見出し画像

日本歴史紀行

思い出フォト 106 2020年 3月 静岡市、戦国めぐり 2


達磨大師 像


丁子屋での昼食を断念した傷心?のぼくは、気を取り直して史跡探索へ…。




丸子城跡



丸子(まりこ)城跡

静岡市駿河区 丸子

1476年 文明8年、横地、勝間田 両氏を討ち破り、東遠州地方を征した今川義忠(義忠は桶狭間の戦いで討死した今川義元の祖父)。

しかし、凱旋の帰路、横地、勝間田の残党に襲撃され、還らぬ人となりました。

突然の当主の死に、今川家中は幼少の嫡子、竜王丸を推す家臣と、一門の重鎮である当主の叔父、小鹿範満を推す家臣との後継者争いが勃発しました。


嫡子 竜王丸と母、北川殿は、家臣 長谷川正宣の小川城で保護され、兄(弟とも)の室町幕府幕臣の伊勢新九郎盛時(北条早雲)に事態の仲介を依頼します。


盛時は小鹿範満と会談して和解案を提示、竜王丸が元服するまでの間、当主代理として範満が今川の家政を取り仕切ることで合意します。


この結果、小鹿範満は今川家当主の居館、駿府館に入り、竜王丸と母、北川殿は盛時と長谷川正宣の計らいで平城である小川城から、山城の丸子城に移ります。


万一、範満が軍勢を差し向けても、山城で防御力のある丸子城にあれば安全との配慮でした。


嫡子、竜王丸を推す家臣、斎藤安元の守る丸子城は、標高 136 メートルの三角山(みかどやま)に築かれ、堀切、土塁、空堀をめぐらせた山城です。




堀切



竪堀






















本丸 三角山山頂




本丸跡



 

1487年 長享元年 、竜王丸が成人となり、元服を過ぎ、今川氏親を名乗るも、駿府館の小鹿範満は一向に当主代理の座に留まり続けることから、母、北川殿は、京で幕府 申次衆の職にある盛時に再度、助けを求めました。


盛時は備前の旧領を整理して再び駿河へ下向し、氏親を補佐すると共に石脇城に入って同志を集めます。

手筈を整えた盛時は11月9日、軍勢を起こして駿府館を襲撃して範満と弟の小鹿孫五郎を討ち取りました。


氏親は今川家当主の座に正式に座り、盛時はこの功績により、興国寺城と周辺の11郡を与えられました。

盛時は この興国寺城から伊豆、相模に狙いを定め、やがて子の氏綱、孫の氏康へと受け継がれます。




下山しました。





下山した先にある誓願寺。
源頼朝が非業の死を遂げた父、義朝の供養のために創建し、武田信玄や徳川家康が寄進して支えました。





達磨大師像



誓願寺 本堂







豊臣秀頼の守役、片桐且元の墓




左の墓石が且元の墓

片桐且元(かつもと)
豊臣秀吉の忠臣として、秀吉亡き後も豊臣政権を支えた且元でしたが、方広寺鐘銘事件で交渉役として徳川幕府への申し開きと豊臣方との間で両者の軋轢に苦しむ中、豊臣方は片桐且元を徳川に豊臣を売った不忠者と断じて討ちとろうとして、感づいた且元は大坂城を退去した後、居城の摂津 茨木城に籠もると、豊臣方の軍勢が攻め寄せたことで徳川と豊臣は手切れとなり、大坂の冬の陣が勃発します。
 
冬の陣において、徳川軍が真田丸の猛攻に苦戦する中、片桐且元は淀殿ら、秀頼生母らの集まる場所を徳川方に教えたことで徳川方は英国からの輸入大砲、カルバリン砲等で砲撃、直撃した砲弾は淀殿の侍女らを犠牲者にして淀殿を恐怖の冬の陣、講和へと流れます。

ただ、講和も長く続かず、徳川方と豊臣方の間で夏の陣の戦端が開かれます。

夏の陣は徳川方が勝利。
淀殿と秀頼は自刃、ここに豊臣家は滅亡しました。

淀殿、秀頼の死から20日目となる三七日(みなのか)に且元は病死(殉死の噂あり)しました。

誓願寺は且元が徳川方への申し開きの道中で連泊した寺でした。



丸子は戦国時代の下剋上の世の先駆けとなった伊勢新九郎盛時が行動を起こす きっかけ となった遠因と、戦国乱世終結となる大坂の陣の きっかけ となった方広寺鐘銘事件のキーマンとなった片桐且元の墓がある地です。










ランキング参加しています。応援お願い致します!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「思い出フォト」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事