるでしょうか。


そして学校教育の現場では「政治活動」と「政治教育」とが混同され、はっきりと区別されてきませんでした。「政治活動の禁止」という名目で「政治教育」まで否定され行われてこなかったのです。確かに、学校教育においては、特定の価値観にしたがった「政治活動」は完全に禁止される必要があります。しかし、「政治教育」は、つまり民主主義の制度とその精神、その倫理観と人間観はあらゆる場面で教育され、民主主義の能力は訓練される必要があります。


いじめの問題や、生徒自身の学力の問題なども、生徒自身の参加と自治の精神を活用して、民主主義的に解決する能力を高めるよい機会になります。そのためには、なによりも特に学校関係者が 民主主義の制度と精神を、実際に活用し運営する「能力」として普段に高めてゆく必要があると思います。


学校でのこの民主主義教育の充実が、今日の「郵政民営化問題」や北朝鮮や中国などの「非民主的国家」との外交のあり方、「北朝鮮の拉致被害者の救済」といった、政治的な課題に対する国民の問題解決能力を高めることになります。年金問題や少子高齢化問題といった政治的課題についての、国民の判断能力や問題解決能力を高めることになります。


そして、今日の政党政治を、利権がらみの錯綜し閉塞したものから、もっと合理的なものに再編して行く必要があります。先にも述べたように、今日のいわゆる「市民社会」は、基本的に生産者、資本家と消費者、勤労者の利害の対立と調和の上に構成されているのですから、生産者、資本家の利害を代表するのか、それとも、消費者、勤労者の利害を代表するのか、政治家にその旗幟を鮮明にさせ、それぞれの旗幟にしたがって、自由党と民主党に結集させ、民主主義の原理にたつ二大政党が国家と国民のために、政治の質を競いあわせるようにするのです。そのためにも、現在の自由民主党は、解体されて、自由党と民主党になり、現在の岡田民主党をも巻き込んで、今一度政界が再編成される必要があります。


そして、生産者、資本家の利益を代弁する自由党と消費者、勤労者の利益を代弁する民主党のそれぞれが国民のための政治を目指して競争し合うことです。
それが、劣悪な政治という長年の不幸から国民を救うことにもなると思います。

 


自由と民主主義

2005年07月03日 | 政治・経済

 

私たちが生きて行く上でもっとも大切なものは何でしょうか。それは太陽の光や空気かも知れません。そして、地球。もし、それらがなければ人間は片時も生きては行けませんから。それにもかかわらず光も酸素も水も土地もありふれています。だから、ふだんは誰もそんなことに感謝しない。

 

それと同じように、自由や民主主義も、私たちが幸福に生きて行く上できわめて大切なものだと思います。しかし、自由や民主主義は残念ながら、この日本においては、必ずしも私たち民族自身の手で自力で勝ち取ったものとは言えません。もちろん、それを手に入れるための大きな努力はありましたし、また実際、ほとんど手に入れつつありました。しかし、ほぼ完全に手に入れたのは、あの太平洋戦争という大きな犠牲を払ってからだと思います。そのせいか、私たちの自由と民主主義は、形式的にはかなり整ったかも知れませんが、その内容や精神に未熟さや歪みがあるようです。

 

このWEBLOGでは、自由や民主主義について私たちの考えたことを、記録して行こうと思います。また、このテーマに関して、できるだけ多くの人とも論議をし、それによって考えを深めて行ける場所ともなることを期待しています。

 

さまざまな制約もあって、はじめのうちは週に一度ぐらい記載できればと考えています。焦らず気長に、しかし、着実に進んでゆくつもりです。