amita_gate's memorandum

その日読んだ本やサイトのメモ

二僧巻簾

2005-09-28 23:31:47 | 真宗についてのメモ
無門関 第二十六則 二僧巻簾
清涼の大法眼、因みに僧齋前に上參す。眼、手を以て簾を指す。時に二僧有り、同じく去って簾を巻く。眼曰く、「一得一失。」

無門曰く、「且く道え、是れ誰か得、誰か失。若し者裏に向って一隻眼を著け得ば、便ち清涼國師敗闕の處を知らん。是の如くなりと然雖も、切に忌む得失裏に向って商量することを。」

頌に曰く、
巻起すれば明明として太空に徹す、太空すら猶お未だ吾宗に合わず。
爭でか似かん空より都べて放下して、綿綿密密、風を通ぜざらんには。
(以上テキストhttp://www.shomonji.or.jp/soroku/soroku.htm松門寺HPから)


仏法とは「一得一失」であるという。
何を得、何を失うのだろうか?何も得るものがなく、何も失うものがなくても、「一得一失」である。

「一得一失」は、いついかなる時も疑い得ない真実である。
因果に囚われている現象的事実を指すものではない。因果を断つ法の言葉として、不変の真実である。
仏陀とは単に覚った人ではない。真理により衆生を覚らせる力を行使される方である。(仏にそのような神力がないとすれば、それは大乗の仏ではない。)
覚りとは知識でも気付きでも知覚の変化でもない。因果を断ち、生死の輪廻を離れさせる仏の力である。

仏陀として法眼禅師は、無明に迷う衆生のために真理の法を口にされた。
「一得一失」
あらゆる衆生はこの仏語を拠りどころとすべきである。
仏の言葉を真実と頂くとき、衆生はもはや迷いの輪廻から遠く連れ出されている。

不思議と法

2005-09-28 05:55:12 | 真宗についてのメモ
大乗仏教というのは、不思議な世界観を持っている(厳密には大乗に限られるものでもないのだろうが)。

まず、この娑婆世界以外にも、無数の世界があり、それぞれの世界に仏菩薩がいて衆生を救済されているという。

また、釈尊は、単に煩悩を滅した人(阿羅漢)ではなく、衆生救済のために諸々の神力(神通力)を身に付けられた方であるという。
またそれと同じような神力を持っている菩薩が世におられて、やはり衆生を救済されている。
そして、それと同じような神力を、修行によって自分も身に付け(誰でも修行により神力を持った菩薩となり)、自在に衆生救済に向かうことができるようになるという。

また輪廻転生ということが説かれる。人はひとたび生まれ、死ぬというだけでなく、自らの行いによって、生まれ変わり死に変わりを、永劫に繰り返しているという。
そしてこの輪廻の苦を離れるのが仏教の目的の一つである(大乗では、それに加えて菩薩となることが重要である)。


無数の世界、神通力、輪廻転生。
これだけでも、日常生活からははるか遠い世界のお話のように思われる。
神話(正確には、仏説であるから神話ではないが)とはそういうものだ、と思って、広い心で聞かなければなかなか聞いていられるものではない。

信じろといわれて、信じきれるものでもない。
大方、その時々で都合のよい部分だけを切り取って、つじつまを合わせているというのが実際のところである。



しかし、仏説の一部分だけを用い、一部分を用いないというのは、仏説に対する不信である。
「いかなるをか名づけて聞不具足とする。如来の所説は十二部経なり、ただ六部を信じていまだ六部を信ぜず、このゆえに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受持すといへども、読誦にあたはずして他のために解説するは、利益するところなけん。このゆえに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受けをはりて、論議のためのゆえに、勝他のためのゆえに、利養のためのゆえに、諸有のためのゆえに、持読誦説せん。このゆえに名づけて聞不具足とす」(涅槃経(迦葉品)、教行信証信巻)

大乗仏典はあまりに大部で、相互に矛盾に満ちているように見える。一方を立てればあちらが立たない。整合性を得られるように解釈しようとしてもどこかで齟齬が出る。
私達には、仏説全てを信じようが無い。だから仕方ないのだと言いつつ、仏説を取捨選択をする。だがそれが仏説に対する不信であることには変わりない。

私達には、仏を信じることは出来ないのだろうか。


親鸞聖人は、これらを問うた上で、いや、それでも仏を信じることは出来る、とされた。

なぜなら、「南無阿弥陀仏」の六文字があるからである。


仏の方よりすれば、衆生が仏説を信じられないのは、衆生の無明の故ということになる。


大乗の仏菩薩が真実に在すなら、その衆生の無明を破るために手を尽くされているはずである。
自分の影を自分で飛び越すことはできない。
衆生が無明の知恵で経文を読み、無明の心で行を積んでも、無明の闇を無明で上塗りしているようなものである。何か分かった、得られたというのは、錯覚(言うなれば、ある無明を別の無明で置き換えた)に過ぎない。

もし、無明を破るために、仏菩薩が衆生の手元まで届けられた、間違いようのない言葉(法)があるのならば、それに従うべきである。

浄土教の祖師(菩薩)たちは、釈尊が教えられた、その過ちようのない言葉を、「南無阿弥陀仏」の六文字だと仰った。
南無阿弥陀仏は、わずか六文字であれば間違うはずもなく、如来の方よりの回向であれば、信も備えていないはずが無い。

弥陀の願力を信じて念仏すれば即の時に往生する(輪廻を離れ、大乗の菩薩となる)。

「あなたは涅槃を信じますか?」

2005-09-21 21:10:30 | 真宗についてのメモ
全ての大乗仏教の究極問題は、涅槃と大乗である。
全ての因果を断ち、あらゆる苦しみを離れた境地(涅槃)が実在しなければ、真に救いと言えるものはなくなってしまう。
衆生を涅槃へ導き、また涅槃へ至った者が更に他の衆生を涅槃へ導き続けるような、そうした法(大乗)が実在しなければ、真に万人の救いと言えるものはなくなってしまう。

(まず涅槃について)私達は涅槃を信じているだろうか。

仏教において涅槃は様々に理解される。
例えば単にあるがままを受け入れるのが涅槃だという人もいる。或いは一切のとらわれを離れた境地が涅槃だという人もいる。ネガティブ思考を脱して全てポジティブに発想していけるようになるのが涅槃だという人もいる。埋もれていた生命力を呼び起こし発揮させるのが涅槃だという人もいる。大宇宙と一体化するのが涅槃だという人もいる。

浄土教の立場はこれらの涅槃とは異なる。
涅槃とは阿弥陀仏のお覚りのことである。即ち極楽浄土のことである。

一人一人が見つけ、一人一人が独自に開いていくような、そうした個別の涅槃ではない。念仏する全ての衆生が等しく、同じ場所へ入っていく、そうした涅槃である。
(「彼の安楽国土は、是れ阿弥陀如来正覚浄華之化生する所に非ざるは莫し。同一に念仏して別の道無きが故に、遠く通ずるに夫れ四海之内皆兄弟と為すなり。眷属無量なり、焉ぞ思議す可きや」(浄土論註、教行信証証巻))

仏教の概念に、身体・心・世界はみな自らの業によって生まれているのだという考えがある。
これらを全て離れなければ涅槃ではない。
またこれらが全て自在となる神力を持たねば大乗の菩薩ではない。

親鸞聖人の著述によれば、浄土の心は、穢土の心とはまるで異なるものである。それは「金剛心」であり、弥陀仏と共にあるために決して壊れることのない堅い心である。またこれは、仏となることを願う心(「願作仏心」)である(穢土にいてその生活に溺れながら真に作仏を願うことは出来ない。真の願作仏心は浄土においてのみ可能な心である)。弥陀仏から廻施された願作仏心であるために、「横の大菩提心」とも呼ばれる。(教行信証信巻参照)

浄土での身体も、当然穢土のそれとは異なる。それは無為法身と呼ばれ、真実の相(実相)であって、穢土での身体のように色形にとらわれないものである。真実であるから一つ(一如)であって、人毎に異なるようなこともない。
(「・・・煩悩成就の凡夫・・・、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。・・・ゆえに、かならず滅度に至る。・・・これ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相は・・・真如・・・真如はすなはちこれ一如なり」(教行信証証巻)
「かの仏国土・・・の声聞・菩薩・天・人、・・・ことごとく同じく一類にして、形異常なし。・・・容色微妙にして天にあらず、人にあらず。みな自然虚無の身、無極の体を受けたるなり」(大無量寿経、教行信証証巻))

そして、浄土の世界は、限りなく光り輝く「無量光明土」である。
(「たとひわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ」(第十二願)
「阿難・・・面を西にして、恭敬し合掌して、五体を地に投げて、無量寿仏を礼したてまつりてまうさく、「世尊、願はくはかの仏・安楽国土、およびもろもろの菩薩・声聞の大衆を見たてまつらん」と。
この語を説きをはるに、即時に無量寿仏は、大光明を放ちてあまねく一切諸仏の世界を照らしたまふ。・・・一切のあらゆるものみな同じく一色なり。たとへば劫水の世界に弥満するに、そのなかの万物、沈没して現れず、滉瀁浩汗としてただ大水をのみ見るがごとし。かの仏の光明もまたまたかくのごとし。
声聞・菩薩の一切の光明、みなことごとく隠蔽して、ただ仏光の明曜顕赫なるを見たてまつる」(大無量寿経))

それは涅槃の世界そのもののようであり、
(「「かの仏国土は、清浄安穏にして、微妙快楽なり。無為泥恒の道に次し」(大無量寿経))

そうでありながら、自分だけでなく、その光明に包まれた全ての者をも解脱させる世界である。
(「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」(第十一願)
「それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍し善心生ず。もし三塗勤苦の処にありて、この光明を見れば、みな休息を得てまた苦悩なけん。寿終へてののち、みな解脱を蒙る」(大無量寿経))

また、浄土に至った時には、もはや娑婆での業に引き回されることはない。
(「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、寿終りてののちに、また三悪道に更らば、正覚を取らじ」(第二願)
「かならず超絶して去つることを得て、安養国に往生して、横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ぢん」(大無量寿経)
「断といふは、往相の一心を発起するがゆゑに、生としてまさに受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。すでに六趣・四生、因亡じ果滅す。ゆゑにすなはち頓に三有の生死を断絶す・・・四流とはすなはち四暴流なり。また生・老・病・死なり」(教行信証信巻)
「・・・凡夫の生死貪じて厭はざるべからず。弥陀の浄土軽めて欣はざるべからず。厭へばすなはち娑婆永く隔つ、欣へばすなはち浄土につねに居せり。隔つればすなはち六道の因亡じ、輪廻の果おのづから滅す」(般舟讃、教行信証信巻))


このように、極楽浄土は、身・心・世界・業ともに、娑婆を離れた涅槃の世界である。
涅槃である浄土がなければ救済はない。

私達は、涅槃を信じているだろうか。

念仏と不安(2)

2005-09-21 06:45:01 | 真宗についてのメモ
またこうも言う。
「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」
「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。・・・詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし」(いずれも歎異抄第二段)
濁世の凡夫である以上、永きに亘って苦しみから逃れられないことは(地獄に落ちることは)最初から定まっている。もしも、念仏の法が空しいものであったとしても、最初から決まっていたその苦しみのなかに留まり続けるだけのことである。
法然上人は、ただ念仏によって弥陀に救って頂きなさいと仰った。
念仏の法は弥陀の誓願、それを説いた釈尊、注釈した善導、広められた法然上人が、本当に確かなことだと保証されたこと。弥陀、釈尊、善導、法然の言葉が、どれか一つでも空しいということがあるだろうか。

何も失うものは無い、仏教に従うならば素直に仏説である念仏の法を信ずればよい、と。

また言う。
「〈この河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きはめてこれ狭少なり。二つの岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死せんこと疑はず。・・・到り回らんと欲へば、群賊・悪獣、漸々に来り逼む。・・・南北に避り走らんとすれば、悪獣・毒虫、競ひ来りてわれに向かふ。・・・西に向かひて道を尋ねて去かんとすれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せん・・・>。時にあたりて惶怖することまたいふべからず。
すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。

この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん・・・〉と。また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と」(観経疏散善義、教行信証信巻)

四方を危険に囲まれて絶体絶命の時である。危険な川に狭い道が一本だけある。ここを渡らなければ死んでしまうのは目に見えている。渡っても川に落ちて死ぬかもしれない。とはいえ他に道は無い。
「どちらにせよ死ぬのだ。それならば、この道を辿ってみよう」
そう思い立ったとき、こちらの岸から釈尊が後押しし、向こうの岸から阿弥陀仏がお前を守るぞと呼ばうのを聞いた。

弥陀・釈迦の声に従うならば、いかにか細く見えようとも、どうして念仏の道を渡らないことがあろうか、と。


「帰去来(いざきなん)、魔境には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。到るところに余の楽しみなし。ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢へてのち、かの涅槃の城に入らん」(観経疏定善義、教行信証証巻)
永劫の輪廻の中で娑婆の苦はことごとく味わってきた。そこにあるのは苦しみばかりであった。
魔境である娑婆を離れ、浄土へと往こう。
この最後の生の尽きた後、涅槃の国である極楽浄土へと入るのだ。
こう善導大師、親鸞聖人は仰っている。

先師達は念仏する者に、このような懇ろな励ましを与えている。
このような先師達の声は、念仏を保ち続けよ、という弥陀の勅命である。
「『安楽集』にいはく、「真言を採り集めて、往益を助修せしむ。いかんとなれば、前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ、連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり」と。
しかれば末代の道俗、仰いで信敬すべきなり、知るべし。」(教行信証後序)

念仏と不安(1)

2005-09-21 06:41:20 | 真宗についてのメモ
浄土往生のためには、

・極楽浄土が実在していること
・阿弥陀仏が実在していること

が信じられていなければならない。

また、
・弥陀の誓願どおり、上を信じて素直に念仏申せば速やかに極楽往生の叶うということ

も信じられていなければならない。


しかし、納得して信じて念仏申しているはずなのに、一向に不安が収まらないのはどうしたことか。

ある意味それは当たり前である。
阿弥陀仏も浄土も昔の経典作者が作ったフィクションなのだから、と、そう思う心が必ずどこかにある。
架空のものであると思っているものを頼りにしようとて、不安が収まることはない。
無理に信じ込もうとしても、また道に迷うだけのことである。

「しかるに称名憶念することあれども、無明なほ存して所願を満てざるはいかんとならば、実のごとく修行せざると、名義と相応せざるによるがゆゑなり。いかんが不如実修行と名義と相応せざるとする。いはく、如来はこれ実相の身なり、これ物のための身なりと知らざるなり。
また三種の不相応あり。一つには信心淳からず、存せるがごとし亡ぜるがごときのゆゑに。二つには信心一ならず、決定なきがゆゑに。三つには信心相続せず、余念間つるがゆゑに。」(浄土論註、教行信証信巻)

こうした不安に陥った者は、どのように念仏の心を保てば良いのか。

「この五濁・五苦等は六道に通じて受けて、いまだなきものはあらず。つねにこれに逼悩す。もしこの苦を受けざるものは、すなはち凡数の摂にあらざるなり」(観経疏序文義、教行信証信巻)

このように色々障りがあって素直に念仏を信じられないのも、濁世である娑婆に、凡夫として生まれたからこそ受ける苦なのだ。そして、

「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと・・・親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」(歎異抄第九段)
親鸞聖人もその疑問があったという。
弥陀の本願を聞けば喜びに満ち溢れて信楽するはずである。ところが喜びの心も起こってこないのはどうしたことか。不安の収まらないのは一体どうしたことか。

親鸞聖人はそんなとき、こう思ってみてはどうかという。
「よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。
よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」
「いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと」(歎異抄第九段)
弥陀の本願さえも喜べないのは、いよいよ自分が、障りの多く煩悩の盛んな、濁世の凡夫だということである。
ところが弥陀はその濁世の凡夫のために本願を立てられた。それはつまり、本願に出会っても喜びを感じられず、不安から逃れられない私たちこそが、濁世の凡夫として、まさに弥陀の誓われた本願の対象そのものなのだということである。
不安に思うことはない。私は本願を信じられていないのでは、というその不安こそが、逆に、往生決定の証拠なのだ、と。

自分の信に自信を持つことの出来ない凡夫の心をよく突いた励ましである。

この親鸞聖人の言葉がなければ、とにかく不安を押し殺してひたすら信じよ、という、自力の称名ばかりが残って、他力本願の意が世に伝えられなかったかもしれない。

不信でしかいられないのが人である。けれども、その間も、弥陀の全ての凡夫を往生させるぞという大悲は異なることはない。
「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつるにあたはずといへども、大悲、倦きことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」(往生要集、教行信証信巻)

浄土教

2005-09-20 06:58:08 | 真宗についてのメモ
釈迦族の王子、ゴータマ・シッダールタは、王城を捨て、6年の苦行を経て、ついに菩提樹の下で悟りを開かれた。

「生死は苦である。だが私は生死の原因(煩悩)を滅ぼした。私はもう生まれ死にすることはない」とお喜びになった。

その後40年に亘って各地を遊行し法を説き、衆生を救済し続けた。そしてとうとう涅槃に入られた。
涅槃とは、生死のことごとく(体、心、世界、業)から離れた無為の境である。全き空であり、苦しみからの完全な解脱である。

しかし、釈尊が涅槃に入り、生死を離れられてしまったために、娑婆に残された者たちは釈尊の救済に逢うことが出来なくなってしまった。

釈尊が涅槃に入られた後、衆生の救済は、釈尊と等しいか、それ以上の救済の力を持った大乗の菩薩達に委ねられた。
大乗の菩薩は、一切衆生を救済しようとの大願を立て、涅槃に入ることなく娑婆に留まり続けて、非常な神通力を持って数限りなく衆生を救済し続けていく。
その神通力の広大さは、数々の大乗経典に説かれている。

大乗仏教は、この大乗の菩薩となるための宗教である。

しかし、実際に娑婆に生まれた凡人が、この菩薩の道を修行し大乗の菩薩となるのは困難を極めた。
釈尊のように煩悩を滅し涅槃へ入ることさえ一大事であるのに、それを更に越えて、この娑婆に留まって全ての衆生を救済し続ける神通力を得なければならない。
実際には、そうした者は娑婆に生まれた者からは現れなかった。

この理由を説明するものとして、末法思想がある。
修行者の資質の優れた世界では大乗の菩薩となるのも容易いが、仏(釈尊)の在世を遠く離れ、修行者の資質も劣った娑婆世界では、大乗の菩薩となる法は示されていても、その道を実際に修行し成果を得ることは出来ない、という。

それでは、そうした資質の劣った娑婆世界の者は、どうしたら良いのか。

釈尊はそのための教えを残されていた。それが浄土教である。

「私が涅槃に入った後、無仏の時代、あなたたちは、娑婆を遠く離れた別の世界で法を説き続けられている仏の所へ、そしてその中でも最も優れた阿弥陀仏の御許に向かいなさい」
「阿弥陀仏は、自らの世界へ来た者全てが、涅槃と、また大乗の菩薩となることを得られるよう誓われて、その世界をお造りになったのです」
「その世界の名を、極楽浄土という」

仏が現に在し、またその仏自身が、そこへ来た者は大乗の菩薩となれると約束している世界。娑婆を離れ、そこで大乗の菩薩となって願いを果たす。これが、末法である娑婆の衆生に、釈尊の示された教えであった。

「極楽浄土は涅槃の境のようである。この上なく美しく光り輝いて全ての衆生を教化しており、果ても終わりも無い(娑婆での釈尊の寿命のように終わってしまうということはない)」

釈尊は、更に懇ろに、極楽浄土へ行くための方法も説き示された。
「心から、極楽浄土へ生まれたいと思い、そこへ生まれられることを信じ喜んで、阿弥陀仏の名を称えるならば、皆極楽浄土に生まれる」
「阿弥陀仏はこのように誓われて仏となられたのです。躊躇うことはありません。素直にこのお誓いを信じ喜びなさい」
「阿弥陀仏は、ご自身の名に、その修行と徳の全てを込められた。資質の劣った娑婆世界の者でも、極楽浄土へ生まれ、涅槃や大乗の菩薩となることを得たいと思うことが出来るのは、阿弥陀仏の御名があってのことです。その思いを頂き、その思いを下さった阿弥陀仏の御名に、そのまま帰依(南無)すれば、速やかに阿弥陀仏の世界へと導かれるのです」

輪廻と仏教

2005-09-19 13:16:08 | 真宗についてのメモ
輪廻を否定して仏教が成り立つだろうか。

人はどうしてこの娑婆に生まれてくるのか。人はどうしてこの娑婆で死んでいくのが。それに宗教的な解答を与えようとしたのが輪廻の概念であると思う。

人は自らの行いによって、生まれてくる。人は自らの行いによって、死んでいく。

短期的に見ればつじつまの合わないこと(例えば、あの人はとても善人だったのに苦しんで死んだ、こちらの人は大悪人であったのに好きなことをして長生きした)であっても、永劫にわたる輪廻の中ではどれも然るべくして起こったことである(と説明される)。


仏教の根本真理の一つに、苦諦がある。生存は苦である。死ぬことは苦である。人間を含む衆生の生死の営みは、ことごとく苦である。

苦というのは、「思うようにならない」ということである。
思うようにならないのは、単に自分の意思で左右できない・左右することがままならない、ということには留まらない。なぜなら、自分以外のものを自由に出来ないのはある意味当然のことであって、あえて苦諦という真理を立てるまでのこともないから。

苦諦が真理であるのは、業による縁起の鉄の法則があってこそのことである。
他人のせいにすることは出来ない。周りの環境のせいにすることは出来ない。ことごとく、自分の行いが自分に帰ってきているというのが業の縁起である(自業自得)。真に思うようにならないのは、他人でも環境でもない。それは自分自身である。

「自分自身は、まるで思うようにならない」
これが苦諦という真理である。


そして自分自身を、最も簡潔な形で言い表すなら、即ち生死である。

自分自身は、生まれることも死ぬことも思うようにならない。
これは業の縁起のためである。生まれることも思うようにならないのは、生まれる以前の業の縁起があるからである。死ぬことも思うようにならないのは、生まれる以前の業の縁起があるからである。

生死である自分自身が思うようにならないのは、以前の生における業の縁起、つまり輪廻を前提としている。


「誰それが誰それに生まれ変わった」とか言うと胡散臭いことこの上ないが、それぞれの個人が、然るべき必然性を持って生まれ、死んでいっているのだ、という輪廻の概念を、浅薄なイメージのみでもって仏教から切り離し捨て去ってしまうのは、いささか乱暴な気がする。
(生死を含む物事が、偶然に、理由無く存在しているのだ、としてしまうと、仏教と似て非なるとされるニヒリズムになってしまいはしないだろうか。)

南無阿弥陀仏

2005-09-19 11:56:06 | 真宗についてのメモ
南無阿弥陀仏がどうして素晴らしいかの理由は、あまり身近な形では説かれない。

速やかに浄土に渡して悟りを得させてくれるから巣晴らしい
念仏すれば現世でも諸仏・諸菩薩・諸天が守ってくれるから素晴らしい

どうも日常生活とはかけ離れた理由ばかりで、実感しにくいのが実際のところである。

南無阿弥陀仏の何処に、素晴らしさ(喜び)を感じるかは、一人一人の縁にゆだねられている。
ひとたび素晴らしさを感じれば、聞法により他力本願の真実を知っていけばよい。
ということだろうか。

私は、浄土は美しいから、素晴らしいと思う。
多分、その美しい浄土と関わりを持ちたくて、南無阿弥陀仏と口にする。

私自身のつまらぬ考えや理屈付けがどうであれ、南無阿弥陀仏の六文字を通して他力の本願は働いてくださっている。