■忠鉢信一記者の目
W杯ロシア大会の決勝トーナメント1回戦で敗れた後、長谷部誠や本田圭佑らが日本代表から引退する意思を明らかにしています。日本代表選手は、大会などの度に監督に選ばれる立場でもあるので、自分から「引退」を宣言する選手はこれまで多くありませんでした。
【写真】ベルギー戦後、日本代表からの引退を表明した長谷部
自身のインスタグラムで引退を表明した長谷部も「日本代表という場所はクラブとは違い、いつ誰が選ばれるかわからないところであるので、いち選手からこのように発信することは自分本位」という懸念があったことを明かしています。
本田はベルギー戦の後、「W杯は最後。4年後は考えられない」と話しました。しかし「サッカーにどう携わっていくのか、整理して考えたい。いまは中途半端に言えない」と決断は保留しました。本田がW杯に初めて出た2010年W杯南アフリカ大会の直後、モスクワ郊外の自宅近くでインタビューしたとき、「W杯はあと2回」と明言していました。ベルギー戦の直後は、感情にまかせて発言してしまったのかもしれませんが、ロシアでの代表引退を考え続けてきたことは間違いありません。
日本代表でプレーすることは選手にとって名誉であり、プロ選手としての商品価値を上げ、引退後の収入にも影響します。その代わり所属クラブでの年間30試合以上に加えて、日本代表のために年間10試合以上の負担が加わります。勝利ボーナスはありますが、負けて日当だけになれば報酬は微々たるもの。W杯やコンフェデレーションズ杯に出るとオフが短くなり、「ワーク・ライフ・バランス」を考えると、厳しい面もあると聞きます。
選手の引退には様々な理由があり、周辺の事情も絡みます。
02年W杯日韓大会の直前、私は中田英寿さんがW杯の日本代表から退く決意でいることを知りました。出場していた01年コンフェデレーションズ杯で決勝を前にチームを離脱。優勝争いをしていた所属クラブのローマの試合を優先したことで、当時の日本代表のトルシエ監督と激しく衝突したことがきっかけでした。
私が引退の決意を報じると中田さん側は反発。トルシエ監督の後任になったジーコ監督が直々に説得したことで中田さんは翻意し、日本代表を06年まで続けました。
実は05年12月に、02年当時の事情を知る関係者から、中田さんが「引退パーティー」をすることを知らされていました。同時に、報道が先行すれば02年の時のように引退を撤回するだろうとも伝えられました。中田さんは当時所属していたボルトンの05~06年シーズンの最終戦で、チームメートに現役引退の挨拶をしたことも確かめました。しかし先行して報じれば撤回するという話は、土壇場でも変わりませんでした。
10年南アフリカ大会の決勝トーナメント1回戦で敗退した時、中村俊輔が試合後に代表引退を口にしました。中村も事前に、周辺に引退を伝えていました。長谷部も大会前に引退は決めていたと明かしています。多くの人に応援してもらっている選手です。辞めることを信頼する人に伝えることで、決意を固めると同時に、同意してくれる人が欲しいのだと思います。
私は02年11月、その年のW杯日韓大会で代表引退を決めたドイツ代表選手が、ホームであった親善試合のオランダ戦で引退セレモニーをするのを見る機会がありました。新しいスタートを切ったスタッフや選手とお祝いの食事をし、スタジアムではサポーターの拍手を浴びていました。これがドイツの伝統だそうです。
どんな偉大な選手でも、いつか衰え、代表に選ばれなくなる日が来ます。限界まで戦い抜くのも一つの姿ですが、引退を希望する選手に花道を用意して報いるのも、競技団体の役目ではないかと私は思います。(忠鉢信一)
朝日新聞社
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