正名忌は五月と決めて雲太る
句集の第一句目。上五中七、五月の澄み渡った空の下での実感だったのかも知れない。そして「雲太る」の健やかさは、生きている時間を謳歌していこうという意思の表われと受け取った。まこと鮮やかな幕開けである。
柳生正名氏の句集『風媒』、拝読。まさに「俳句という喜び」をしみじみと噛み締める一冊だった。それは僕自身も関わっている文芸に、これだけの可能性、パワーがあるのだと気づかされた喜びだろう。第一句集ということはすなわち氏の現時点でのベストアルバム。それだけに多彩、絢爛。さしずめ「正名ワンダーランド(無期限パスポート付き)」といった趣である。その園内をあらためて(僕なりに)歩いてみることにする。
句集『風媒』。まず心惹かれるのは、氏独特の配合のセンスである。措辞と季語(あるいは措辞同士、季語同士)のスリリングな出合い。二つのモチーフが本来持つ旨味、滋味に辿り着かせるための道標をぽんと置いてみせる。
牡丹に金閣燃ゆる闇のあり
頸長き恐竜滅ぶ牡丹かな
めくれては日記燃えゆく白牡丹
牡丹のあの生命感に、逆に「滅」のイメージを滲ませる。そのギャップが何故か心地よい。
鍵穴の形の陵墓鳥渡る
陵墓の形を「鍵穴」と捉えたことにまず唸らされ、その鍵穴はまさに日本という国のドアの鍵穴ではないかと思い当たり、さらに感服。鳥たちがはるばる海外からそのドアを目指して‥‥壮大なスケール、見事なバランスの一句。
水仙のみな水を向くトウシューズ
「トウシューズ」というモチーフから見えてくる様々な場面、物語性と上五中七の瑞々しい空気が、やはり好配合。
冬菫人間魚雷に窓なけれ
下五の奥深さに思わず息を呑んだ。「窓なけれ」、人間としての存在をかき消され、冷徹なひとつの「兵器」となっていった兵士たちの悲哀が膨らんでくる。悲哀などという言葉じゃ足りない! 冬菫よ―。
注射器の中の泡抜き小鳥来る
上五中七の集中力、クリアな感覚と「小鳥来る」のときめきとの呼応。独特の透明感が生まれた。
地に殉教宙(そら)に毛深き蝶の貌
殉教、一途な思いとそれゆえのある種の恍惚。「毛深き蝶の貌」の濃厚なリアリズムとの拮抗がすこぶる刺激的だった。
他にも、
草矢射る逆子を治す体操し
眉を描くほどの偽り夕かなかな
鶏が鏡に当たる霊迎
口笛にまだならぬ息薄荷咲く
坊さまに肉食系の眉がちやがちや
白山茶花箸美しく使ひけり
巣箱ありシェフの気まぐれサラダあり
弁当の蓋に飯つく揚雲雀
など、同じ空気感あるいは気分を共有する、措辞と季語の配合と思った。はっと気づかされたあと、じんわりと広がってくる。快く楽しめる。
一方、一読立ち止まり、はたと考え込んでしまう配合の句もある。ただ、それらは僕にとって、とても面白いのだ。
神棚に階段のある冷奴
スカートのポケット深し蛇の衣
結び目のない靴履いて星祭
王将の裏はのつぺり生身魂
パレットに指通す穴銀杏散る
薄氷古事記まぐはふこと多し
旅客機が車輪を仕舞ふ花粉症
たとえば「神棚に」の句、「冷奴」で「ん?」となり、しばらく立ち止まる。何故「薄氷」と「古事記まぐはふこと多し」がくっつくんだと疑問に思う。その意図を解いていこうとするうちに、様々な仮説が生まれ、けれどもそれはなかなか的には当たらない。もどかしい。だがやがてそんな時間こそが冒頭に記した「俳句という喜び」だと思えてくるのだ。これも一つの魅力。高度なパズルのように夢中になれる。
その意味で、
皇国のいちばん奥に蠅取紙
空耳に石蕗咲いて汝も黄の人よ
の二句にも非常に興味を持った。作者自身のこれらのモチーフに対して思うところ、立ち位置をいろいろと考えさせられた。
『風媒』には、ストレートな写生句も多数収められている。
風鈴に風鈴市の映りけり
この一句であの風鈴市ならではの空気がふわっと流れてくるから不思議である。一句全体のどこか幻想的な感触が、そのまま風鈴市だということだろう。
取り落とすものの転げて草の市
この句も、上五中七の何気ない景から市の賑わい、楽しさを取り込むことに成功している。
炎昼の蛇のとぐろに隙間なく
「隙間なく」のメカニカルな様相、そこから醸される炎昼のギラギラ感が凄い。
摩羅祀る村や戸板に烏賊干され
ここだけの話、上句との兼ね合いから、僕にはどうしてもこの「烏賊」が某ゴム製品のメタファーに思えてしまう。柳生氏にその意図の有る無しを機会があれば確かめたい。
ラグビーの薬罐の中の小さき凪
細やかな視点。荒々しい景の中の「小さき凪」。この凪からラグビーという競技の全体像が広がってくるようだ。
瓜坊来て障子を食べる籠り寺
馬が塩舐める暗がり神渡
湯豆腐の湯出でてからのおもさかな
年詰まる銀座の蛇腹カメラかな
吊鉤に鮟鱇の口だけ残る
マスクして遊ぶや「天使幼稚園」
寒禽のゐて切り口で終はる枝
浮く野菜沈む野菜や水温む
指先を離れて流し雛となる
山葵田の水が水押しをりにけり
警官の盾に小窓のある遅日
ジャーナリストという職業柄もあろう、その眼差しは極めて沈着、的確だ。
歴史上の人物、著名人にまつわる作品も多い。
信長の地球儀に火蛾うすみどり
まんばうの正面薄き光秀忌
織田信長はポルトガルの宣教師ルイス・フロイスから地球儀を献上され、「地球が丸いことは理に適っている」と即座に理解したらしい。「うすみどりの火蛾」は信長のある種病的なエキセントリックなキャラクターを提示しているようで興味深い。そしてマンボウの風変わりな姿形と、日本史の中でもとりわけ複雑な立ち位置にいる明智光秀とが、これまた妙に面白くマッチしている。
翁見し夢に去来が柿落とす
この夢はやはり「枯野をかけ廻る」夢だろうか。「柿落とす」から見えてくる師弟関係のありよう、その情趣。
切手より舌の大きく憂国忌
小説『憂国』を初めて読んだ時の衝撃。生々しい肉体感覚に溢れた物語を「舌」の質感でもって捉える。この「切手」は日本国そのものであろうか。「舌の大きく」―まさに昭和45年11月25日の三島のジレンマと焦燥感、エントロピーのとてつもない増大。
ランボオといふ馬に賭け懐手
ランボオの才能、そしてその破天荒な人生への憧れの念を汲み取った。「懐手」の佇まいがいい。
ボブ・マーリー聴いて師走の象の鼻
レゲエのリズムと象の鼻ののんのんと大らかな動きとが好配合。こんな師走感があってもいい。
他にも、
冬芽固しモネのなくしたる視力
塩むすび割りても白き青畝の忌
チェ・ゲバラのTシャツも着て着膨れる
うつうつと冬田はまぶた閉ぢルオー
臘梅と卑弥呼の刺青冷たけれ
多喜二忌や妖怪の名にぬらりひよん
清志郎逝く夜飛行機雲朧
肉親を詠んだ句。数はそんなに多くないが、深い味わいがある。
夜爪切る母に母なき螢籠
冬蝶や母の写真に海のある
木菟鳴いて深爪癖の父であり
母若し冬のきりんの角温し
風呂で父母睦むや鉄漿蜻蛉来る
椿落つ指鉄砲で父撃てば
指鉄砲では父を殺せない、その代わりに椿の花が落ちた‥‥。あっけらかんと軽妙な流れの中にほんのりと香るエディプス。
母病むや落ちても落ちても椿減らず
この句の中七下五、中西夕紀氏は癌細胞を思ったという(「WEP俳句通信」79号より)。「落ちても落ちても椿減らず」―確かに病状のこととも解釈できるが、僕は切っても切れない、母との繋がりの深さに思い当たった。そのことは「母の病」によって、より一層作者の心に沁みてくるのだ。
そして、自身の日常、人生観が描かれた作品群。
東京や方舟か巣箱つくりたし
東京で暮らすということ。「方舟」が示すものは「東京という幻想に対する違和感」であり、「巣箱」は「東京人の明日へのささやかな希望」だと解釈。そのバランスはそのまま国際都市東京のリアルを表出している。
日記買ふ水に油膜の美しき
鍵掛かる日記天使魚淡く糞(ま)り
二句とも独特の余韻あり。「日記」というモチーフにて、氏の生活感情が(何となくではあるが)伝わる。
風呂吹に箸刺す命冥加なり
わが前に道や後ろに猫の妻
穏やかな満ち足りた日常。それは何気ない風景との出合いでふっと明らかになる。「後ろに猫の妻」の措辞には、つい僕も顔がほころんでしまった。和んだ。
原発なくとも蝶の寝息と暮らす
句集『風媒』の最後の一句である。「蝶の寝息と暮らす」、3・11を経て今現在、全ての日本人が思い当たるところの、生活の中のひりひりとした危機感であろうか―。
「あとがき」の一節、「せめてもの希望は、いずこかの読者の心に受粉し、ささやかな実を結ぶ作が、たとえ一句であろうとその内にあるかもしれないことだ」。一冊を読み終え、この佇まいにあらためて胸が熱くなった。この一冊に収められた作品の数々、その一つずつがまさに「作句者としての祈り」なのだろう。
そして最後にこの一句を。
言霊の金魚掬ひが破れけり
ぎりぎりの緊張感、そして「破れけり」。この句に、柳生氏の作句工房、その労苦を見た思いだった。言霊のポイ(金魚掬いで使う紙製の網)で、いかに金魚=俳句を上手に掬うか‥‥。句集『風媒』が巨大な金魚鉢に思えてきた。
「海程多摩」第十三集(2014)掲載
句集の第一句目。上五中七、五月の澄み渡った空の下での実感だったのかも知れない。そして「雲太る」の健やかさは、生きている時間を謳歌していこうという意思の表われと受け取った。まこと鮮やかな幕開けである。
柳生正名氏の句集『風媒』、拝読。まさに「俳句という喜び」をしみじみと噛み締める一冊だった。それは僕自身も関わっている文芸に、これだけの可能性、パワーがあるのだと気づかされた喜びだろう。第一句集ということはすなわち氏の現時点でのベストアルバム。それだけに多彩、絢爛。さしずめ「正名ワンダーランド(無期限パスポート付き)」といった趣である。その園内をあらためて(僕なりに)歩いてみることにする。
句集『風媒』。まず心惹かれるのは、氏独特の配合のセンスである。措辞と季語(あるいは措辞同士、季語同士)のスリリングな出合い。二つのモチーフが本来持つ旨味、滋味に辿り着かせるための道標をぽんと置いてみせる。
牡丹に金閣燃ゆる闇のあり
頸長き恐竜滅ぶ牡丹かな
めくれては日記燃えゆく白牡丹
牡丹のあの生命感に、逆に「滅」のイメージを滲ませる。そのギャップが何故か心地よい。
鍵穴の形の陵墓鳥渡る
陵墓の形を「鍵穴」と捉えたことにまず唸らされ、その鍵穴はまさに日本という国のドアの鍵穴ではないかと思い当たり、さらに感服。鳥たちがはるばる海外からそのドアを目指して‥‥壮大なスケール、見事なバランスの一句。
水仙のみな水を向くトウシューズ
「トウシューズ」というモチーフから見えてくる様々な場面、物語性と上五中七の瑞々しい空気が、やはり好配合。
冬菫人間魚雷に窓なけれ
下五の奥深さに思わず息を呑んだ。「窓なけれ」、人間としての存在をかき消され、冷徹なひとつの「兵器」となっていった兵士たちの悲哀が膨らんでくる。悲哀などという言葉じゃ足りない! 冬菫よ―。
注射器の中の泡抜き小鳥来る
上五中七の集中力、クリアな感覚と「小鳥来る」のときめきとの呼応。独特の透明感が生まれた。
地に殉教宙(そら)に毛深き蝶の貌
殉教、一途な思いとそれゆえのある種の恍惚。「毛深き蝶の貌」の濃厚なリアリズムとの拮抗がすこぶる刺激的だった。
他にも、
草矢射る逆子を治す体操し
眉を描くほどの偽り夕かなかな
鶏が鏡に当たる霊迎
口笛にまだならぬ息薄荷咲く
坊さまに肉食系の眉がちやがちや
白山茶花箸美しく使ひけり
巣箱ありシェフの気まぐれサラダあり
弁当の蓋に飯つく揚雲雀
など、同じ空気感あるいは気分を共有する、措辞と季語の配合と思った。はっと気づかされたあと、じんわりと広がってくる。快く楽しめる。
一方、一読立ち止まり、はたと考え込んでしまう配合の句もある。ただ、それらは僕にとって、とても面白いのだ。
神棚に階段のある冷奴
スカートのポケット深し蛇の衣
結び目のない靴履いて星祭
王将の裏はのつぺり生身魂
パレットに指通す穴銀杏散る
薄氷古事記まぐはふこと多し
旅客機が車輪を仕舞ふ花粉症
たとえば「神棚に」の句、「冷奴」で「ん?」となり、しばらく立ち止まる。何故「薄氷」と「古事記まぐはふこと多し」がくっつくんだと疑問に思う。その意図を解いていこうとするうちに、様々な仮説が生まれ、けれどもそれはなかなか的には当たらない。もどかしい。だがやがてそんな時間こそが冒頭に記した「俳句という喜び」だと思えてくるのだ。これも一つの魅力。高度なパズルのように夢中になれる。
その意味で、
皇国のいちばん奥に蠅取紙
空耳に石蕗咲いて汝も黄の人よ
の二句にも非常に興味を持った。作者自身のこれらのモチーフに対して思うところ、立ち位置をいろいろと考えさせられた。
『風媒』には、ストレートな写生句も多数収められている。
風鈴に風鈴市の映りけり
この一句であの風鈴市ならではの空気がふわっと流れてくるから不思議である。一句全体のどこか幻想的な感触が、そのまま風鈴市だということだろう。
取り落とすものの転げて草の市
この句も、上五中七の何気ない景から市の賑わい、楽しさを取り込むことに成功している。
炎昼の蛇のとぐろに隙間なく
「隙間なく」のメカニカルな様相、そこから醸される炎昼のギラギラ感が凄い。
摩羅祀る村や戸板に烏賊干され
ここだけの話、上句との兼ね合いから、僕にはどうしてもこの「烏賊」が某ゴム製品のメタファーに思えてしまう。柳生氏にその意図の有る無しを機会があれば確かめたい。
ラグビーの薬罐の中の小さき凪
細やかな視点。荒々しい景の中の「小さき凪」。この凪からラグビーという競技の全体像が広がってくるようだ。
瓜坊来て障子を食べる籠り寺
馬が塩舐める暗がり神渡
湯豆腐の湯出でてからのおもさかな
年詰まる銀座の蛇腹カメラかな
吊鉤に鮟鱇の口だけ残る
マスクして遊ぶや「天使幼稚園」
寒禽のゐて切り口で終はる枝
浮く野菜沈む野菜や水温む
指先を離れて流し雛となる
山葵田の水が水押しをりにけり
警官の盾に小窓のある遅日
ジャーナリストという職業柄もあろう、その眼差しは極めて沈着、的確だ。
歴史上の人物、著名人にまつわる作品も多い。
信長の地球儀に火蛾うすみどり
まんばうの正面薄き光秀忌
織田信長はポルトガルの宣教師ルイス・フロイスから地球儀を献上され、「地球が丸いことは理に適っている」と即座に理解したらしい。「うすみどりの火蛾」は信長のある種病的なエキセントリックなキャラクターを提示しているようで興味深い。そしてマンボウの風変わりな姿形と、日本史の中でもとりわけ複雑な立ち位置にいる明智光秀とが、これまた妙に面白くマッチしている。
翁見し夢に去来が柿落とす
この夢はやはり「枯野をかけ廻る」夢だろうか。「柿落とす」から見えてくる師弟関係のありよう、その情趣。
切手より舌の大きく憂国忌
小説『憂国』を初めて読んだ時の衝撃。生々しい肉体感覚に溢れた物語を「舌」の質感でもって捉える。この「切手」は日本国そのものであろうか。「舌の大きく」―まさに昭和45年11月25日の三島のジレンマと焦燥感、エントロピーのとてつもない増大。
ランボオといふ馬に賭け懐手
ランボオの才能、そしてその破天荒な人生への憧れの念を汲み取った。「懐手」の佇まいがいい。
ボブ・マーリー聴いて師走の象の鼻
レゲエのリズムと象の鼻ののんのんと大らかな動きとが好配合。こんな師走感があってもいい。
他にも、
冬芽固しモネのなくしたる視力
塩むすび割りても白き青畝の忌
チェ・ゲバラのTシャツも着て着膨れる
うつうつと冬田はまぶた閉ぢルオー
臘梅と卑弥呼の刺青冷たけれ
多喜二忌や妖怪の名にぬらりひよん
清志郎逝く夜飛行機雲朧
肉親を詠んだ句。数はそんなに多くないが、深い味わいがある。
夜爪切る母に母なき螢籠
冬蝶や母の写真に海のある
木菟鳴いて深爪癖の父であり
母若し冬のきりんの角温し
風呂で父母睦むや鉄漿蜻蛉来る
椿落つ指鉄砲で父撃てば
指鉄砲では父を殺せない、その代わりに椿の花が落ちた‥‥。あっけらかんと軽妙な流れの中にほんのりと香るエディプス。
母病むや落ちても落ちても椿減らず
この句の中七下五、中西夕紀氏は癌細胞を思ったという(「WEP俳句通信」79号より)。「落ちても落ちても椿減らず」―確かに病状のこととも解釈できるが、僕は切っても切れない、母との繋がりの深さに思い当たった。そのことは「母の病」によって、より一層作者の心に沁みてくるのだ。
そして、自身の日常、人生観が描かれた作品群。
東京や方舟か巣箱つくりたし
東京で暮らすということ。「方舟」が示すものは「東京という幻想に対する違和感」であり、「巣箱」は「東京人の明日へのささやかな希望」だと解釈。そのバランスはそのまま国際都市東京のリアルを表出している。
日記買ふ水に油膜の美しき
鍵掛かる日記天使魚淡く糞(ま)り
二句とも独特の余韻あり。「日記」というモチーフにて、氏の生活感情が(何となくではあるが)伝わる。
風呂吹に箸刺す命冥加なり
わが前に道や後ろに猫の妻
穏やかな満ち足りた日常。それは何気ない風景との出合いでふっと明らかになる。「後ろに猫の妻」の措辞には、つい僕も顔がほころんでしまった。和んだ。
原発なくとも蝶の寝息と暮らす
句集『風媒』の最後の一句である。「蝶の寝息と暮らす」、3・11を経て今現在、全ての日本人が思い当たるところの、生活の中のひりひりとした危機感であろうか―。
「あとがき」の一節、「せめてもの希望は、いずこかの読者の心に受粉し、ささやかな実を結ぶ作が、たとえ一句であろうとその内にあるかもしれないことだ」。一冊を読み終え、この佇まいにあらためて胸が熱くなった。この一冊に収められた作品の数々、その一つずつがまさに「作句者としての祈り」なのだろう。
そして最後にこの一句を。
言霊の金魚掬ひが破れけり
ぎりぎりの緊張感、そして「破れけり」。この句に、柳生氏の作句工房、その労苦を見た思いだった。言霊のポイ(金魚掬いで使う紙製の網)で、いかに金魚=俳句を上手に掬うか‥‥。句集『風媒』が巨大な金魚鉢に思えてきた。
「海程多摩」第十三集(2014)掲載