阿羅漢の真実は空である。
空とは無、空虚、非存在を指す。
この現象世界、物や自己や心の存在は悉く煩悩の生み出した虚妄である。
この真実である空は最大の幸福である。
煩悩を離れると共に、この現象世界内の存在である一切の恐怖や苦悩から免れるからである。
(但し、厳密には、阿羅漢のみでは自己以外の衆生を救済できないという苦悩が残るので、完成された阿羅漢は菩薩へと至らなければならない。
菩薩の完成された幸福が浄土であり、その浄土の中で最大の幸福を成就(あらゆる衆生の救済を成就)したものが極楽(幸福の極まる)浄土である。ゆえに極楽は無限であり無辺無量であると言われる)
凡夫の真実は煩悩である。
煩悩とは(形而上的な)欲望であり、またそれに対する根本的な無智(無明)である。
情欲や食欲や生存欲等の現象的な欲望は、しばしば煩悩と取り違えられるが、これは煩悩の真実を矮小化して理解するものであって妥当でない。
この現象世界、物や自己や心の存在を錯覚してしまうこと自体が、既に煩悩の作用である。
菩薩の真実は般若であり誓願である。
般若は、凡夫の真実である煩悩を滅し、阿羅漢の真実である空、更には浄土へと至らせるための手段(方便)である。
般若は可能な無数の手段を含む。
般若は凡夫がその適否を判断できるような矮小なものでない。また凡夫が行使できるようなものでもない。般若は菩薩だけに許されている。
菩薩の般若を修得することは、誓願(一切衆生を救済せん、そのために一切の煩悩を断ぜん、そのために留まりなく一切の仏法を学し続けん、そのために一切の仏道を成ぜんことを誓う)によってしか成就されない。
凡夫は自分でどのように思おうとこの誓願を立てることはできない。
必ずどこかで虚偽が混じるからである。言い換えると、誓願は真実の仏の前でしか立てることが出来ないからである。凡夫は自力では仏に出会うことは叶わない。
煩悩のために凡夫に生まれ(これは現象世界内に生まれることに同義)、自力で誓願を立てることも叶わない(真実の仏に出会うことの出来ない)ものが救済(空、更には浄土、極楽)に与るには、実在の菩薩ないし仏(教証を円満した法)によらなければならない。
実在の菩薩ないし仏は、ただ名号である菩薩、仏でなければならない。それ以外の姿である菩薩、仏を見る手立てを凡夫は持っていないからである。
そしてただ名号である菩薩仏はひとり阿弥陀仏のみである。阿弥陀仏はその十八願、十一願、二十二願で一切衆生を最高の救済に至らしめることを誓いつつ、重ねて十七願で修行成就の際には名号の姿を取られることを誓われた。
故に凡夫はただ弥陀の名号によってのみ救済に至るのである。
空とは無、空虚、非存在を指す。
この現象世界、物や自己や心の存在は悉く煩悩の生み出した虚妄である。
この真実である空は最大の幸福である。
煩悩を離れると共に、この現象世界内の存在である一切の恐怖や苦悩から免れるからである。
(但し、厳密には、阿羅漢のみでは自己以外の衆生を救済できないという苦悩が残るので、完成された阿羅漢は菩薩へと至らなければならない。
菩薩の完成された幸福が浄土であり、その浄土の中で最大の幸福を成就(あらゆる衆生の救済を成就)したものが極楽(幸福の極まる)浄土である。ゆえに極楽は無限であり無辺無量であると言われる)
凡夫の真実は煩悩である。
煩悩とは(形而上的な)欲望であり、またそれに対する根本的な無智(無明)である。
情欲や食欲や生存欲等の現象的な欲望は、しばしば煩悩と取り違えられるが、これは煩悩の真実を矮小化して理解するものであって妥当でない。
この現象世界、物や自己や心の存在を錯覚してしまうこと自体が、既に煩悩の作用である。
菩薩の真実は般若であり誓願である。
般若は、凡夫の真実である煩悩を滅し、阿羅漢の真実である空、更には浄土へと至らせるための手段(方便)である。
般若は可能な無数の手段を含む。
般若は凡夫がその適否を判断できるような矮小なものでない。また凡夫が行使できるようなものでもない。般若は菩薩だけに許されている。
菩薩の般若を修得することは、誓願(一切衆生を救済せん、そのために一切の煩悩を断ぜん、そのために留まりなく一切の仏法を学し続けん、そのために一切の仏道を成ぜんことを誓う)によってしか成就されない。
凡夫は自分でどのように思おうとこの誓願を立てることはできない。
必ずどこかで虚偽が混じるからである。言い換えると、誓願は真実の仏の前でしか立てることが出来ないからである。凡夫は自力では仏に出会うことは叶わない。
煩悩のために凡夫に生まれ(これは現象世界内に生まれることに同義)、自力で誓願を立てることも叶わない(真実の仏に出会うことの出来ない)ものが救済(空、更には浄土、極楽)に与るには、実在の菩薩ないし仏(教証を円満した法)によらなければならない。
実在の菩薩ないし仏は、ただ名号である菩薩、仏でなければならない。それ以外の姿である菩薩、仏を見る手立てを凡夫は持っていないからである。
そしてただ名号である菩薩仏はひとり阿弥陀仏のみである。阿弥陀仏はその十八願、十一願、二十二願で一切衆生を最高の救済に至らしめることを誓いつつ、重ねて十七願で修行成就の際には名号の姿を取られることを誓われた。
故に凡夫はただ弥陀の名号によってのみ救済に至るのである。
阿羅漢及び凡夫についての御考察、大変に参考になります。どうしても曹洞宗の場合ですと、道元禅師が『正法眼蔵』「阿羅漢」巻にて、「阿羅漢を称して仏地とする道理をも参学すべし。仏地を称して阿羅漢とする道理をも参学すべきなり。」とされるため、自己以外の救済などという問題にならないのですが、本来は管理人様ご指摘のようなものであることも理解しているつもりです。
また、形而上学的な欲望という解釈を含め、まさに真宗様が立たれる確固たる凡夫の自覚を見た想いがいたしました。勉強になりました。ありがとうございます。