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日本歴史紀行

思い出フォト 127 2016年 6月 遠州を制す〜高天神城跡




遠州 高天神城跡は平安時代に土地の小豪族〜土方氏、福島氏が詰め城として築いたものの、高天神城が歴史に名を連ねる存在となったのは、戦国時代後期に甲斐 武田氏と徳川氏と
の間で熾烈な奪い合いが繰り広げられて以降です。

駿河、遠江、三河の太守として名を轟かせた今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れると、この三国は北の甲斐、武田信玄と三河で独立を果たした徳川家康との草刈り場となりました。なかでも遠州(遠江)は、際立つ領主に恵まれず、先祖が代々 土着していて強固な家臣団に恵まれた徳川家康の三河や、最強とも怖れられる甲斐の武田信玄が今川義元の死後、雪崩れ込んで領国化した駿河。この両者に挟まれ、生存を賭けた戦いが続きました。











三日月井戸

夏場は金魚が泳いでます。












第一次高天神城の戦い
大井川から東を武田、西を徳川が、今川氏を挟撃することで甲斐の武田信玄と同盟さた徳川家康でしたが、今川氏滅亡後は武田信玄は西の遠州地方へも侵攻し、高天神城は武田信玄の二万を超える軍勢の攻撃にも耐えています。

ただ、武田信玄没後、後継者の武田勝頼が三方原の戦いで大打撃を受けた徳川家康を再度攻め、城将 小笠原助氏の降伏により落城、軍監の徳川家家臣〜大河内政局は囚われの身となり、徳川家康が高天神城を奪還するまでの約8年もの間、石牢に幽閉されました。





石牢跡
昔は中を覗くことができましたが、現在は土のうで埋められてしまいました。



本丸跡










天正9年
高天神城に援軍を送らずに落城を許した武田勝頼はいよいよ窮地に陥り、翌年に滅亡します。




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