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日本歴史紀行

歴史紀行 54 - 11 鞍馬寺 不動堂 木の根道 義経息継ぎ水


源義朝公墓所
愛知県知多郡美浜町 野間大坊、大御堂寺

鎌田正清墓所
愛知県知多郡美浜町 野間大坊、大御堂寺




〜源義経の生涯を記した義経記〜
巻第一の三、聖門坊の事によると…

東光坊で仏門の勉学に励んでいた牛若は、聖門坊と名乗る僧により、自身の出生の秘密を知らされます。

この聖門坊、身の上は、かつて
牛若の父・源義朝の郎党・鎌田政清の子だったのだといいます。

平治の乱で父政清が源義朝と共に長田忠致に討たれた時は11歳。

母方の親戚に匿われ、19歳で元服して鎌田正近と名乗ります。

21歳のときに出家して九州へ赴き修行をした後、京に戻り四条室町に住んでいました。

法名は聖門坊。

四条の聖とも呼ばれていたそうです。



鎌田政清墓所


聖門坊の父、鎌田政清は、義経の父義朝の第一の郎党として終生仕えました。

1159年(平治元年)、源氏が平治の乱で敗れると、東国で再起を図るため義朝ととも京を脱出し、尾張国野間の縁者、長田忠致を頼りますが、忠致の裏切りに遭い、義朝とともに湯殿で殺害されました。

野間大坊の義朝墓の傍らには、政清の墓も建てられています。


~義経出生の秘密~
聖門坊が修行から戻ると、都は源氏を駆逐した平家がこの世の春を謳歌していました。

平家の繁栄を苦々しく思っていた聖門坊は、父のように源氏に仕えて謀反を起こすことを考えます。

聖門坊は諸国の主だった源氏を数えました。
紀伊国には新宮十郎義盛(後の源行家)、河内国には石川判官義兼(源義兼)、摂津国には多田蔵人行綱(多田行綱、後の源行綱)、都には唯一の源三位頼政卿(源頼政)、近江国には園城寺の円成(義経の次兄)、佐々木源三秀義(佐々木秀義)、尾張国には蒲冠者(源範頼〜源義経の異母兄)、駿河国には阿野禅師(阿野全成。義経の同母兄)、伊豆国には平治の乱で義朝殿と挙兵した三男、兵衛佐頼朝(源頼朝)。

都近くの鞍馬には、亡き殿(源義朝)の末の子、牛若殿と申す者がいると言う、参ってお目にかかり、心に適う人であれば、文をいただき、伊豆国に下り、兵衛佐殿(源頼朝)の許に参り、国の兵どもを集めて、謀反を企てようと考え、鞍馬山に上りました。


聖門坊は牛若にこう話かけます。

「貴方様は、清和天皇より十代の子孫・源義朝様のお子です。ご存知ありませんか。」

某は、今は仏僧の身なりをしていますが、義朝様の乳母子の鎌田政清の子です。

源氏一門は、平家により国々に打ち籠められておられます。

〜嘆き心苦しいこととは思われませぬか。〜

聞いていた牛若が「平家全盛の世にこのような話をするのは、何か企みがあり、騙そうとしているのだろう」 と思っていると、聖門坊は源氏代々の話を詳しく話したのだそうです。



木の根道
牛若の稽古場

牛若、息継ぎの水
牛若(義経)が毎晩、天狗との稽古のために出かける際、山中での休息地  




~牛若の豹変、剣術の稽古~

 それからの牛若は、学問の事は忘れ、平家に反旗をひるがえすことで頭がいっぱいになります。

そして、夜になると、心身を鍛えるため、誰にも知られぬように宿坊を抜け出し、鞍馬山の奥の僧正が谷の貴船明神に参り、 「南無大慈大悲の明神、八幡大菩薩」と掌を合せて、源氏を守ってくれるよう祈り、山中の草木を相手に太刀を振るい心身を鍛錬したのだそうです。




~牛若から遮那王に~

やがて、牛若に付き添っていた和泉という法師が、牛若の行動を牛若の宿坊・東光坊の蓮忍に報告すると、牛若の髪を剃るということに決まります。

ただ、牛若は誰かが近づくと刀の柄に手を掛け突き刺そうとしていたので、なかなか髪を剃ることができませんでした。

そこで、覚日坊であれば静かなので学問をするのではないかという話になって、牛若を覚日坊に移し、名も遮那王と改められました。


不動堂




奥之院に近い不動堂のあるこの場所は、僧正ケ谷と呼ばれ、義経が天狗から兵法と武芸を習ったという伝説の地です。




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