

壇ノ浦の戦い 壇ノ浦古戦場
山口県下関市みもすそ川町
屋島の戦い〜壇ノ浦の戦いへ
1185年 寿永4年2月18日、義経の軍勢は、屋島の対岸、高松郷にたどり着くと、帰順した土地の武士〜近藤六親家から、平家軍は、参集して来ない伊予の河野通信を討伐するべく、三千の軍勢を率いて出払ったこと、そして屋島へは干潮になると馬で渡ることが出来ると聞かされ、義経は屋島を急襲することを決断します。
義経は自軍が少数であることを気取られぬ策として、高松郷の家々を焼払うよう指示し、源氏の白旗を大量に立て、引き潮に乗じて一気に屋島の平家内裏へ雪崩れ込みました。
海上からの襲来に備えていた平家の軍勢は、またしても義経の策に背後を突かれ、嵌められた格好となり、必死に防戦しながら海上に逃れようとします。
平家軍は急襲する義経の軍勢が小勢であることに気付き、舟上から大量の弓矢で対抗し、強弓で知られる平教経の放った矢に義経も射られようとした時、平泉以来付き従ってきた郎党、佐藤兄弟の兄、継信が義経の矢面に立って受け倒れました。
好機と見た平教経の家来、菊王丸が継信の首を刈ろうとした時、弟の忠信が菊王丸を射倒すと舟上の平教経が菊王丸を抱えて舟に収め海上に去りました。
倒れた継信は義経の腕の中で息絶え、この日の戦いが終えた後、義経は土地の僧に愛馬、太夫黒を与えて供養を頼みました。
寿永4年2月20日
陸から追撃する源氏に対し、平家軍は女官たちの小舟に扇を立てて、見事射ててみよと徴発します。
扇はかつて高倉天皇が厳島神社に奉納したものでした。
義経は畠山重忠を推しますが、重忠は脚気の持病を理由に辞退、重忠は那須十郎を推しますが、一ノ谷の戦いで負傷していた十郎は弟の与一を推しました。
やむなく与一は馬を波間に乗り入れると、
〜願わくば、あの扇の真ん中を射させ給え〜と八幡大菩薩へ一意専心の念を込めて矢を放ちます。
与一の放った矢は見事、扇を射抜き、扇はひらひらと舞って海面に落ちると、平家方からも大歓声が起こります。
歓声の余韻に誘われる様に平家方の年老いた武者が舞を披露したところ、義経があの者を射よ。と命じたため、与一は老武者も射抜きました。
風流も知らぬ田舎侍め、と平家方の武者達は激怒して押し寄せ、大乱戦となります。
やがて大坂の渡辺津で義経と出陣を巡って仲違いした梶原景時の率いる船団が襲来すると平家方は海上に逃れ、残された拠点の長門国の彦島を目指します。
壇ノ浦の戦いのひと月前のことでした。
4に続きます。