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日本歴史紀行

歴史紀行 77 - 3 北条義時、姫の前 碑 3


北条義時、姫の前 碑
静岡県伊豆の国市 南江間 江間公園



吾妻鏡には、【権威無双の女房なり、殊更に御意に相叶う。また容顔甚だ美麗と云々。】と記され、源頼朝のお気に入りでもあった姫の前。

見初めた義時でしたが、1〜2年もの間、恋文を送り続けるも相手にされないことに見かねた頼朝が仲介に入ります。

頼朝は義時に【姫の前と絶対に離別いたしません。】という内容の起請文を書かせて二人の間を取り持ち、義時と姫の前は婚姻に致りました。

この二人の婚姻には、義時のみならず、頼朝にとっても重要な意味合いがありました。

正妻、政子の弟である義時は北条氏の嫡男となっていたことと、流人当時から生活を支えてくれていた比企氏は、創業間もない政権にとって頼朝が最も頼りとする家人でした。


北条氏、比企氏、両家の結び付きを強固にして、頼朝は後の幕府を支えてくれる架け橋になることを願っていたのです。


しかし、1199年(建久10年)正月に頼朝が急死したことで、両家は破断への道を進みます。

比企氏の血筋である河越重頼や平賀義信の妻を乳母とすることを頼朝に託され、比企の乳母子(めのとご)として育った次代将軍の頼家は事あるごとに比企氏を頼り、正妻を比企能員の娘である若狭局を迎えていた頼家は父、頼朝と同じ様に将軍、独裁の幕府運営を目指すも、18歳の若年将軍に務まるはずもなく、北条氏を筆頭に御家人による合議政権を執るしかありませんでした。

この合議政権も頼家が病を発して倒れると、脆くも崩れます。

頼家が重病に倒れた隙に政敵である北条時政が比企能員を邸宅に招いて殺害、続けざまに比企氏一族を滅ぼしてしまいます。

その後、病から癒えた頼家は頼りとした比企一族は既に無く、将軍の座を引きずり降ろされ、幽閉された伊豆、修禅寺で殺害されました。


一族を滅ぼされた姫の前は義時の元を去って上洛、公家で歌人の源 具親と再婚しました。



義時と姫の前は三人の子に恵まれました。
義時の次男にあたる朝時は後に鎌倉の名越に屋敷を構えたことから名越朝時と呼ばれ、後の承久の乱では幕府軍の北陸道の大将軍を任されます。

三男にあたる重時は、後に第三代、六波羅探題を長く任されて京の都の治安を守り、義時亡き後に3代執権となった兄、泰時の政権を支えました。

長女の竹姫は、吏僚として頼朝の信頼も厚かった大江広元の長男、親広に嫁ぎますが、親広は承久の乱で後鳥羽上皇方に味方したために離縁し、後に内大臣、土御門定通に嫁ぎました。






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