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日本歴史紀行

墓前紀行 5 楠木正成 公墓所



楠木正成 公墓所

神戸市中央区多聞 湊川神社






楠木正成は、鎌倉時代末期に幕府打倒を掲げて挙兵した後醍醐天皇に呼応して自らも立ち上がり、河内の金剛山に連なる千早、赤阪に山城を築いて討伐に出兵してきた幕府軍の大軍を迎え撃ちました。

数十万と言われる幕府軍に楠木軍は、岩石、大木、を投げ落とし、それに糞尿を浴びせるといった従来の戦にはない奇策で散々翻弄し、取り囲んだ幕府軍が攻略出来ないうちに切り札として派遣した足利尊氏が反旗を翻し、さらには上野の新田義貞が東国の武将らをまとめ上げて鎌倉幕府打倒を叫んで挙兵して鎌倉幕府の本拠地、鎌倉を攻めて滅ぼしました。

楠木正成は、建武の新政といわれる政変に大いに貢献し、後に足利尊氏が後醍醐天皇と対立した際も一貫して後醍醐天皇の側につき、大軍勢を擁した足利尊氏と戦い、湊川で力尽きました。




徳川光國像と忠節の碑

楠木正成が敗れ自害したこの地は後の為政者達にも特別視され、太閤 豊臣秀吉は湊川を非検地とし、江戸時代には尼崎藩により保護、墓所が整備され、二代水戸藩主、徳川光國が忠節の碑を建立するなど、後の武士の鏡と称されました。



皇居外苑の楠木正成公像




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