青山俳句工場05

俳句の今日と明日と明後日を語り合う。
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一球のゆくえ―宮崎斗士句集『そんな青』/芹沢愛子

2015年04月08日 | 芹沢愛子
 『そんな青』―『翌朝回路』から八年半ぶりの彼の第二句集。
 まずその帯文に惹きつけられる。「詩が溜っているから峠をどんどん歩いてゆく 鹿や狐や猪によく出会う どっちも笑う 金子兜太」。「詩が溜っているから」と言われる、俳人としてのこころと体、ちょっと羨ましくもある。そして栞文には、「言葉の跳躍力へ/安西篤」「感覚と喩と/塩野谷仁」「〈おっぱい〉という語感/柳生正名」「ひとりっきりのポストモダン/小野裕三」と海程のそうそうたる論者が並ぶ。

  百千鳥僕にも投げるべき一球

 1980年代、世に言うコピーライターブームの最中、まだ学生だった彼は糸井重里氏のキャッチコピー投稿欄への投稿を始める。作品は次々高評価を得るが、六年間の連載が終わり、しばらくして彼は唐突に俳句を始めてしまうのである。そして師も、たった一人の仲間も持たずに、五年間ひとりぼっちで俳壇という大海原に向けて、俳句の投稿という形で「自分」を投げ続けていたのだった。

  二十秒ずつビデオテープに冬溜まる(「抒情文芸」第70号・金子兜太選)

 ここにおいて初めて金子兜太師と邂逅するのだが、この頃には少しずつ句会への誘いがあり俳句仲間との交流も始まっていた。先輩俳人の勧めをきっかけに平成八年より『海程』に作品の発表を始める。茫漠とした俳壇へ向けていた言葉を金子主宰と海程の連衆へ投げる、生の付き合いが始まった。

  ぶらんここぎすぎて畳屋のようなり
  蛍狩り歯ブラシ買いに行くように
  薬局のように水母のうごくなり

 第一句集の『翌朝回路』に掲載されているこれらの句を金子主宰は「解る人と解らない人がいていい。自分の感覚だけで押し通すという行き方もある」と肯定。堀之内長一氏は「直喩の快楽、直喩は純粋な〈子供体験〉そのものである」と新鮮さを述べ、「清潔な抒情が漂う」次の二句などを挙げた。

  芹と雲雀と机上に何もない母と
  青葉木菟たとえば籠を編む時間

 そして『そんな青』。俳壇での反響は大きく、非常に好意的であった。句集という形で改めて彼は俳壇と向かい合うことになった。

  すーっと春わが洗面器わが水面
  野遊びのあの子編集者のセンス    
  桜咲いたよ石を運べば石屋のよう  
  林檎の花打楽器配るおじいさん
  画材屋のががんぼとして全うす
  夕顔や施錠もじゃんけんも一瞬    
  水引草に触れた時間が入り口です
  帽子へこんでぽこんと直る母の秋

 『翌朝回路』の続きのような佳句をたくさん見つけ、まずほっとする。

  東京暮らしはどこか棒読み蜆汁

 『そんな青』の中でも支持の多い句である。「十数年前から宮崎作品の不思議な魅力に取りつかれていた」という外山一機氏は、この句について、「〈東京〉という地名の力と〈蜆汁〉というウエットな着地点を安易に呼び寄せてしまったように見える。宮崎はこのような場所から最も遠い場所でこそ輝いていたのではないか」(『鬣』俳句時評)と指摘する。外山氏はまさしく主宰の言う(宮崎の感覚を)「解る人」であったのだ。この一句では、「自分の感覚だけで押し通す」ではなく、解らない人にも感情移入できるアイテムとして「蜆汁」を選択している。
 安西篤氏は栞文で「個の内面から外への広がりを持つようになっている」と述べた。明らかに読者層も広がってきている。

  疲れたかな一羽の冬かもめに夢中 

 東日本大震災の翌年、宮城の人たちと吟行句会を持った。柳生正名氏は『そんな青』の栞に、日頃の句会で接する宮崎俳句について、「そのつど、軽やかで、どこか懐かしい青春性を香らせる、他には決して真似の出来ないイマジネーションの闊達さに舌を巻かずにはいられない」と記している。私も目の前でこんな句を作られて素直に感服した。もう一つの驚きは被災地を巡り、その実態を知る旅においてそれらが句に反映されていないことだ。それはきっと「態度の問題」というより、詩的体質にかかわることのように思える。『そんな青』にも震災関連の句は見当たらず、全体としてのバランスが保たれている。作句についての彼との会話にたびたび出てくる言葉は、「世界観」ではなく「空気感」である。「空気感」で描くには社会的現実は重たすぎるが、反映させる時は感覚的に書かれている。

  原爆ドーム一は何乗しても一
  青鬼灯いじめの最初かすかな音

 彼の言葉の選択、配合のセンスには定評がある。中でも私は生きものがうまく配合された時、句がふわっと優しくなったり、あるいは静謐さを湛える、そんな句がとても好きだ。

  地平線を描けとうるさい春の馬    
  猫の子に石かな切り株かな空だ
  鮎かがやく運命的って具体的   
  ががんぼとまだ雨音にならぬ雨
  母と握手ふつうの握手かたつむり
  ひとり言の意外な重さ秋の蛇
  ギンヤンマいい質問がつぎつぎ来る
  昏睡の人のてのひら鶴よ来い

 「ギンヤンマ」の句について金子主宰は、「雰囲気を伝える句。俳句が雰囲気を伝えられるということは貴重なことなんです。宮崎の軽い意味の俳句の代表句だね。〈いい質問がつぎつぎ来る〉の気持ちのよさを伝えるために、どういう生きものを持ってきたらいいか。それで宮崎の中にあるギンヤンマというものを組み合わせてみたら、何とも言えずいい雰囲気だなあと。それで彼がこう書くわけ。明るくて。いかにも宮崎斗士らしい。それほど意味を伝える句ではない」と言う。この文章には彼も頷き、まるで脳内を覗かれているようだと驚いた。まさに宮崎俳句の本質をついている言葉であり、現代俳句のありようまで語っている。特に凄いと感じたのは、「宮崎の中にあるギンヤンマというもの」というくだりである。そして主宰の帯文、「詩が溜っているから峠をどんどん歩いてゆく」の、「詩」もまた〈宮崎の中〉にある。彼が次に投げるべき一球は、自分の中にある言葉に、詩に、じっと耳を傾けて、対話することによって生まれてくるのだろう。      

  蓑虫は今日も朝から動かずじまい
  蓑虫は揺れてしまえば簡単なり

 と作者の自画像として一体化していた蓑虫は今、作者と並んで幸せそうだ。

  蓑虫にも僕にもちょうどいい雨音


「海程」2015年4月号掲載

ひいらぎ文庫(40)

2015年04月08日 | 芹沢愛子
 今年のグラミー賞のボブ・ディランの功績へのトリビュートコンサート。豪華アーティスト競演のあと、ディランは「多くの人を顧みず少数の人を擁護してきた。俺は今ももがいている」と四〇分に渡るスピーチをした。最後にニール・ヤングが『風に吹かれて』を歌い、場内は感動に包まれた。
 この曲の魅力は歌詞にあると言われている。ディラン自身は「プロテストソングなど書いてはいない」というが、比喩的にまた曖昧に書かれているので、いつの時代をも映しだす鏡のような普遍性を持った。ディランの文学的な歌詞を忌野清志郎が自分流にくだいて歌っている。
 「どれだけニュースを見てたら平和な日がくるの? どれだけ強くなれたら安心できるの? どれだけ嘘をついたら信用できるの? どれだけ人が死んだら悲しくなくなるの? いつまで傷つけあったら仲良くできるの? その答えは風の中さ 風が知っているだけさ」。
 世界が好戦的になっている。                 (芹沢愛子)

「海程」2015年4月号掲載

青山俳句工場05第五十九号(3)

2015年04月08日 | 青山俳句工場05
「工場長スパナ/宮崎斗士」より。

 読む機会のあった俳句作品、皆様にもぜひ読んでいただきたい作品を、宮崎が鑑賞させていただくページです。

村はからっぽ虹の足が墓標  白井重之
 「鮮―海程富山」第17号より。無人の村に鮮やかな虹がかかる―何ともいえぬ虚無感が漂う。そして「虹の足」を「墓標」と喩える斬新な感覚。過疎の村に対する作者の思いの丈、切ないほどに。

白骨や真葛にわたし戯れすぎて  矢野千代子
 「白骨や」の措辞、一読「えっ?」と思わされたが、くり返し味わううちにどんどん広がってくる。例えば自らの死後を思うように‥‥中七下五がズバリ「一生という流れ」というふうにも読めて納得できた。「真葛」の斡旋が見事。

秋の陽が痛い母のきれいな命日  伊藤幸
 「陽が痛い」と「きれいな命日」との微妙なバランス。その「痛さ」を受けとめたゆえの「きれい」なのではないかとだんだん思えてくる。作者の穏やかな表情、そして万感の思いが滲む。

鍵穴をぞろぞろ夜の羊たち  榎本祐子
 シンプルな構成ながら味わい深い一句。これはおそらく眠れない時の「羊が一匹、羊が二匹‥‥」の羊だろう。その羊が鍵穴を通って外へと出てゆく‥‥。「鍵穴」の効果で佳きファンタジー性が生まれた。

残り湯を捨てられぬ母小鳥来る  河西志帆
 「残り湯を捨てられぬ」から汲み取れる母の質実な日常。「小鳥来る」が作者のやわらかな温かな眼差しを感じさせて、強く印象に残る一句となった。

きょうの頁に秋蝶まぎれ乱丁なり  小池弘子
 不意に訪れた「秋蝶」。そのおかげで今日はどこか乱丁の感じ‥‥。ほのかなドラマ性もあり、「秋蝶」に象徴される今日の出来事とはいったい何か、想像が膨らみ楽しめる一句。

夜更しは耳澄ますこと木の葉髪  芹沢愛子
 しっとりとした孤独感。冬の夜、自らを包む静けさにひととき酔う。上五中七「~は~こと」の断定が詩的に鮮やかに決まり、まさに「木の葉髪」の佇まい、じんわりと響いてくる。

以上、「海程」2015年1月号、2・3月号より。

青山俳句工場05第五十九号(2)

2015年04月08日 | 青山俳句工場05
「工員矢の如し」より。

第五十九回『テーマは「あの時はとにかく頑張った!」。子供の頃、受験生時代、学生時代、就職活動、社会人になってから、婚活、結婚してから、子供を持ってから、退職してから‥‥。勉強のこと、運動のこと、クラブ活動のこと、仕事のこと、お金のこと、人間関係のこと、家族のこと、俳句のこと。苦労話、成功談、失敗談など、ご自由にどうぞ。』

石川まゆみ◆四年前、習っていた韓国語のスピーチコンテストに出場した。日本語で書いた作文を先生に完成させてもらい、とにかく覚えに覚えた。ひと月の間、一日三〇回を目標に言う、何か他のことをしている間に五分間言う、トイレでは必ず自分の顔を見ながら言う、寝る前に言う、を繰り返し、頭の中が真っ白になっても言葉が出てくるように練習した。その年は見事優勝して、アシアナ航空のソウル往復チケットを貰った。練習をしていた一か月は、とにかく日本語の滑舌も自分ながら素晴らしかったと思う。よく頑張った。

石橋いろり◆『あの時はとにかく頑張った!』とはっきり断言できるのは、父母を看取った三年間だ。平成二十三年二月の母の発病から、震災直後の停電下での手術。半年後の再びの手術、自宅での母の看病と看取り、葬儀、法要。高齢の父の介護。母に先立たれた高齢の父の喪失感のケアに心をくだく日々の暮らし。父の怪我。父の看取り、葬儀、法要と続けざまに続いたこの三年間だった。震災時、たまたま自治会長も引き受けていたため、自治会内の高齢者ケアとイレギュラーな人道的支援も重なり、孤軍奮闘だった。全ての決断をひとりで一つ一つ下さねばならないことが辛かった。あの時ほど精神的・肉体的に大変なことはなかった。そう思うのだが、今思えば最後まで母とも父とも一緒にいられた幸せの証だったとも言える。

岡野霧り◆人生の中で最も頑張ったのは、陶芸を始めた頃。短大を卒業し、皇居の近くでOL勤めを3年。旅で出会った陶芸の道へ。根拠のない自信だけはあった私。しかし、陶の世界は想像以上のカルチャーショックだった。貝のように口を閉ざす数年を送り、実家に帰り窯を持ち、やっとふ〜っと大きく息を吐くことができた。家を出て初めて親に守られていたことを知った。何も知らない甘ちゃんだった私。
 そして今、子育ての10年近い陶芸のブランクを打ち破るように、また活動を始めた。営業もできる! あんなに引っ込み思案だったのにね。人はいつでも変われる、新しく生まれ変わるものです。

北上正枝◆海原や俺の一生一つまる 中村孝史
 この句を拝読して全く同感し、ここまで生きてきて何一つ頑張らなかった自分を思った。だが、私にもたった一度だけ意地で頑張った事があった。今から二十年ほど前、今は亡き師に呼ばれてこっぴどく叱られた事があった。俳句で賞らしき賞を取った事がなくのほほんとしている私を叱咤激励しその気にさせて下さった。或る結社の新人賞に挑む事に決心させられたのだ。
 叱られた事の不満が膨らんで意地を出し十五句をしゃかりきに纏めこの年は年末からお正月にかけてかなりのエネルギーを費やした。結果ストレスで体調を崩し胆石を溜め込んだ。
 頑張りが功を奏して春の大会では運よく賞を戴いた。
 今でもこの時の頑張りは人生に唯一のものだったと思いあのころの若さが懐かしい。今回のこのテーマは そういう意味では恰好のものだった気がする。

白黒木子◆受験と出産でしょうか。
 大学受験は六校受けさせてもらいました。美大の場合は学科と実技で3日間は通わないといけないので、すごい日数都内に通っていました。実技の日は油絵具の入った大きな重い荷物を抱え、満員電車に乗るのが苦痛でした。油絵具のみならず様々な油のビンや筆洗液やら入っているので、肩にかばんがくい込むくらいでした。帰りの電車で立っていることができず、座ってる方に思わず頼んで席をかわってもらったこともありました。それくらい限界でした。連日試験が続き、手をきちんと洗えない日が続いたら、手が油絵具だらけでいろんな色に。そのまま放っておいたら、いつのまにかきれいになっていて「あれっ」と思ってひっかいたら下から新たな色が。全体に肌色の絵具がついてきれいに見えていただけでした。無事大学に合格したので良かったです。
 出産は少しずつ体が変化していくことにまず驚き、ごく普通に当たり前のことのようにみながそれを体験してることに驚きました。こんなにすごいことなのに!と。私は六時間で産んだけど、これが早い方なのです。三日かかる人もいます。でも学校で六時間目までずっとふぅーはぁー言ってるのって大変なことですよね。しかもその間いつ終わるかはさっぱりわからないのです。思わず助産婦さんに「これ、いつ終わるんですか」ときいたら「それはわからないよ」と笑われてしまいました。でもよくできたシステムでガーッと力が湧いて、苦しみの合間にちゃんと休みがくるのです。これを代々母は体験したんだと思うと神秘です。
 受験も出産も終わりがちゃんとある、ということがわかっているから頑張れるんですよね。日常の中で目標をつくり、自分でコツコツ頑張り続けるのって難しいですよね。

抜山裕子◆苦手なスポーツで頑張ったことなので、今でも鮮やかに記憶に残っている。子供の手が離れた頃、健康の為に始めたのがテニス。スポーツ音痴で何事も遅い私がなんとかテニスらしくなって、女子連盟に加入し皆で対外試合に出かけた。良きパートナーのお蔭で三回戦まで進んだ相手は強いと評判のクラブの若いママさん達、案の定球は強いし女性が苦手とする「バックのストレート」をバンバン打ってくる。開き直りでリラックス出来たせいか一対一に漕ぎつけた。マッチポイントは私のサーブ。妙に落ち着いたオバサン根性が出て、ネット際のパートナーにスタスタ近付いて行った。相手に表情を見られない様に背中を向けてパートナーに「相手はバックのストレートが得意だから得意技で返球すると思う。サーブをバックに入れるからケアしていてね」と伝えた。祈る気持ちで入れたサーブがバックに入り、思った通り相手はバックのストレートで返球。パートナーは見事にボレーで決めてくれて、ゲームセット。若いママさん達は、なんでこんなオバサン達に負けたのかと、腑に落ちない様子だった。
 確かに技術は彼女達が優っていたけれど、得意技を読まれたのは若さのせい、スポーツ音痴のオバサンの年の功と自負している。
 因みに四回戦はメチャ負けでした。

藤田敦子◆大学は女子大だったが、同郷の友人に勧誘されて、W大のシネマ研に入った。制作班からは監督も数多く世に出たが、我々鑑賞班は、女の子も交え楽しく語り合おうといった勧誘内容だったと思う。確かにアメリカやフランス映画班はおしゃれな雰囲気もあったが、私が入った邦画班は少し様子が異なっていた。
 世は七十年代後半、日本映画は斜陽だった。この斜陽という空気は哀しくもあり美しくもあった。まずは黒沢、小津、溝口・・と日本映画史を辿る。ビデオレンタルも無くはなかったが、スクリーン以外は邪道なのだ(よく、テレビに対して本編と呼んでいた)。
 2番館では特集も組まれていたし、週末はオールナイト5本立も当然、活動に入っていた。
 今考えると、「無頼シリーズ」5本立てとか・・血しぶきとドスの音に咽ながら、夜明けの歌舞伎町に出て始発までルノアールみたいな・・とてもじゃないが、女子にまったく配慮はない活動の日々だった。卒業してからも映画は特別なものとして生活の中にあり、映画祭で知り合った夫と結婚した。鑑賞中は「私語、飲食禁止」これは伝統であり、付き合っていてもデートと思ったことはなかった。これは未だにそうだ。
 当時の連中とは、年に何回か飲むが、すでに子会社の社長などに収まっていても、すぐに映画の話で盛り上がれるのがいい。「最近、何観た?」「アメリカンスナイパー」「あぁ、あれはね・・」ロードショーが千円で観られる日も近くなった。

堀真知子◆教職の単位に最後に残った百メートル水泳。かなづちの私が選んだのは背泳。これならプカプカ浮いてゆけば何とかなる。しかし一升ほど水を飲んでもまだ着かない。そのうち救助隊がプールサイドから飛び込み始めた。でも救助されたら単位がとれないと思い、必死でまた泳ぎ始め、ついにゴールした時‥‥。
 頑張ったのは、一生であの時だけかな。

増田暁子◆家族の病気ほど辛いものはないですね。特に幼い子供が病気とか手術とかになると親も家族もオロオロです。
 長男が3歳の時心臓の手術をしました。幸い無事に終わり、今は元気に成人になっています。当日は気配を感じて、愚図つく子を手術室まで見送り、廊下の椅子で10時間ほど夫婦で夜明かししました。実は2日前にやはり心臓の手術をした10歳の女の子が亡くなりました。子供病棟は親同士が出入りしたり泊まったりするので顔見知りになり、おたがいの子供の無事回復を信じて慰めあっていたのです。3年生のとても可愛い女の子で、病院の廊下を花柄のパジャマを着てアニメの帽子をかぶりスキップして走り、笑いながら手術前の10日間ほど一緒に遊んでいました。元気になるはずが手術の途中で亡くなったのです。女の子の症状はかなり進んでいて先生方も大変落胆のようすでした。長男の担当医が「大丈夫だからね。彼女とは病状が違うからね。」と言われましたがなんとも不安で、複雑な気持ちだったのを覚えています。2か月程の入院生活でしたが、3歳ですから私は連日泊まり込み、土、日は主人が交代で泊まりました。留守家族も非常に大変で、小学生の長女がご飯や洗濯を頑張りました。お陰様で元気に回復してきた腕白坊主を2か月間ベットで過ごさせるのは本当に難しく、色々考えて、時間が過ぎていくのをただ待っていました。とにかく我が子は元気になりましたが、あの女の子のご両親の気持ちは想像するのも辛く、悲しかったです。
 あの時私たちは頑張りましたが、長男はほとんど覚えてなく、手術の傷跡が成長に連れて大きく残っているだけです。ただ毎日病院の販売機でジュースが買えたことは記憶にあるようです。

青山俳句工場05第五十九号(1)

2015年04月08日 | 青山俳句工場05
参加者
油本麻容子・天宮風牙・有田莉多・石川まゆみ・石橋いろり・泉陽太郎・伊藤巌・伊藤幸・稲葉千尋・岡野霧り・岡村知昭・奥野ちあき・小野裕三・片町節子・桂凛火・上脇すみ子・カルロス ノマド・川崎千鶴子・川崎益太郎・北上正枝・黒岡洋子・黒済泰子・小池弘子・小西瞬夏・小林八千代・小松敦・小宮豊和・齊藤しじみ・佐藤詠子・佐藤鎮人・佐藤千代子・篠喜美子・清水恵子・白井健介・白黒木子・新城信子・鱸久子・芹沢愛子・田中雅秀・直野ふみえ・永井克明・中塚紀代子・中野淳子・中村晋・抜山裕子・野村眞理・帆万歩・平田恒子・藤田敦子・堀真知子・前塚満・増田暁子・峰尾大介・宮崎斗士・望月士郎・山下一夫・渡辺惠子

「通信欄」より。

伊藤淳子◆立春を過ぎますと、やはり空気が春らしく感じられます。いつも何やかやお世話になって有難うございます。又このたびも青山俳句工場05第五十八号、ありがとうございました。先日茂里美絵さんとお電話で「青山」の通信欄のことを話しました。「勉強になるわ」と言っていらっしゃって、確かにと、私も選をさせて頂き、作者を見てふむふむと楽しい時間でした。工場長の「スパナ」もです。まだまだお寒いのでご自愛を。御礼まで。
(宮崎→いつもご愛読ありがとうございます。佳き春を!)

川崎益太郎◆今年も五月二十日締め切りで、第二十四回ヒロシマ平和祈念俳句大会の俳句を募集しております。ご投句をお待ちいたしております。よろしくお願い致します。
投句(問合せ)先 〒730-0002 広島市中区白島中町12-15 川崎益太郎宛
         電話・FAX 082(222)1323

小池弘子◆北陸新幹線開業まで一週間を切った。三月十四日から、いよいよ乗り換えることなく富山から東京まで二時間三〇分で行くことができる。時間短縮よりも、乗り換えなく行けるのが、私には魅力だ。しかし在来線特急たちの消えるのは淋しい。本当にお世話になった。
 「はくたか」「北越」で数え切れないほど東京へ行った。又、関西方面への「サンダーバード」「しらさぎ」は県内に乗り入れなくなる。それぞれの列車よ、ありがとうございました。

芹沢愛子◆3月16日は遠山遊子さんの命日。追悼文集を読み返してみました。
  花曇り少年の肩のような墓
  天使の輪あるよこの世につくしんぼ
  捨てに来た椅子に座るよ春の雲
  夏惜しむ弟子でも子でもない犬と
  蛍消え親の戦争さえ知らない
  蛍かな映画の中はあんなに明るい
  流木であること日盛りを歩くこと
  一頭につき一秋思なり羊小屋
  人声の故郷あたり雪という
  鯨とか熊とかと一緒日向ぼこ
 他にも好きな句がたくさんあります。追悼文には俳人としてもっともっと羽ばたけた遊子さんを惜しむ声が多く、遊子さんの句はその時々に思い出すだろうとの文章もあって‥‥。私は今もふっと遊子さんの句を思い出すことがあります。最近ふと電話での会話も思い出しました。酔って帰ってきた時の夫のテンションがいやだという話で盛り上がり、遊子さんは寝たふりをすれば被害を受けないというので、私がそれを羨ましがったという他愛ない話です。亡くなってから六年がたちました。私は半年ぶりの二月の検診で医師から、「抗がん剤治療が終わって五年ですね。これで卒業です。」と言われました。異常なしは予想していましたが「卒業」の言葉が妙に嬉しかったです。友人や家族にずいぶん励まされ、かばわれてここまできたのだから、じーんとくるものがありました。お世話になった方々、本当にありがとうございました。体は弱くなってしまいましたが、これを区切りとして次の一歩を始めたいと思います。

中野淳子◆関西から関東に嫁に来て三年になった。身についたものというのは不思議で、口を突いて出る言葉は未だ関西弁だ。主人は九州男子、熊本の人だが、故郷を離れて二十年になるので、すっかり東京の人である。家の中では、関西・関東の言葉とイントネーションが入り乱れるので、息子は「ハイブリット」になった。「いけない」と言う言葉は、「あかん」となる。「苺」の発音は、「ち」の部分にアクセントが移る。「おかえり」と、主人を出迎える時は「り」の部分が尻上がりになり、伸びる。主人から受け継いだAB型さんの「掴みどころのなさ」と、A型の私から受け継いだ頑固さ。東京で迎える三年目の春。ますます楽しくなる予感。

堀真知子◆天候不順で実がつかず、もうダメかと思っていた畑のブロッコリーが、この一週間で急に赤ん坊の頭大に。野菜たちは、ときどきこの「びっくり!」を仕掛けてきます。
 森となる夢捨てきれずブロッコリー 新宮譲
 を思い出しました。

武藤鉦二◆拙句集『羽後残照』、青山俳句工場05第五十八号でのご紹介、感激しております。それにしても、工場への出句の新鮮さに目を見張り、句を読み、句を評する若い方々の姿勢に感じ入ります。まさに工場長さんの意図するところが見え、大きく羽ばたく方々が出ますね。本物の工場です。宮崎さんの大きく広いご活躍に拍手し、愛子さんの安西篤賞、そして次への跳躍を楽しみにしています。
(宮崎→嬉しいお言葉どうもありがとうございます。『羽後残照』素晴らしい一冊でした。)