真珠

深海の真珠は輝かず。

もし私が聖書を編纂するなら

2005年08月13日 | 芸術・文化

 

洗礼を受けていなくとも、また特定の教会に所属していなくても、聖書に価値を認めて愛読している人は少なくないと思います。教会の特定の解釈や教義に縛られることなく自由に研究したいと思う者は、特に、その傾向が強いのではないでしょうか。


それにしても、現行の新旧約聖書は、あまりに大部で、忙しい現代の多くの日本人には質量ともに重過ぎると思います。テキストの形式としてふさわしいとも思えません。新約聖書だけなら、かなり、ボリュームが減るので、取り付きやすくなります。また、ユダヤ人でもない私たち日本人にはそれで十分なのかも知れません。しかし、それでは貴重な旧約聖書の遺産が失われますし、多くのクリスチャンの信仰がユダヤ人のそれよりも劣ることになりかねません。それで、もし私が現代の日本人向きに聖書を編纂しなおすとすれば、どれを選べきか考えてみました。


選択の根拠を詳しく説明するのもわずらわしいので省略しますが、まず、『詩篇』は欠かせないと思います。詩篇は聖書の中の聖書と言えるもので、日常のその朗読と判読は、聖書の宗教の基礎を形作るもので、不可欠だと思うからです。


そして、聖書を多くの現代のクリスチャンのように単なる信仰の書とすることなく、自分の頭で考え直す本とするために、旧約の「知恵の書」に属するテキストも欠かせなと思います。それで『箴言』や『伝道の書』も欲しい。さらに、聖書を芸術の香気豊かなものにしている、『雅歌』も不可欠です。また、旧約聖書の出発点である『創世記』はやはり必要かも知れません。


旧約の中から、最小限選ぶとすれば、これらのテキストを取り上げたいと思います。もちろん哲学書ならぬ宗教の書として、これらのテキストの選択について絶対的な必然性は証明できないのですが。


新約聖書の中からは何を選ぶべきでしょうか。共観福音書の中からはユダヤ教の色彩の薄い『ルカ福音書』と、それからギリシャ哲学の影響の濃い『ヨハネ福音書』を選びたいと思います。


それからキリスト教の教義の基礎を確立したパウロの『ローマ人への手紙』です。新約聖書からは、この三つのテキストで、現代人に必要な信仰と倫理道徳の基礎は十分に養成できると思います。そして、最後に聖書の教えを歴史的に、締めくくるために不可欠な書としてのヨハネの『黙示録』です。
このように聖書を簡易に改めて編纂すれば、現代日本人の多くにとっても「聖書」が『座右の書』となるのではないでしょうか。

ですから、私が私のために現行の聖書を編纂しなおすとすれば、さしあたっては

①創世記
②箴言
③詩篇
④伝道の書
⑤雅歌
⑥ルカ伝
⑦ヨハネ伝
⑧ロマ書
⑨黙示録


のテキストを選ぶことになると思います。そして、これらのテキストのそれぞれに平易な現代英語の対照訳をつけて、日本語と英語で聖書を読めるようにします。そうすれば、日常の聖書の判読が、同時に、英語の習熟と読解のトレーニングにもなります。


個人的にはこのような新編聖書があればと思っているのですが、どこかの奇特な出版社があって、編纂して出版していただければうれしいのですが。それは日本国がキリスト教国となるのにいささか貢献することにもなり、その意義は決して小さくはないと思うのです。もちろん、聖書を本格的に勉強したい者は、オーソドックスな従来の新旧約聖書を利用すればよいのです。



信仰深くあること──人間は生まれながらにしてカトリック教徒である

2005年08月13日 | 芸術・文化

 

 西洋には「人は生まれながらにしてカトリック信者である」ということわざがあるらしい。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が死去して、新しい法王の選挙が話題になったとき、そんなことわざを思い出した。手元にあることわざ辞典には、この事項の説明がないので、その意味する正確なところはよくわからない。誰か知っておられれば教えていただきたいと思う。

ただ、このことわざからわかることは、西洋社会においては、カトリック教が浸透していて普遍的であったこと、また、カトリック教徒であることは出生によって規定されていること、そして、「人間は本質的にはカトリック教徒である」という人間観が示されているらしいことである。

もしこのことわざの解釈が大きく誤っていないとすれば、「人間は本質的にカトリック教徒である」とはどういうことなのだろうか。カトリック教会では、その教義や信仰の内容は、ローマ法王をはじめとする神父さんら聖職者によって、組織として教会の権威として確定されている。そして、原則的にカトリック教会は過つことがないと考えられているから、信者は安心し信頼して、自分自身の信仰の内容を教会に決めてもらうことができる。そうして、カトリック信徒の家庭に出生した者は、精神的に新たに生まれ直すことなく、そのままカトリック教徒として生きることになる。したがってある意味では気楽である。何が善であるか、良心に反するか反しないのかなど、あれこれくよくよ、自分で思い悩んだりすることも無い。教会が自分の信仰の世話をしてくれるし、神父さんに自分の懐疑を解いてもらえる。自分の頭で何が真理であるかを見極める苦労もない。またその能力がなくとも、教会に世話してもらって、信仰を維持してゆくことも出来る。ただ信じていれば良い。

このように、人間には他者の支配を喜んで受け、外的権威を自ら進んで肯定する傾向があるという意味で、「人間は生まれながらにしてカトリック教徒である」といえるのかもしれない。しかし、何の論証もなく、自己の良心のみを最終的な決定権者とすることもなく、外的な権威に盲目的に依存させるような信条や宗教は本質的に不自由な宗教であり信条である。

何が真理であるかを、独立した自分の良心や判断で確かめようともせず、外的な権威に依存して決定するこうした傾向が人間には本質的にある。それをこのことわざは示している。確かに信仰深くあることは、魂の救済と深い倫理性を養う上で意義があるとしても、それが感情の枠から出ようとしない限り、他者との対話や共同性から閉ざされて、狂信性を帯びる恐れはある。そして、人間のこの傾向が、教祖や教義に対する盲従と盲信に結びついたときにいっそう危険なものになる。「信仰深くあれ」という名目で疑うことが禁じられ、その教義ついて自己の良心に照らして独自に思考し、批判的に吟味する道が閉ざされている場合には、そして、その信仰が、殺人を肯定するような教義を持つ宗教によるものであれば、いっそう危険なものになる。ここでは信仰深くあることは戒められなければならないのである。

もちろん、信仰上においてだけ、単なる教義上だけで殺人や窃盗を肯定しているのであれば、犯罪は構成しない。しかし、その狂信的な教義を実際に実行すれば、当然に刑法上の犯罪を構成し、不法行為として国家の法規範に抵触し、その犯罪は国家権力によって糾されることになる。

その端的な事例となったのが、オーム真理教事件である。多くの高学歴の青年が、松本智津夫という教祖の狂信的で愚かな教義を盲信盲従して、殺人という犯罪を犯し、他人の人権を最大限に侵害するばかりでなく、自らの貴重な人生をも棒に振ってしまった。ここには「人間は生まれながらにしてカトリック教徒である」ということわざに示されるような、外的な権威に盲従盲信する人間の本質的な傾向が、現代においてもなお顕著であることが示されている。価値観や判断能力を独自に確立することの難しさという普遍的で原理的な人間の能力の問題と──これは人類の動物としての資質の到達水準を示している──、さらには、国家や社会の組織や制度の発達の程度、一国の学術文化教育の水準の問題として、日本の公教育がかかえる特殊な問題が存在している。

人類がまだサルからそれほど進化していないのだとすれば、それは、人類の現時点で到達している能力と資質の問題だからどうしようもない。しかし、国家や社会の制度、教育の問題などは、少なくとも、それらを改革することによって、人間社会の抱える問題を解決できる場合が少なくない。日本の公教育はどうかといえば、事実として、「生まれながらのカトリック教徒」を育てているのではないだろうか。あるいは、太平洋戦争前の、権威を疑うことを許さず、自主的な思考を育成してこなかった皇民教育をいまだ克服できないでいるか。

少なくとも、特定の教義や個人に盲従して、その支配に自己をゆだねる精神構造をもった、上祐史浩や村井秀夫のような市民、国民の発生を可能にしている。また、政治家も教育関係者も、そうしたオーム真理教事件の根本原因を正確に認識しておらず、この事件が何よりも日本の公教育の欠陥による失敗であるという深刻な事実認識もない。そのために、同種の事件の再発の可能性の根を摘むことができないでいる。植物の種が存在する限り、日光や土壌など条件さえそろえば、芽は必ず吹きかえすのである。

上祐や村井などが、早稲田大学や大阪大学、東京大学といった教育機関に学び、そして、その多くが理工系学部出身者であったことは看過されるべきことではない。そこに深刻な教育上の欠陥が存在していると見るほうが自然である。日本の民主主義教育の未熟と奇形を見るべきかもしれない。この事実を特に日本の教育関係者と政治家は深刻に受け取るべきである。

国民の自己教育の欠陥は、さらに、北朝鮮や中国などの全体主義的な独裁国家などとの外交問題の対処の仕方に、また、オーム真理教(「アーレフ」に改名)や共産党や創価学会などの個人崇拝の問題が発生しやすい全体主義的な組織や団体に対して、どのように対処して行くべきかという内政的な問題の処理方法にもつながってくる。民主主義的な国家の外部と内部に存在する、そうした反民主主義的な政治団体や宗教組織に対して、民主的な国家や国民はどのように適切に対処してゆくのかという根本問題が含まれている。

ヨーロッパ中世のように、いまだ権威や教祖に喜んで自己の支配をゆだねる「カトリック教徒」の多いわが国において、いったいどのような思想と価値観で国民は自己を教育し、どのような原理で国家や社会を組織し統治運営すれば、より高い自由と真理と善を実現した国家と社会を享受しうるのか、そして最大多数の国民の幸福を保証できるのか。国民一人一人の良心と判断で考えたいものである。


ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の死──カトリック教について

2005年08月13日 | 芸術・文化

 

ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が2日午後9時37分(日本時間3日午前4時37分)、バチカンの法王宮殿で死去した。享年84歳だった。パウロ2世法王の法王就任は、1978年であるから、ほぼ四半世紀にわたって法王の座にあった。


法王は私の青年時代以降の時間をほとんど同時代人として生きてきた。法王は1920年のポーランドの生まれで、したがってナチスドイツの侵攻を青年時代に体験している。反ナチス運動に参加もしていたようである。そして、ポーランドの労働組合のワレサ書記長らの精神的な支柱となって90年以降のゴルバチョフのペレストロイカに始まる共産主義崩壊の歴史的な現場に立ち会ってきた。


幸いにして、現代においてカトリック教は、わが国においても支配的な宗教ではなく、また中世のように、カトリックの教義に反するという理由で、異端審問にかけられることもない。私が勝手に聖書を研究したからといって、それによって自由な信仰を妨げられることもない。思想信条の自由、宗教の自由は、人類の歴史的な成果であり、先人が血と汗と涙を流して購いとった成果である。私たちもその恩恵によって自由を享受している。


カトリック教徒は世界に十一億人いるそうである。もちろん、そのすべてが真のキリスト者ということは、そもそもありえない。しかし、その長い伝統と、その教義のゆえに、私もまたカトリック教については相応の敬意をもっている。カトリックのキリスト教は純粋で、多くのキリスト教のなかでも、もっとも非俗的で、多くのプロテスタント教会や新興宗教のキリスト教が、その教義を変質させ、混乱し俗化してしまっている中にあって、なお、高貴な宗教であることは認めている。


中南米アメリカ諸国で影響力をもった、いわゆる「解放の神学」についても、法王がどのような見解を持っていたのかわからない。しかし、カトリック教は中南米においても抑圧的な政権の支柱になるとともに、また一方で下級神父を中心にして、抑圧された貧しい人々のために多く働いてきたことも事実である。


私はもちろんカトリック教徒ではないが、しかし、聖書を私自身の思想と哲学の源泉と認めている点で、接点もしくは共通点はあるかもしれない。特に、結婚観や避妊の問題については、カトリックと私の考えはほとんど一致している。離婚を認めないこと、妊娠中絶には反対であることなどである。


私の「教会観」については、また別に論じることはあると思う。ただ個人的には、私の立場は、単なる聖書研究者で十分である。そしてまたヘーゲル主義者として、私はヘーゲルのカトリック観を肯定し継承している。ヘーゲルのカトリック批判は、彼の「精神哲学の第二編、客観的精神・§552」以降に展開されている。すなわち、「カトリック教は精神的に不自由な原理の上に成立している宗教」であるということである。ヘーゲルはまた言っている。「もし、宗教において非自由の原理が放棄されていないとすれば、たとい、法律や国家の秩序が理性的な法律の組織に改造されたとしても、そのときには何の役にもたたないだろう」と。


まあ、「何の役にも立たない」とまでいうのは言いすぎであるとしても、フランス革命が宗教改革を経ない国家の改造であったように、現代の日本社会が、太平洋戦争後に制定された日本国憲法によって、より理性的な法組織に改変されたとしても、それが、「宗教改革なき革命」である点では同じである。それは言わば「現代の愚事」のひとつであって、その悲喜劇が現代の日本を覆っている。


しかし、いずれにせよ、カトリックが二十一世紀以降の人類の国家の精神的支柱になることはありえない。私たちが、万葉集の純朴な天真爛漫や、古代ギリシャの人間的な優美さを思い出すように、カトリックの清貧と従順を懐かしく思い出すとしても、それはすでに失われた過去の歴史の思い出としてであって、現代の精神的な原理としてではない。


失われた大和撫子

2005年08月13日 | 芸術・文化

 

撫子は私の好きな花の一つである。一番好きな花かと問われると、必ずしもそうも断言できない。桜の花も好きだし、菊も、ダリアも、リンドウも、キキョウも、蘭も皆それぞれの趣があって好きである。しかし、撫子は、大和撫子を連想させることもあって、取り分けて好きな花の一つである。初夏の堤や海辺で、草むらの影にひっそりと咲いている撫子に出会うと、その清楚な美しさについ足を止め、見つめてしまう。


 
 

放つ矢のゆくへたずぬる草むらに見いでて折れるなでしこの花

 
             (草径集 大隈言道 なでしこ)


それにしても、なぜ大和撫子と言うのだろうか。どうして、日本の女性が撫子に結び付けられたのか、いつ、誰の発想に拠るのか調べようがなく私には分からない。しかし、撫子と日本の女性が結び付けられた大和撫子という可憐な言葉は本当に美しく、また、日本の女性にとっても名誉な言葉だと思う。


それにしても、最近残念に思うことは、この大和秋津島から、本当に大和撫子がすっかりいなくなってしまったように思われることだ。本当に美しいと思う大和撫子に、すっかり出会わなくなったと思う。現代の女性には失礼かも知れないが。寂しいし、残念なことである。どうしていなくなったのだろう。本当の大和撫子はどこに行ってしまったのだろう。西洋タンポポに土着のタンポポが追い払われたように、戦後の圧倒的なアメリカ文化の、洋風文化の流入によるものだろうか。


大和撫子の伝統はそんなに浅く、弱いものだったのか。もちろん、こんなことを言っても、現代の日本女性には一笑に付されるのが落ちだということも良く分かっている。しかし、私はこの事実を哲学の問題として考えて見たいのである。


まず、私が何に美を見出しているのか。また、美とはなにか。それを哲学的に理論的に考察することはここではできない。ただ、この国から内面的な精神的な深さを感じさせる女性がすっかりいなくなってしまった。それは、真の宗教がこの国から蒸発してしまったことに起因していると思う。真の宗教こそが、女性を内面から本当の美人に作るのである。その宗教が亡くなってしまったからなのだ。心に赤いバラ黒いバラを咲かせている女性がどこにもいなくなってしまったのである。


しかし、私はまた楽観している。キリスト教の真理が不滅であるように、この国においても、やがて可憐な大和撫子が復活すると信じている。ただ、儒教や神道の仏教の土壌の中から芽を出すのではないと思う。そうではなく、古臭い伝統主義者から蛇蝎のように嫌われたキリスト教の、そのキリスト教婦人の中に、大和撫子の再生を見ることを。


まもなく春が来て、きれいな桜が咲く。そして、また日本の初夏がやってくる。そのとき、どこかの浜辺で、岸辺で、ひっそりと咲いている大和撫子に会えるかも知れない。


寡作な小栗康平監督

2005年08月13日 | 芸術・文化

 

今日のテレビに映画監督の小栗康平氏が出ていた。残念ながら、小栗監督の映画を私はまだ一度もまともに、完全に見たことがない。ただ、この監督の処女作でもある『泥の川』は、作家の宮本輝氏がこの作品で芥川賞を取っていたこともあって、原作の小説は、早くから読んでいた。

この小説は、戦後まだ日の浅い、日本が経済の高度成長を成し遂げて豊かな暮らしを実現する前の、大阪の海に近い比較的貧しい町を舞台にしている。この小説の作者の宮本輝氏は、ほとんど、私と同じ世代で時代を共有し、私の育った時代と場所も重なる。そのせいか、この小説を読んでも共感できるところが多かった。

それにしても、この小栗監督の処女作品が制作され発表されたのは、1981年である。それからすでに20年以上が経っている。テレビでもこの映画の放映があったが、私はそのとき、この映画の一部を見ただけで、完全には見ていない。叙情的な名品で、芸術作品と呼べるものであることは確かだったようである。doronokawa

その小栗監督が、新しく映画を製作したと言う。それにしても9年ぶりの作品であると聞いて驚いた。この監督は、9年間も作品を製作していなかったのである。処女作の『泥の川』以来、20年以上が経過している。しかし、この監督には、まだ五つの作品しかない。それほどに寡作であるとは知らなかった。確かに、映画の製作にはお金が掛かり、とくに、非商業的な作品は、お金がネックになって、なかなか製作が思うに任せないということは、熱心な映画ファンでもない私も聞いて知っていた。

それにしても、この監督は、きわめて寡作ながらも、過去の作品は、国内のみならず海外からも、すべて高い評価を獲得している。カンヌ映画祭でグランプリも獲得している。この監督の技量はきわめて確かなものである。それにも関らず、財政的な理由で、この監督が思う存分にメガフォンを取れないとすれば、それは大げさではなく、日本の国にとっても大きな損失であるといえる。このような優れた芸術家が、もし持てる力量を十分に発揮できないとすれば、それは社会全体の損失とも言える。一方には今日の日本の「屈辱的な」韓流ブームを見てもわかるように、優れた芸術作品、娯楽作品を生み出せない現実がある。現代では芸術や文化の持つ経済効果も大きい。

群馬県の協力によって、『眠る男』という作品が撮られたこともあるらしい。もちろん、政府や自治体の後援は望ましいけれども、やはり、芸術や文化は、国民全体の、民間による理解と協力と支援が基本ではないだろうか。そこに、芸術や文化に対する国民の成熟度が問われていると思う。

最近は、映画もビデオ化されたり、テレビで放映されたり、また、DVD化されたりして、それなりに著作権収入はあるのかも知れない。その点は良くわからない。しかし、この優れた監督が、たとえ9年間も作品が製作できなかったとしても、それが本人の才能や能力以外の、もし、それが財政的な理由によるものであるとすれば、やはり、社会全体、国民全体の観点から、自分たちの文化と芸術の問題として反省する点があるのではないだろうか。

それは何も、映画だけにとどまらない。絵画、建築、文学その他、学術、文化、芸術一般にいえることである。私たちの市民社会の質の高さが問われていると言える。私たち市民、国民の間にどれだけ優れた、娯楽作品、芸術作品を産出し共有できるかという問題である。国民の芸術や文化の産出力も国際的な競争にさらされているといえる。文化学術政策のあり方を見なおす必要もありそうである。韓国では金大中大統領時代の文化政策の効果が今現れているとも言われる。

いずれにせよ、近いうちにこの小栗監督の全作品を鑑賞できることを楽しみにしている。その時は批評でも書いてみたい。


渚の院の七夕

2005年08月13日 | 芸術・文化

 

                           

今日は七夕の日。子供の頃、笹飾りを作って、近所の人たちと淀川にまで流しに行った時の記憶が懐かしくよみがえる。子供の心の世界は分裂を知らず、この世で天国を生きている。思春期を過ぎて、心は二つに分裂し、人は悪を知りエデンの園から追放される。
 


残念ながら、夕方から雷をともなったかなり激しい雨。六時ごろには止んだが、天の川は眺められそうにもない。七夕という言葉から、伊勢物語の中で業平が、昔、交野で詠んだ歌を思い出した。今の枚方市に「天の河」という地名があるらしい。つい眼と鼻の先に暮らしていながら全く疎い。



  狩り暮らし、たなばたつめに、宿からむ、天の河原に、我は来にけり



八十二段の渚の院の桜に因む七夕の歌。

渚の院とは、水無瀬にあった惟喬の親王の離宮で、惟喬の親王はよくここに出掛けて狩をされたことが伊勢物語に記されている。皇子は業平をつねに伴われた。今も阪急京都線に水無瀬駅があり、我が家からも近い。

曇り空の今宵、部屋の中で、業平のこの「たなばたの歌」についての小論を書いて、七夕の記憶にする。

 

水無瀬に惟喬の親王の離宮があった関係で毎年、桜の花の盛りの頃には皇子は御幸せられた。その際にはいつも右の馬の頭をお連れになられた。ある春の出来事でした。交野の原での狩はいいかげんにし、お酒を飲み交わしお楽しみになった。そのとき、離宮は渚の院と呼ばれていましたが、そこに咲いていた桜があまりに美しかったので、その桜の樹の許にすわって、桜の枝を折ってかんざしに刺して、身分の高い者も低い者もすべて和歌を詠んだ。 そのとき馬の頭は、この世の中に桜という花が、全く無かったとすれば、春も物思いにふけることもなく、どんなにのどかだろうと思って、

   世の中に、たえて桜のなかりせば、春の心は、のどけからまし

と、こんな歌を詠んだ。この右の馬の頭がどんな名前だったのか、もう遠い昔のことになってしまったので忘れてしまいました。

そうすると、お側でお仕えしていた他のもう一人が、次のような歌を詠んで反論しました。

   

   散ればこそ、いとど桜は、めでたけれ、うき世になにか、久しかるべき

桜の花は、はかなく散るからこそ、すばらしいのですよ。このつらく悲しい世の中に、桜と同じように散りもしないで、いつまでも永らえるものが一体あるとでも言うのですか。

こうして歌を詠んだりして、やがて、みんなは桜の樹の下から離れ、立って帰って行きます。すっかり日も暮れてしまったとき、御神酒を下げたお供の人が野原から出てきました。そして、このお酒を飲んでしまおうということになり、よい場所を探して行くと、天の河というところに来ました。業平が親王に御酒を差し上げると、皇子は「交野を狩りしてきて天の河のほとりに来てしまった」という題で、歌を詠んでから杯を注ぎなさいと言われた。そこで、業平が詠んだ歌、

   狩り暮らし、たなばたつめに、宿からむ、天の河原に、我は来にけり

一日中狩り暮らしていて、とうとう天の河原のほとりにまで来てしまいました。今宵はこの近くにおられるはずの織姫さんに宿を借りることにしよう

親王はこの歌を繰り返し繰り返し朗誦されましたが、歌がすばらしくて、返歌なさることができませんでした。それで、いっしょにお供してきた紀の有常という人が、この人は業平の舅にあたる人でしたが、代わって次のような歌を詠みました。

   一年に、ひとたび来ます、君待てば、宿貸す人も、あらじとぞ思ふ

織姫さんは、一年にただ一度だけ訪れる愛しい牽牛さんを待っていますから、 今宵、宿を貸してくれる人はいないと思いますよ

こんな歌を詠みながら業平に反論します。こうして皆は渚の院にお帰りになった。

これらは、過ぎ去った昔の、惟喬親王と業平らのまだ若かった日々の楽しい思い出で話である。もちろん、伊勢物語の読者は、後年、惟喬親王の、雪深い小野の里に隠棲しなければならなかった運命を知っている。

そして、業平の時代からほぼ七〇年後に、まだ彼らの記憶も生なましいとき、土佐での勤めを終えて京に帰る途上にあった紀貫之が、渚の院の傍らを船で行き過ぎる時、惟喬野皇子と業平の故事を思い出して、

  

    千代経たる、松にはあれど、いにしえの、声の寒さは、変わらざりけり

千年という歳月を経た松ではあるけれども、その梢を吹き抜ける、松風の荒涼とした騒ぎは、今も昔も変わりません

という歌を詠んで、時間と自然の非情の中に生きざるをえない人間と、悲運の生涯を生きた惟喬親王や業平たちを懐古すると供に、

   君恋ひて、世を経る宿の、梅の花、昔の香にぞ、猶匂ひける

かって主君のそばで美しく咲いていた梅の花は、その主人がいなくなってからも、長い歳月を経て朽ちつつある屋敷の庭にあっても昔と同じままに、今も猶あなたを慕って美しく咲き匂っていますよ

という歌を詠んで、不如意に生きざるをえなかった惟喬親王の魂を鎮めようとした。

皇后高子や業平とはゆかりの深い大原野神社は、我が家とはつい眼と鼻の先にある。今度訪れる折があれば、伊勢物語の世界を思い出しながらゆっくり歩いてみたいと思っている。

05/07/08