真珠

深海の真珠は輝かず。

失われた大和撫子

2005年08月13日 | 芸術・文化

 

撫子は私の好きな花の一つである。一番好きな花かと問われると、必ずしもそうも断言できない。桜の花も好きだし、菊も、ダリアも、リンドウも、キキョウも、蘭も皆それぞれの趣があって好きである。しかし、撫子は、大和撫子を連想させることもあって、取り分けて好きな花の一つである。初夏の堤や海辺で、草むらの影にひっそりと咲いている撫子に出会うと、その清楚な美しさについ足を止め、見つめてしまう。


 
 

放つ矢のゆくへたずぬる草むらに見いでて折れるなでしこの花

 
             (草径集 大隈言道 なでしこ)


それにしても、なぜ大和撫子と言うのだろうか。どうして、日本の女性が撫子に結び付けられたのか、いつ、誰の発想に拠るのか調べようがなく私には分からない。しかし、撫子と日本の女性が結び付けられた大和撫子という可憐な言葉は本当に美しく、また、日本の女性にとっても名誉な言葉だと思う。


それにしても、最近残念に思うことは、この大和秋津島から、本当に大和撫子がすっかりいなくなってしまったように思われることだ。本当に美しいと思う大和撫子に、すっかり出会わなくなったと思う。現代の女性には失礼かも知れないが。寂しいし、残念なことである。どうしていなくなったのだろう。本当の大和撫子はどこに行ってしまったのだろう。西洋タンポポに土着のタンポポが追い払われたように、戦後の圧倒的なアメリカ文化の、洋風文化の流入によるものだろうか。


大和撫子の伝統はそんなに浅く、弱いものだったのか。もちろん、こんなことを言っても、現代の日本女性には一笑に付されるのが落ちだということも良く分かっている。しかし、私はこの事実を哲学の問題として考えて見たいのである。


まず、私が何に美を見出しているのか。また、美とはなにか。それを哲学的に理論的に考察することはここではできない。ただ、この国から内面的な精神的な深さを感じさせる女性がすっかりいなくなってしまった。それは、真の宗教がこの国から蒸発してしまったことに起因していると思う。真の宗教こそが、女性を内面から本当の美人に作るのである。その宗教が亡くなってしまったからなのだ。心に赤いバラ黒いバラを咲かせている女性がどこにもいなくなってしまったのである。


しかし、私はまた楽観している。キリスト教の真理が不滅であるように、この国においても、やがて可憐な大和撫子が復活すると信じている。ただ、儒教や神道の仏教の土壌の中から芽を出すのではないと思う。そうではなく、古臭い伝統主義者から蛇蝎のように嫌われたキリスト教の、そのキリスト教婦人の中に、大和撫子の再生を見ることを。


まもなく春が来て、きれいな桜が咲く。そして、また日本の初夏がやってくる。そのとき、どこかの浜辺で、岸辺で、ひっそりと咲いている大和撫子に会えるかも知れない。


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