花子さんのアンニュイな日々

アンニュイな私がたまに元気になるあれこれそれのこと……
(西多摩のグルメのブックマークを充実させたい!)

イタリア旅行 ダイジェスト その2-2

2014年05月19日 00時16分33秒 | お出かけ(ヨーロッパ)
 
 5日めは、ローマ市内観光(バチカン美術館・システィーナ礼拝堂・サンピエトロ寺院・コロッセオ・トレビの泉・スペイン広場・べネチア広場・サンタンジェロ城・フォロロマーノ)です。

 286km走って、ローマへ。
 ローマ到着~。
 糸杉と笠松のある風景~。
 糸杉とは地中海東部からイラン北部に自生するヒノキ科針葉樹で、ヨーロッパでは死の悲嘆を表すのに用いられ葬儀の棺を糸杉で飾るとも、上に上に伸びていくことから糸杉を伝って魂が天国へ上って行くとも言われ、墓所に植えたりするそうです。
 笠松とは地中海北岸地域に分布する二葉松で、傘を開いたような樹冠になることから笠松・英名でアンブレラパインというそうで、マツボックリに付く実は食用になるそうです。
 どちらもヨーロッパの絵画によく登場していますね。

 

 イタリアの都市で見かけたのは小型車ばかりでした。
 どうやって出て行くの?と不思議なほどの車間で駐車していました。

 

 ランチは選べるピッツァ。

 

 

 
 
 

 

 

 

 バチカン市国観光に向かいます。
 ローマにあるこの世界最小の国家(東京ディズニーランドより小さい面積だそうです)・バチカンの国土全域が世界遺産として登録されているそうです。
 バチカンとは、vaticinare(予言する)に由来するそうで、古代より「予言者の丘」と呼ばれていた場所なのだそうです。
 市国とは、Stato della Città del Vaticanoの「Stato」が国で「Città」が市であることからそのまま直訳したものだと、知恵袋さんで知りました。
 ローマ教皇庁によって統治されるカトリック教会と東方典礼カトリック教会の総本山だそうです。

 

 まずバチカン美術館見学。
 16世紀初めの古代彫刻コレクションに始まり、エジプト美術館・エトルリア美術館・世俗美術館・キリスト教美術館などが次々に増設され、20世紀に至るまで拡大が続いたそうです。
 10の美術館と1つの絵画館、その他のギャラリーやコレクション、加えて美術館の一部としてシスティーナ礼拝堂・ラファエッロのスタンツェ(部屋)・ニコラス5世の礼拝堂・ボルジア家(15・16世紀にイタリアで繁栄した貴族の家系で政敵を次々に毒殺し、好色・強欲・残忍・冷酷とされている)の住居といった壁画装飾で有名な教皇宮殿の礼拝堂や部屋の一部が美術館の見学ルートに入れられているそうです。
 
 

 まず、ここで説明を聞きます。

 

 

 

 日本人のガイドさん。

 

 ピーニャ(女性名詞でマツボックリのこと。男性名詞だとピノ。ピノキオってありますねー)の中庭にあるミケランジェロが改修したピーニャの大壁龕(だいへきがん。彫像などを置く窪みのことだそう)。
 このマツボックリ、鍍金(メッキ)ブロンズ製で古代ローマ帝国時代の1-2世紀頃には噴水だったそうです。
 マツボックリは古代ローマで豊穣や繁栄を表すシンボルだったそうです。
 
 

 

 タペストリーのギャラリー。

 

 

 

 地図のギャラリー。

 

 もうね、すごいの一語です。
 きりがないので写真はここまでにします。
 
 

 システィーナ礼拝堂のミケランジェロの描いたフレスコ画が大変有名ですが、撮影禁止でした。
 システィーナ礼拝堂は教皇居城の付属礼拝堂として1475年シクストゥス4世によって建立されたそうで、「システィーナ」とは「シクストゥス」の所有形だそうです。
 名詞の語尾が変化するって、日本語と片言の英語しか知らない私には理解が難しいです。

 サン・ピエトロ寺院。
 最初の聖堂は4世紀ローマ皇帝コンスタンティヌス1世によって、キリストの十二使徒の一人聖ペテロの墓所があったところに建てられたそうで、「サン・ピエトロ寺院」という名称はこれに由来するそうです。
 1377年にローマ教皇の座所となり1626年に現在の大聖堂が完成したそうですが、キリスト教の建築物としては世界最大だそうです。
 とても美しかったです。
 
 

 

 有名なミケランジェロ(1475年 - 1564年)の「ピエタ(磔刑の後十字架から降ろされたイエス・キリストとその亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする宗教画や彫刻のこと)」。

 

 

 

 

 

 

 

 プレゼビオ。
 イブの夜、パッパさまの手によって赤ちゃんイエスが飼い葉桶に置かれます。

 

 スイス衛兵さん。
 カトリックのスイス市民で、19歳から30歳まで、身長は1.74メートル以上、中等学校または相当する職業訓練校とスイス軍の基礎訓練課程を修了、スポーツ能力と人品が良好であること、伍長と兵は独身であること、が採用の条件だそうです。
 ちゃんと武器を携行しているそうです。
 そ-なんだー。
 スイスの傭兵は15世紀から18世紀にかけてヨーロッパ各国で活躍したそうですが、19世紀にスイス憲法の改正により傭兵輸出が終了した後もバチカン市国のスイス衛兵のみ例外として認められているそうです。
 国土の大半が山地で農作物があまりとれずめぼしい産業が無かったスイスは、傭兵輸出により強大な軍事力を持つ国になったそうです。

 

 

 

 バチカン全景。

 

 コンクラーベ(教皇選挙)の際、システィーナ礼拝堂のこのあたり(この写真の中央くらい)に煙突が作られ、新教皇がまだ決まらない場合には黒い煙を出し、新教皇が決まった場合には白い煙を出して外部への合図とするそうです。
 混乱を招かないよう、黒は黒、白は白と見えるよう色付けする薬品が工夫されているそうです。
 ベネディクト16世の生前退位により2013年3月に行われたコンクラーベの様子は日本でも報道され、記憶に新しいです。
 ちなみに、第266代新教皇にはアルゼンチン出身のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が選出され、就任時に自身の教皇名を自ら決める慣習により「フランシスコ1世」となられました。
 裕福な家に生まれ富を捨て修道会の1つフランシスコ会を創設したことで知られる聖フランチェスコ(平和・摂理の象徴)に由来するそうです。

 またこの写真の右端あたりの窓がパッパさまのお住まいだそうです。
 ローマでは、新教皇フランシスコ1世の一般信徒からの絶大な人気を肌で感じました。

 

 ベネチア広場とサンタンジェロ城(聖天使城)とフォロロマーノは車窓からの見学でした。
 なんかね、バスでぐるっと一周できる場所に集まっているみたいでした。

 サンタンジェロ城。
 590年にローマでペストが大流行した際、時の教皇グレゴリウス1世が城の頂上で剣を鞘に収める大天使ミカエルを見てペスト流行の終焉を意味するとしたことに由来するそうです。
 139年に完成し軍事施設として利用されて来、14世紀以降は歴代のローマ教皇によって要塞として強化され、また牢獄や避難所としても使用されたそうです。
 バチカンのサン・ピエトロ大聖堂とは秘密の通路で繋がっているといわれているそうです。

 

 フォロロマーノ。
 ローマ市民の広場と言う意味ですが、紀元前509年からの共和時代からローマ帝国時代を通じて約1000年もの間、首都ローマの中心部だった場所だそうです。
 西ローマ帝国滅亡後は打ち捨てられ土砂の下に埋もれていたそうですが、19世紀から発掘が始まったそうです。

 

 ローマの旧市街の中心地・ベネチア広場の奥にそびえ立つ白亜のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂です。
 1870年のイタリア統一を記念して19世紀末から20世紀初頭に建てられたそうです。

 横から。

 

 斜めから。

 

 正面から。
 何たってバスがぐるっと周ってますからね…。

 

 横から見たバチカン。

 

 「フォーリ・インペリアーリ(諸皇帝たちのフォロ)」の一部「カエサルのフォロ」。
 紀元前50年前後に造られ、カエサルの祖先とされる女神ウェヌス(=ビーナス)に捧げられた神殿があるそうです。
 あー、それでベネチア広場なのねー。

 

 サンタマリア・イン・コスメディン教会の入口左側にある「真実の口」も車窓から見学でした><。

 バスからコロッセオが見えてきました。
 修復工事中。

 

 

 

 下車観光しましたが、このツアーではコロッセオ内部の見学はなく外観を見ながらガイドさんの説明を聞きました><。
 
 コロッセオは、ヴェスパシアヌス帝が紀元72年に着工し80年にティトス帝によって完成された円形競技場だそうです。
 ネロ帝の庭園にあった人工池の跡地に建設されネロ帝の巨大な像(コロッスス)が建っていたため、コロッセオと呼ばれるようになったそうです。
 コロッセオでは、皇帝や貴族や有力な政治家がローマ市民の歓心を得るために無料で見世物を行っていたのだそうです。
 5万人を収容し、1階はドーリア式・2階はイオニア式・3階はコリント式と様式の違うアーチで飾られ、観客席は身分によって分けられていたそうです。
 1階席は元老院と議員・2階席は騎士・3階席が市民・その上の立ち見の天井桟敷は市民権を持たない人のものだったそうで、人々に身分制度を意識させ帝国の秩序を保つ皇帝の統治術でもあったのだそうです。
 ちなみに、古代ギリシャ・ローマの建築にはオーダーと呼ばれる円柱と梁の建築様式があり、ドーリア式はふくらみのある円柱におよそ20本の堀り溝、柱頭には丸みを帯びた円板と正方形の板が載り、男性の肢体と呼ばれているそうです。
 イオニア式は柱身がドーリア式より細く、24本の堀り溝、柱の上部に左右対称の渦巻きがあり婦人の肢体と呼ばれているそうです。
 コリント式はイオニア式よりさらに柱身が細くなり、柱頭に華美な装飾(たとえばギリシャの国花であるアカンサス=ハアザミの葉を模したものを上下8枚ずつ彫り込む等)が付き乙女の肢体と呼ばれているそうです。

 見世物は、午前中は猛獣狩り・猛獣同士の戦い、正午には犯罪人の公開処刑、午後は剣闘士の試合と定められていたそうです。
 「コロッセオ開幕の100日間」には、殺された動物は9000頭・3000人の剣闘士が亡くなったと言われているそうです。
 この残虐な見世物は、紀元380年にキリスト教がローマ帝国の国教になってから衰退して行き、681年に公式に禁止されて消滅したそうです。
 
 コロッセオが2000年もの間建ち続けているのは、ローマン・コンクリートでできているからだそうです。
 ローマン・コンクリートは消石灰とベスビオス火山の灰(ポッツォラーナ)と砕石を混ぜて固めて作ったそうです。
 火山灰には地殻構成物質量が1位の珪素と2位のアルミニウムが含まれていて、これが石灰と水と反応することで、地下(ジオ)で堆積岩が生成するときと同じアルミノケイ酸塩の高分子化合物(ポリマー)合成反応(ジオポリマー反応)が起き、固化したものだそうです。
 こうしてできたローマン・コンクリートは現在のコンクリートのようにカルシウムを含まないため、大気中の炭酸ガスに侵されず、長い間建ち続けてきたのだそうです。
 
 

 

 バチカンでは感じなかったのですが、コロッセオ周辺には大勢のスリだと思われる人々がいました。
 手にスカーフやタオルを広げ持ち、その陰で財布などをスルらしいです。
 素人目にもスリと明らかにわかるのですが、スッた財布などはすぐ仲間に手渡され、気づかれても証拠もないため堂々としています。
 10代と思われる女性が多かったです。 

 トレビの泉は、凱旋門を模したポーリ宮の一部です。
 もともとはローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスがの紀元前19年建設したものだそうですが、現在のバロック様式のトレビの泉は18世紀に当時の教皇クレメンス12世と建築家ニコラ・サルヴィによって再建されたものだそうです。
 ポーリ宮の頂上にはクレメンス12世の出身であるコルシーニ家の紋章が飾られています(おしいっ。写真はちょびっと欠けているっ)。
 中央に海神ポセイドン、左に豊饒の女神デメテル・右に健康の女神ヒュギエイアが配置されています。
 紀元前1世紀最初の公共のローマ浴場「アグリッパの浴場」に水を引くために「ヴィルゴ水道」が引かれたそうですが、古代のローマに水を供給していた11本の水道のうちただ一つこの「ヴィルゴ水道」だけが修復されて、現代でもトレヴィの泉をはじめローマ中の噴水と街中の一般市民向けの水道の蛇口から流れ出している水を供給しているそうです。
 すごいわー。
 水路は20km以上の長さに対し高低差はわずか4m、その水路の終着点であるトレビの泉では高低差の不足により噴水とすることができず、テベレ川の氾濫でここに流れ着いた小舟をモチーフにしたといわれる「バルカッチャの噴水(舟の噴水)」が考え出され、難破船のあちこちから水がふきだしているというユニークな形になったそうです。

 

 

 スペイン広場側です。
 17世紀広場の南側にスペイン大使館があったことからスペイン広場と名づけられたそうです。

 

 うっふん。

 

 スペイン階段を上がるとトリニタ・デイ・モンティ教会があります。
 教会前にもプレゼビオがありました。

 

 トレビの泉の横に有名なジェラート屋さん「クレープ」があります。
 ガイドさんお勧めの、手作り(工場生産ではない)で美味しいお店です。

 

 

 夕食は「カサノバ」で、カンツォーネディナー。
 ワインとお水が付いてました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 5泊めは、<ホテル プリンセス>泊です。

 6日めは、ナポリ・ポンペイ観光・カメオ工場見学です。

 229km走ってナポリに向かいました。

 

 

 

 

 ナポリの街。
 5世紀にローマ帝国が滅亡して以降19世紀までフランスやスペインなどの周辺国の支配を受け、波乱に満ちた歴史を経てきたそうです。
 「ナポリ歴史地区」として世界遺産(文化遺産)に登録されています。

 

 ウンベルト1世のガレリアかな?

 

 

 卵城(カステロ・デル・オーボ)。
 もともとはローマ帝国時代の執政官ルクルス(紀元前118〜紀元前56年)が建築した豪華な別荘があった場所だそうですが、11世紀にこの地を支配したノルマン人のオートヴィル家が要塞を築いたそうです。
 「この卵が割れるのは、この城とナポリに危機が訪れたときだ」として、基礎に卵を埋めたのが城の名称の由来といわれているそうです。

 

 

 カメオ工房見学。
 カメオには、シェルカメオ・ラーヴァカメオ(溶岩に)・ストーンカメオ(瑪瑙などに)があり、これらの素材の表面に浮き彫りを施したものだそうです。
 シェルカメオは、現在ではここ南イタリアのナポリ近郊の港町で製作されているそうです。

 

 

 浅野ゆう子さんがいらしたのね。

 

 

 ポンペイ到着。

 

 ランチは、スパゲティ・ボンゴレ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 南イタリアはオレンジが美味しい。
 生ジュースも美味しかったです。

 

 いよいよポンペイ観光。

 ポンペイは、「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域」の主要部分として、ユネスコの世界遺産に登録されています。
 
 ウィキによれば、紀元前89年ルキウス・コルネリウス・スッラ(共和政ローマ期の軍人・政治家)によって征服されローマの植民都市となったポンペイは、港に届いたローマへの荷物を近くのアッピア街道に運ぶための重要な拠点となり、商業都市として栄えたそうです。
 またぶどうの産地で、ワインを運ぶための壺が多数出土されていることから主な産業はワイン醸造だったことが伺えるそうです。
 最盛期の人口は約2万人だったそうです。

 紀元79年ヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続け、翌日噴火から約12時間後の噴火末期に火砕流が発生し、ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まったそうです。
 市民の多くが火砕流発生前に逃げたそうですが、何らかの理由で街に留まり逃げ遅れた約2千人が犠牲になったそうです。
 一瞬で5mの深さに町全体を飲み込んだ火砕流が当時の人々の生活をそのままの状態で保存したのだそうです。
 
 素敵なガイドさん。

 

 マリーナ門が見えています。

 

 

 マリーナ門を入ります。
 このすぐ近くまでが海でこの辺りが港だったそうです。

 

 

 アポロ神殿。

 

 

 フォロ(広場)周辺です。

 バジリカ。
 裁判所や教会の役目をしたとか。

 

 ゼウス(ユピテル)神殿。

 

 火山灰の重みで建物の屋根は崩壊し、壁や柱だけが遺されています。
 
 

 古代ローマの伝統を守り、ほぼ直角に交差する直線の大通りによって規則的に区切られ計画的に設計された町だそうで、建造物は石でできています。

 これは馬車道の馬車止め石。

 

 上下水道が整備されていたそうです。
 貯水槽に鉛管で水を運んでいたそうですが、石灰分の多い水だったため鉛管の内側が石灰で覆われ鉛中毒を免れていたそうです。
 こんなものまで2000年も残っていたなんて驚きです。

 

 

 馬車道を渡る横断石。

 

 整備された広い馬車道と両脇の歩道。
 進んだ文明でしたねー。

 

 

 有名な娼婦の館。
 石のベッドには何か敷いたそうですが、その小ささにびっくり。
 この時代の人々はこんなに小柄だったのでしょうか。

 

 

 

 壁画も残っていました。

 

 

 これも有名な娼婦の館のある方向を示す案内。
 矢印の代わりかしらん? 

 

 にこのような精巧なレリーフが残っています。

 

 壁の落書きが当時のラテン語をそのまま伝えているそうです。

 

 お金持ちの家。

 

 

 市場の中。
 中央の丸いスペースには円形のトンガリ屋根の建物があり、12本の円柱で支持された下水道付の水槽が設置されていたそうです。

 

 

 

 公衆浴場。
 ポンペイに三ヶ所あったそうです。
 映画「テルマエ・ロマエ」の1と2を見ましたので、イメージがわきます。
 男女別に分かれ、それぞれに脱衣所・冷水浴場・熱水浴場・温水浴場があり、床暖房まで揃っていたそうです。
 中庭は運動場となっていたそうです。

 

 

 

 

 

 水飲み場。

 

 

 町は1世紀の古代ローマ人たちの生きた生活の様子をそのまま伝えているそうです。
 爆発時の町の人口は1万人弱で、ローマ市の住民の別荘も多くあり、彼ら向けのサービスも多くあったそうです。
 大きな食物市場・製粉所・バー・レストラン・円形劇場などがあり、噴火直前までこれらが営業していたそうです。

 公衆浴場の目の前がバー。
 100軒もバーや居酒屋があったそうです。

 

 パン屋の焼き釜は、現在のピザの焼き釜と同じ形ですね。
 驚きです。
 34軒もパン屋さんがあったそうです

 

 

 

 一般の家々。

 

 

 火山灰の主成分・珪酸は乾燥剤の原料となるもので、この効果により壁画(フレスコ画)などが良い状態で残されていたそうです。
 1860年に本格的な発掘が始まったそうですが、同時に風雨による劣化が始まり崩壊の危機にさらされることになったそうです。

 2000年前の文明にひたすら感心して、ローマに戻りました。

 このツアー最後の夕食はサルティンボッカ。

 

 

 



 

 

 

 サルティンボッカ(豚肉などに生ハムを乗せた料理)。

 

 

 車窓から見た夜のテルミニ駅です。

 

 この夜はイブでした。
 すべてのTVチャンネルがパッパさまのミサを放送していました。
 パッパさまが、サン・ピエトロ寺院のプレゼビオの飼い葉桶に赤ちゃんイエスを置くシーンとミサ様子が繰り返し繰り返し流れていました。

 

 6泊めも、<ホテル プリンセス>泊です。

 7日め、帰国日の朝食は早朝のため、ボックスです。

 

 アリベデルチ・ローマ!

 

 機内1泊で、8日めに帰国しました。

 自分へのお土産は、「キャンティ(トスカーナ州のキャンティ地方で生産される軽い赤ワイン」と、「ラクリマクリスティの白(キリストの涙。キリストがサタンの仕業で荒れ果てたナポリの町を見て流した涙が落ちた所から葡萄の樹が生えて美味しいワインが生まれたという伝説から名付けられた、カンパーニャ州のヴェスヴィオ火山山麓にあり火山灰が豊富で肥沃な土地で生産されるワイン」にしました。

 プレート境界(沈み込み帯)で、マントル対流の沈み込みによって地殻が盛り上がって生成する列島は弓状に分布することが多く、島弧あるいは弧状列島と言うそうです。
 日本はこの島弧であり島弧はその生成の性質から火山弧であるそうですが、日本に似た形をしたイタリアは同様に多数の火山がありますが、それぞれの性質が多様で、島弧火山列・島弧起源とみることのできる火山もありつつ説明ができないものも多いのだそうです。
  
 これにて<イタリア旅行 ダイジェスト その2-2>終了。

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