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日本歴史紀行

歴史めぐり 街物語 3 ‐ 6 静岡市清水区 6










カトリック清水教会
静岡市清水区岡町


すでに過ぎてしまいましたが、7月7日は七夕【たなばた】です。
静岡市清水区の七夕まつりは全国にも知られる祭りとして親しまれています。


たなばたは、一年間の五つの節句〜人日(じんじつ)(一月七日)、上巳(じょうし)(三月三日)、端午(たんご)(五月五日)、七夕(しちせき)(七月七日)、重陽(ちょうよう)(九月九日)の4番目の節句のことで、日本古来からの無病息災、邪気払いを行なう節目の日を表します。

この節目の日は、天(あま)の川に隔てられた彦星(ひこぼし)と織姫(おりひめ)とが七月七日の夜、年に一度だけ会うという中国の伝説にちなむ年中行事がいつの頃からか、日本在来の祭と融合し、葉竹を立て、女子が裁縫の上達などを祈ったりしたものが様々な変遷を遂げながら現代にまで伝わってきました。



また、この7月7日という日は、清水の街にとって実に因縁深い日でもあります。

いまから78年以上の昔の昭和20年7月7日、清水の市街地は米軍の空襲に合い多くの人の命が失われ、街は灰燼に帰しました。清水空襲です。


かつて東海一の親分と恐れられた清水次郎長が幕臣、山岡鉄舟に感化されて社会事業家として行なった江尻湊の港湾整備により生まれ変わらせた清水港は、静岡を海外への玄関口として生まれ変わらせ、また、明治以降に開拓、栽培された牧之原台地の茶葉の輸出に大きく貢献し、貴重な外貨獲得を実現させた良港でした。


ですが、それまで清水に多大な利益をもたらして来たこの良港が太平洋戦争時には大きな悲劇をもたらします。


良港として清水の民に多大な恩恵をもたらして来た清水港ですが、良港であることが太平洋戦争終盤に悲劇を招くことになります。

港のある清水地区は太平洋戦争終盤になると、何度も空襲や艦砲射撃にさらされ、1945年昭和20年7月7日の清水空襲では、市街地の半分が焼け出されることになります。


この空襲で清水地区の大部分の建物が灰燼に帰し、多くの住民が家を失います。




カトリック清水教会は、かつて徳川家康が駿府(現在の静岡市)に隠居した徳川家康の別邸「御浜御殿」として、家康の十男〜徳川頼宣が駿府城に隠居した家康のために建てた御殿で、竣工後は家康は度々やって来ては舟遊びや野外へ出かけたりしました。

やがて1935年、昭和10年、清水港や三保半島を見渡す緩やかな御殿跡地であったこの傾斜地に、フランスから来日したカトリック宣教師のルシアン・ドラエ神父の構想・設計する形でカトリック清水教会が1935年(昭和10年)に建てられました。



通常、建設されるカトリックの聖堂はレンガや石材を積み上げて造るゴシック様式ですが、日本の大工の手による木造技術で再現された和洋折衷の技術が融合した珍しい建築物とされ、特徴的な二つの尖塔(せんとう)を引き立たせるように春には周辺の桜が咲き誇り、内部の畳敷きにはステンドグラスを通して美しい光が降り注ぐという独自の美しさを生み出しました。



奇跡的に焼失を免れ、戦火の中、教会を運営してきたドラエ神父は、聖堂を救護所として信徒以外の焼け出された住民に開放しました。



ルシアン・ドラエ神父


大戦終盤の清水空襲時には、聖堂を開放して戦災した清水の住民たちの保護に尽力したルシアン・ドラエ神父は、1884年(明治14年)9月18日フランスのブローニュ地方で生まれました。

パリ外国宣教会に入り、25歳の時、1909年(明治42年)に宣教師として来日。

最初は東京、八王子市、群馬県前橋市などの各地において伝道に従事した後に1914年(大正3年)にクレマン神父の後任として静岡教会主任司祭に就任します。


静岡市はもちろん浜松市、清水市(当時)、焼津市、藤枝市といった静岡県下の主要都市の各地を熱心に巡歴してカトリック思想の布教、普及につとめました。

やがて風光明媚な景勝地としても知られる清水の姿がかつて青年期まで過ごした故郷のフランス、ブローニュ地方にとてもよく似ていることもあり、清水の地に私財を投じて聖堂を建てるべく設計していたところ、1932年(昭和7年)にこれまでの彼の勢力的な活動に賛同した6代目鈴木 與平(よへい)〜県下最大の物流会社、鈴与の創業者が用地取得に便宜を図り、1935年 昭和10年にさらに清水の船大工らが手を貸したことで、聖堂内部は木造ゴシック様式といった変わり種の建築。床には畳敷きに長椅子が置かれるといったユニークな設計が成されました。


ドラエ神父は太平洋戦争中も日本に留まり、
戦時中には、軍や憲兵からスパイと疑われながらも清水から離れず、また、多くの教会が疎開児童の受け入れに躊躇する中で東京、三河島からの疎開児童を引き受けました。



1945年6月の静岡大空襲の際には、必死で教会を火災から守ったと伝えられており、戦後、いったんフランスに帰ったものの、再び日本に戻り、今度は伊豆地方の布教活動を開始し、余生を過ごした後、1957年(昭和32年)12月8日に72歳の生涯を静岡で閉じました。





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コメント一覧

aoikitakaze4390031
@kikokikonoriko19888888 空襲により焦土となった清水ですが、復興は目覚ましいものがありました。
カトリック清水教会、耐震基準が満たされないため、現在は解体され、再度 建てられる予定です。
kikokikonoriko19888888
カトリック教会は、
 厳しい神の教えのもとに生きると
           聞いております。

静岡に行くことがありましたら、、、ぜひ、、、
 日本の技術と、フランスの感性の教会に行って
  家康の300年の鎖国に、
  世界の文化が浸透してきた 
    現代までを、
  和洋折衷の教会建物から感じて
     鎖国は,、開国は、、戦争は、、戦後は、
       そしてこれからは、どこに向かうのか?
  地域色の強い、歴史の文化遺産の多い静岡で
  富士を見ながら暮らせたら、、、いいですね!       
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