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日本歴史紀行

墓前紀行 8 崇徳天皇御廟



崇徳天皇 御廟
京都市 東山区 祇園


崇徳天皇
菅原道真、平将門と並び三大怨霊として怖れられています。





崇徳天皇は、平 清盛が台頭し始めた平安時代末期の天皇で、この頃の朝廷は、父の鳥羽法皇と、崇徳天皇(この時点で崇徳上皇)を実の子であることを疑って毛嫌いした関係の悪さと、後白河天皇、藤原摂関家の暗闘も加わり、さらに 鳥羽法皇が崩御。


この権力争いに源氏と平氏の武家が両方に介入。鳥羽法皇の崩御から9日。1156年 保元元年7月11日、保元の乱が勃発しました。


崇徳上皇は藤原摂関家の長者 藤原頼長と源氏嫡流の源 為義(源 頼朝 祖父)、平 忠正(平 清盛 叔父)らの勢力を得るも、対する後白河天皇は、平清盛、源義朝ら、源氏 平氏 多くの武家勢力を味方につけ、戦いは1日で終結しました。

崇徳上皇は讃岐国(現在の香川県)に配流となり、この地で罪を許される日を待ちました。


1164年 9月14日 長寬2年8月26日 崩御

崇徳上皇は、自らの血で写経したお経を朝廷に送りますが、破られて送り返されたことから激怒。

怒りの崇徳上皇は爪や髪を伸ばし続け、夜叉の様な姿に変わり果て、呪詛の言葉を舌を咬み切った血で書き付けて崩御しました。

崇徳上皇 崩御後も罪人として扱い、葬儀も行われませんでした。

間もなく後白河天皇 皇子にあたる二条天皇 崩御、二条皇后の中宮、女御 建春門院が一月あまりの間に亡くなり、六条天皇までも早世。

さらに比叡山が強訴を起こし、安元の大火が発生して京の街の3分の1を焼失させるなど、京の世情は不穏なものとなり、崇徳天皇の怨霊として怖れられました。



白峯神宮










明治維新が成り、明治天皇は、慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて御廟を造営し、白峯神宮を創建しました。





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