平宗盛公胴塚
滋賀県野洲市大篠原
1183年、寿永2年5月〜6月
倶利伽羅峠の戦いに惨敗し、次戦の篠原の戦いと2度の連戦で木曽義仲に敗れたことにより、平家の北陸平定は頓挫しました。
これは頓挫という生優しい事態ではなく、平家の軍勢は飢饉の最中に強引に徴発された寄せ集めの集団では、20年の怨嗟を溜め込んだ源氏の怒りの軍勢を抑える力など無く、これにより平家の声望は地に落ち、義仲がすでに上洛の手筈を整えたとの風聞すら都に囁かれ始めました。
ここで平家一門は二つに分裂します。
平宗盛は伯父にあたり、いまや一門の重鎮たる平頼盛に京の都の玄関口にあたる山科の防衛を託します。
平頼盛は、平清盛とは母の違う異母弟にあたる兄弟で、かつて源頼朝の助命のために、断食まで行い頼朝の命を救った池禅尼の息子でした。
宗盛とは平家の縁者であるものの、絆としては限りなく薄いものといえるでしょう。
しかし、
頼盛は軍勢を出陣して間もなく、耳を疑う報せを二つ耳にします。
宗盛と一門が六波羅を焼き払い、幼帝 安徳帝を伴い太宰府を目指して都落ちしたという報せでした。
もう一つは、この動きを察知した後白河法皇が平家の都落ちには加わらず、比叡山に逃れたというものでした。
一門に置いてきぼりを食らった頼盛は山科に近い比叡山に逃れた後白河法皇を頼ります。
平清盛存命中から一門と微妙な立場にあった頼盛は、もう一つ柱である後白河法皇と強いパイプがありました。
ここで後白河法皇は頼盛に八条院に身を隠すことを勧めます。
八条院の主は以仁王の母で暲子内親王(しょうし内親王)でした。
暲子内親王の兄は後白河法皇、父は鳥羽天皇、母はその鳥羽帝から寵愛を一身に受けた美福門院で、頼盛の妻はその内親王の乳母、宰相院の局の娘を妻としていた間柄を示し、存命中の清盛すら迂闊に手を出せない館でした。
後白河法皇は源平どちらの勢力が抗おうが絶対に踏み込めないだろうと頼盛に八条院を勧めたのです。
頼盛が八条院に潜伏している間に義仲の軍勢は平家一門が去った都に新しい主としてなだれ込みました。
やがて義仲が自ら保護した北陸宮を次期天皇に推す動きに出たことで後白河法皇が激怒すると、頼盛は近い将来、義仲と後白河法皇が破局すると読み、京を離れ、鎌倉へと逃れる選択をします。
平頼盛一族は鎌倉へ、宗盛と一門は西国へと逃れました。
6に続きます。