amita_gate's memorandum

その日読んだ本やサイトのメモ

念仏と布教

2006-01-20 21:16:11 | 真宗についてのメモ
「念仏をさへらるなんど申さんことに、ともかくもなげきおぼしめすべからず候ふ。念仏とどめんひとこそ、いかにもなり候はめ、申したまふひとは、なにかくるしく候ふべき。余のひとびとを縁として、念仏をひろめんと、はからひあはせたまふこと、ゆめゆめあるべからず候ふ。そのところに念仏のひろまり候はんことも、仏天の御はからひにて候ふべし。」(親鸞聖人御消息http://www.access-jp.net/seiten/index.php?chu%2F%E6%B6%88%E6%81%AF(21))

「余のひとびとを縁として、念仏をひろめんと、はからひあはせたまふこと、ゆめゆめあるべからず候ふ」
念仏に布教は不要である。念仏を頂くことこそが、自他を助けることなのだから。
「念仏とどめんひとこそ、いかにもなり候はめ、申したまふひとは、なにかくるしく候ふべき」
あなたが念仏を止めてしまったなら、皆の救いもなくなってしまうが、あなたが念仏を頂き続けるなら、何を困る必要があろうか。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄後序http://www.access-jp.net/seiten/index.php?chu%2F%E6%AD%8E%E7%95%B0%E6%8A%84
あなたが念仏を頂くかどうかに、全ての衆生の救済がかかっている。

南無阿弥陀仏の真仏土は、無量光明土である。
「この如来は光明なり、光明は智慧なり、智慧はひかりのかたちなり、智慧またかたちなければ不可思議光仏と申すなり。この如来、十方微塵世界にみちみちたまへるがゆゑに、無辺光仏と申す。」(一念多念文意http://www.access-jp.net/seiten/index.php?chu%2F%E4%B8%80%E5%A4%9A
衆生の知恵は分別であって有限である。限られた対象しか救わない。
けれども無量光明土は、そのような限りを持たない智慧である。全ての衆生を救い取る。

「智慧の光明はかりなし
 有量の諸相ことごとく
 光暁かぶらぬものはなし
 真実明に帰命せよ」
「解脱の光輪きはもなし
 光触かぶるものはみな
 有無をはなるとのべたまふ
 平等覚に帰命せよ」
「光雲無碍如虚空
 一切の有碍にさはりなし
 光沢かぶらぬものぞなき
 難思議を帰命せよ」
(讃阿弥陀仏偈和讃。寺子屋ネット/浄土真宗本願寺派蓮浄寺経典・聖教データ中http://www.terakoya.com/seiten/seiten.cgi?c0553

「光暁かぶらぬものはなし」「光沢かぶらぬものぞなき」「平等覚に帰命せよ」
真宗、本願とは、私だけ、あなただけ、特定の誰かとだけ等、限られた者とだけ(=自力)でなく、全ての衆生(一人漏らさず)と一緒に(平等に)往生する(=還相回向、他力)ということである。

勝他・利養・名聞

2006-01-20 21:06:10 | 真宗についてのメモ
法然上人に弟子入りした鎮西の聖光坊が、地元へ帰ろうとして法然上人に暇乞いに行った際の逸話。

「両三年ののち、あるときかご負かきおいて聖光坊、聖人の御前へまゐりて、「本国恋慕のこころざしあるによりて鎮西下向つかまつるべし、いとまたまはるべし」と申す。すなはち御前をまかりたちて出門す。聖人のたまはく、「あたら修学者が髻をきらでゆくはとよ」と。その御声はるかに耳に入りけるにや、たちかへりて申していはく、「聖光は出家得度してとしひさし、しかるに髻をきらぬよし仰せをかうぶる、もつとも不審。この仰せ、耳にとまるによりてみちをゆくにあたはず。ことの次第うけたまはりわきまへんがためにかへりまゐれり」と云々。
 そのとき聖人のたまはく、「法師には三つの髻あり、いはゆる勝他・利養・名聞これなり。この三箇年のあひだ源空がのぶるところの法文をしるし集めて随身す。本国にくだりて人をしへたげんとす、これ勝他にあらずや。それにつけてよき学生といはれんとおもふ、これ名聞をねがふところなり。これによりて檀越をのぞむこと、詮ずるところ利養のためなり。この三つの髻を剃りすてずは、法師といひがたし。よつて、さ申しつるなり」と云々。
 そのとき聖光房、改悔の色をあらはして、負の底よりをさむるところの抄物どもをとり出でて、みなやきすてて、またいとまを申して出でぬ。」
(口伝鈔第九段。寺子屋ネット/浄土真宗本願寺派蓮浄寺経典・聖教データ中http://www.terakoya.com/seiten/seiten.cgi?c0869より)

柔和な人柄として知られる法然上人だが、別にその信仰までが柔なものであったわけではない(仏教は人の人柄の都合で変えられるようなものでない)。信仰にかける眼差しは深く鋭い。
信仰者である限り、法然上人のこの言葉にまともに答えることは不可能である。衆生が宗教(それ以外についても当てはまるけど)に関わる限り、勝他・利養・名聞を願わないことなどないのだから。

法然上人の仰っていることがどれだけ普通とかけ離れたことかを見るには、(多かれ少なかれ)社会の現実とされている「生存競争」「競争社会」等の観念と並べてみると良い。こちらにおいては、他に勝ち、利養を得、名声を獲得するのが生の目的であり良き生である。

仏道には自尊心(勝他・利養・名聞)は不要である、と法然上人は言われる。

親鸞聖人も同旨のことを正像末和讃で詠われる。
(以下引用はいずれも、寺子屋ネット/浄土真宗本願寺派蓮浄寺経典・聖教データ中http://www.terakoya.com/seiten/seiten.cgi?c0600より)

「僧ぞ法師のその御名は
 たふときこととききしかど
 提婆五邪の法ににて
 いやしきものになづけたり」

僧と言い仏教と言って尊い素振りをするが、実際のところは五逆の提婆達多(仏を押しのけ、自分が最高指導者になろうとした)と何ら変ることがない。仏法を尊んでいるつもりで、事実は自らを尊び自他に加害して仏法を損なっているのである。

「外道・梵士・尼乾志に
 こころはかはらぬものとして
 如来の法衣をつねにきて
 一切鬼神をあがむめり」
「かなしきかなやこのごろの
 和国の道俗みなともに
 仏教の威儀をもととして
 天地の鬼神を尊敬す」

外観は仏教徒であるが、実際に尊崇しているのは道から外れた心である。
仏法の名を借りて、煩悩のままに自分の好きなことを語り、他を非難して、自分自身や我(=鬼神)を尊んでいる。
(外道とは他人のことではない。自分の普段の姿がそのまま外道なのだ)

自尊心で生きてどうするというのか、という法然上人の問いかけに、親鸞聖人はこう応えられている。
「是非しらず邪正もわかぬ
 このみなり
 小慈小悲もなけれども
 名利に人師をこのむなり」
仰るとおりです、返す言葉もありません、ということだろうか。

しかし、衆生には、本当の意味で自尊心を投げ捨てることも、自尊心を持っていることを悔いることさえもできない。
「悪性さらにやめがたし
 こころは蛇蝎のごとくなり
 修善も雑毒なるゆゑに
 虚仮の行とぞなづけたる」
反省や懺悔の行すら虚仮の行いである。

だから、
「蛇蝎奸詐のこころにて
 自力修善はかなふまじ
 如来の回向をたのまでは
 無慚無愧にてはてぞせん」
衆生が真に自らを羞じ、懺悔することができるのは、他力の回向によってのみである。
念仏以外に真実の懺悔はない。真実の心はない。
念仏以外に生を羞じそこから抜け出させる道はない。

自尊心 虚仮と生

2006-01-20 12:49:47 | 真宗についてのメモ
衆生の本質は衆生への加害である。
実力や権力や権威を楯に自他へ加害する。
当人がそれと意識していなくても、「自分だけが支配者でありたい」「自分だけが正しくありたい」というのが本音である。

これはどんなに着飾っていても変らない。
例えどんなに必要であっても、仕方のないことであっても、正しいことであっても、加害をしそれを望む心があることには変りがない。
それが苦である。衆生である以上これを免れ得るものは一つもない。

「私は何も悪いことはしていない」「私は正しい見解を持っており相手が間違っている」「私は人と違って反省し努力する心を持っている」「私だけが苦しんでいる」「私は良く考えておりきちんとした根拠も持っているが私と違う意見の人は表層的な見解しか持たず迷妄に振り回されている」
心は常に虚仮を呟く。

自分も他人も思い通りにしたい。
立派な自分が愚かな他人を訓導したい。
相手をやっつけたい。自分は無事に生き残りたい。

人より優れていたい。人に褒められ認められたい。
人から認められ負い目のない生活をしたいという「つつましい」欲望も、この加害欲と裏表で本質においては変りがない。


衆生の本質は自尊心である。
他から攻撃され、貶され、非難され、迫害されて、傷つきぼろぼろになる。
他を攻撃し、貶し、非難し、迫害して、傷つけぼろぼろにする。
そんな生をそれでも生き続けている。それが生である。
様々な形を変えた名目で、いつまでも無数に衆生は迫害し迫害され続ける。

「私だけは違う」
「私は」
「私は」

大乗ということ

2006-01-19 07:06:14 | 真宗についてのメモ
本願は他力であるがために、一切衆生を同時に救済する。それ故勝義に「大乗(大きな乗り物)」であり、「一乗(一つの乗り物)」と呼ばれる。
一人ずつの個別の救済ではない。自分が先に往生や成仏してその後で布教して救う(=自力)のとは原理的に異なる。

「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」(第十九願)
これは個別の成仏なので、自力の聖道門と呼ばれる。

「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ」(第二十願)
これは個別の往生なので、自力の念仏と呼ばれる。

一人ずつ歩まねば救済されない(=自力)のは限られた救いである。
私が成仏してもあなたは成仏していない。
私が往生してもあなたは往生していない。
あなたが成仏しても私は成仏していない。
あなたが往生しても私は往生していない。
これでは、大乗仏教と名づけられていても、本当の意味で大乗(大きな乗り物)と呼ぶことは出来ない。

そもそも仏教は無我を原理とする。
自他を区別されたままなのは真の仏道ではない。

全ての衆生の同時の救済が大乗である。
「万行諸善の小路より 
本願一実の大道に 
帰入しぬれば涅槃の 
さとりはすなわちひらくなり」
(高僧和讃。http://www.icho.gr.jp/seiten/index.htmlhttp://www.icho.gr.jp/seiten/html/494.htmlより)
一人一人遅々として歩まねばならない、決して達せられることのない狭い道ではなく、全ての衆生を一人漏らさず同時に(=すなわち)成仏すべき地位に至らせる広大な船が本願の大道である。

これは、往還の回向によってしか叶わない。

「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」(第十八願)
「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」(第十一願)
「たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ」(第二十二願)

十一願(往相)と二十二願(還相)と十八願(信)は、如来が選び取られた本願であって一つのものである。
この三つは同時であり、名号(十七願)において回向されている。

「仏智不思議をうたがいて
善本徳本たのむひと
辺地懈慢にうまるれば
大慈大悲はえざりけり」
(正像末和讃。http://www.icho.gr.jp/seiten/index.htmlhttp://www.icho.gr.jp/seiten/html/506.htmlより)

往還を別々に考えるのは虚仮となる。
これらを切り離して片方のみを取り出すのは、仏智への疑惑でしかない。
それは大悲を知らないことである。
(ある者が救われないことを許容し、或いはそれを知ってか知らずか願ってしまうのが、仏であり得ない衆生の弱さであり悪である)

「仏智うたがうつみふかし
この心おもいしるならば
くゆるこころをむねとして
仏智の不思議をたのむべし」
(正像末和讃。http://www.icho.gr.jp/seiten/index.htmlhttp://www.icho.gr.jp/seiten/html/507.htmlより)

仏教

2006-01-19 06:36:15 | 真宗についてのメモ
「如来の誓願を信ずる心の定まるときと申すは、摂取不捨の利益にあづかるゆゑに不退の位に定まると御こころえ候ふべし。真実信心の定まると申すも、金剛信心の定まると申すも、摂取不捨のゆゑに申すなり。さればこそ、無上覚にいたるべき心のおこると申すなり。これを不退の位とも正定聚の位に入るとも申し、等正覚にいたるとも申すなり。このこころの定まるを、十方諸仏のよろこびて、諸仏の御こころにひとしとほめたまふなり。このゆゑに、まことの信心の人をば、諸仏とひとしと申すなり。また補処の弥勒とおなじとも申すなり。この世にて真実信心の人をまもらせたまへばこそ、『阿弥陀経』には、「十方恒沙の諸仏護念す」(意)とは申すことにて候へ。安楽浄土へ往生してのちは、まもりたまふと申すことにては候はず。娑婆世界に居たるほど護念すとは申すことなり。信心まことなる人のこころを、十方恒沙の如来のほめたまへば、仏とひとしとは申すことなり。
 また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。このこころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。諸事恐々謹言。」(親鸞聖人御消息http://www.access-jp.net/seiten/index.php?chu%2F%E6%B6%88%E6%81%AFより。(20))

「如来の誓願を信ずる心の定まるときと申すは、摂取不捨の利益にあづかるゆゑに不退の位に定まると御こころえ候ふべし」
不退の位とは、必ず成仏する立場にあるということ、摂取不捨とは、弥陀の願力によってそれが実現するということ。
それを心得ることが信である。

「摂取不捨の利益にあづかるゆゑに不退の位に定まる」ことは仏説である。弥陀の誓願にそう誓われているのだから。
だから、「人の仰せごとにはいらぬものにて候ふ」。仏教とは仏の教えである。仏の教えとは仏が説くものであって、人間が説くものでない。人間やその他の衆生が何を言おうと、仏の誓願を覆すことは出来ない。
「如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず」。
仏法とは仏の法則である。仏の法則とは仏が衆生を仏へと至らせるものであって、衆生が仏へ至るものではない。衆生が仏になろうと思って何をしようと、それは妄想であって虚しいものである。
衆生を仏に至らせることが出来るのは仏のみである。仏とは南無阿弥陀仏である。

「安楽浄土に入りはつれば、すなはち大涅槃をさとるとも、また無上覚をさとるとも、滅度にいたるとも申すは、御名こそかはりたるやうなれども、これみな法身と申す仏のさとりをひらくべき正因に、弥陀仏の御ちかひを、法蔵菩薩われらに回向したまへるを、往相の回向と申すなり。この回向せさせたまへる願を、念仏往生の願(第十八願)とは申すなり。この念仏往生の願を一向に信じてふたごころなきを、一向専修とは申すなり。如来二種の回向と申すことは、この二種の回向の願を信じ、ふたごころなきを、真実の信心と申す。この真実の信心のおこることは、釈迦・弥陀の二尊の御はからひよりおこりたりとしらせたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。」(親鸞聖人御消息http://www.access-jp.net/seiten/index.php?chu%2F%E6%B6%88%E6%81%AFより。(21))

往生とは何であるか。
「法身と申す仏のさとりをひらくべき正因に、弥陀仏の御ちかひを、法蔵菩薩われらに回向したまへるを、往相の回向と申すなり」
仏の願力によって、成仏の因が定まることである。

なお、成仏とは法身を得ること。
法身には真実法身(一切の認識を越えた、形而上の身体)と方便法身(衆生を救済し真実法身に至らしめるために、仏法として形を現されたもの。名号)の二種がある。
「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」(唯信鈔文意http://www.access-jp.net/seiten/index.php?chu%2F%E5%94%AF%E6%96%87。【4】)
「この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり」(一念多念文意http://www.access-jp.net/seiten/index.php?chu%2F%E4%B8%80%E5%A4%9A。【18】)

ここで、成仏の因とは、普通私たちが連想するような個人的なもの(念仏する人一人だけのもの)ではない。往生は往相と還相の二種である。往相は自利であるが、還相は利他である。利他を欠いての往生はない。
上の御消息中には還相の説明がないので、入出二門偈頌により補足。

「第五に出の功徳を成就したまう。菩薩の出第五門というは、いかんが回向したまう、心に作願したまいき。苦悩の一切衆を捨てたまわざれば、回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに、功徳を施したまう。かの土に生じ已りて速疾に、奢摩他毘婆舎那巧方便力成就を得已りて、生死園煩悩林に入りて、応化身を示し神通に遊びて、教化地に至りて群生を利したまう。すなわちこれを出第五門と名づく、園林遊戯地門に入るなり。本願力の回向をもってのゆえに、利他の行成就したまえり、知るべし。」(入出二門偈頌。http://www.icho.gr.jp/seiten/index.htmlhttp://www.icho.gr.jp/seiten/html/463.html及び次ページより)

「苦悩の一切衆を捨てたまわざれば・・・功徳を施したまう。・・・教化地に至りて群生を利したまう」
つまり還相とは、他の一切の衆生を捨て(られ)ず、功徳を施して、彼らもまた利す(往生させる)ということ。
本願による往生は、自ら(往相)だけでなく一切衆生をも「同時に」往生させる(還相)ものであることを知らなければならない。
(本願においては、私は往生したがあなたは往生しない、ということは原理的に不可能である。その逆も)

「この二種の回向の願を信じ、ふたごころなきを、真実の信心と申す」。

菩提と誓願

2006-01-05 08:48:35 | 真宗についてのメモ
「この故に、行者、常に諸法の本より来(このかた)空寂なるを観じ、また常に四弘の願・行を修習せよ。空と地とに拠りて営舎を造立せんとするも、ただ地のみ、ただ空のみにては、終に成すことあたはざるが如し。」(石田瑞麿訳註「往生要集(上)」(岩波文庫)p181)

空観のみでは駄目ということ。誓願を抜きにして仏道はない。

問題は凡夫に本当に誓願が立てられるのかということであるが。

「いかんが不如実修行と名義と相応せざるとする。いはく、如来はこれ実相の身なり、これ物のための身なりと知らざるなり。
また三種の不相応あり。一つには信心淳からず、存せるがごとし亡ぜるがごときのゆゑに。二つには信心一ならず、決定なきがゆゑに。三つには信心相続せず、余念間つるがゆゑに」(教行信証信巻より。曇鸞「浄土論註」中の文)

「実の如く修行せず」とは、仏の真実であることと方便力を持つことを知らないことである。
また「名義と相応せざる」というのは、自分が言ったことを信じる心が薄く、変わりやすく、続かないことである。要するに、言っていることとしていることがずれていること。

このようでしかあることのできない人間の心に、真実の誓願などないことを知らなければならない。

煩悩と菩提

2006-01-05 08:39:30 | 真宗についてのメモ
煩悩と菩提が一味である(=煩悩がそのまま覚りなのだ)というのが真実としても、欲望と菩提が一味であるというのは詭弁に過ぎない。

欲望は現象に過ぎないが、煩悩は非現象的な(形而上の)原理である。
性欲、食欲、名誉欲、所有欲、支配欲など、いずれの欲望も現象であって煩悩の結果に過ぎない。
これら(現象としての欲望)を事物の原因と見るのは転倒した見解である。

欲望肯定論は、原因である煩悩を見ようとせず、知ろうともしないのに、煩悩即菩提なのだから欲望も肯定されるのだなどと嘯いている。
これはただ無明でありつづける(煩悩に無知な)外道である。

無明の目に映じる全ての現象は虚妄である。それなのに、何故現象を頼りとしようとするのか。真理である煩悩を知ろうとしないのか。