【作品概要】
作 者 辻村 深月
発 表 2005年
出版社 講談社
【ストーリー】
高校2年生の理帆子はカメラマンの父親の影響もありドラえもんが大好きだった。藤子・F・不二雄を先生と呼ぶほどだ。その父親とも5年前に死別し、母親は末期癌で入院中、ひとりきりで大きな家に住んでいる。一人で本を読んでいるのは好きだが、いつも一人でいるのは好きではなかった。誰かと繋がっていたかった。小さい頃から利発な子だったが、頭が良すぎると孤立することを経験的に学び、自分の主張はほとんどせずに周りに合わせるようにしていた。見下しているわけではないが、周りにいる人の個性を「スコシ、○○」と呼んで遊んでいた。
高校2年生の夏、図書館で「君の写真を撮らせてほしい」という青年、別所に出会う。突然の申し出に戸惑いながらも、話していくと不思議に波長が合う。理帆子は普段見せないような自分の内面を青年に見せていく。
一方、理帆子には別れたボーイフレンド若尾がいた。若尾の”スコシ個性”は「スコシ、腐敗」、弁護士を目指している。若尾は高邁な理想を語る。しかし、弁護士になるための努力をほとんどしない。失敗はすべて他人のせいにして自分は正しいといつも主張していた。若尾から言い出して別れたのに、理帆子に電話してくる。心療内科にも通っているようだ。「スコシ、腐敗」がスコシではなくなってきていた。若尾は少しずつ壊れていった。
【感 想】
ドラえもんの道具の中で真っ先に思い浮かぶのが「どこでもドア」、これは便利、どんなところに住んでいても通学・通勤できる、いつでもどんなところへも旅行ができちゃう。国境なんてほとんど関係なし、世界中が隣町、究極の道具だ。他にも「翻訳コンニャク」なんてのも、なぜ翻訳機とコンニャクがふっ付くのかという些細な疑問はおいておくことにして、もし持っていたとしたらとても便利。
ドラえもんの世界の便利はカタチある道具だったけど、この物語の中のドラえもんの道具は人の性格の中に隠し持っているカタチのない道具、例えば「どこでもドア」だったら、どんなグループにも好きな時に自在に入っていける社交的な性格のようなもの、そんな考え方を主人公の理帆子はしていたんだけど、ちょっと”なるほどなぁ”と思うところがある。心というジャングルのような世界、十牛の教えのように理想とする心の状態を保つことは難しいけど、少し整理して歩きやすくできるような、そんな考え方のような・・・・、今度、ちょっと考えてみよう。
そんな考え方をする頭のいい理帆子、これを周りの人達にも当てはめて、性格の特徴をドラえもんの道具で例えたり、「すこし、○○」というようなワンフレーズあだ名をつけて遊び、”自分を理解してくれる他人などいない”なんていうちょっと退廃的な心で他人を見ていたわけだが、郁也という本物の才能を持った子供に出会った時、心が動いたんだね。時間を潰していくだけの人生はもったいないということに。そして、最終的に父親と同じフォトグラファーとして真剣に写真に向き合っていったわけだ。
こんな風に書くと人生を無駄にしないための教訓的な物語のように見えるけど、ドラえもんの道具や父親が不思議なカタチで導いたり、作者の工夫の中で深く味わうと違う面が見えてくるような、噛めば噛むほど的な物語でした。