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amita_gate's memorandum

その日読んだ本やサイトのメモ

菩提と誓願

2006-01-05 08:48:35 | 真宗についてのメモ
「この故に、行者、常に諸法の本より来(このかた)空寂なるを観じ、また常に四弘の願・行を修習せよ。空と地とに拠りて営舎を造立せんとするも、ただ地のみ、ただ空のみにては、終に成すことあたはざるが如し。」(石田瑞麿訳註「往生要集(上)」(岩波文庫)p181)

空観のみでは駄目ということ。誓願を抜きにして仏道はない。

問題は凡夫に本当に誓願が立てられるのかということであるが。

「いかんが不如実修行と名義と相応せざるとする。いはく、如来はこれ実相の身なり、これ物のための身なりと知らざるなり。
また三種の不相応あり。一つには信心淳からず、存せるがごとし亡ぜるがごときのゆゑに。二つには信心一ならず、決定なきがゆゑに。三つには信心相続せず、余念間つるがゆゑに」(教行信証信巻より。曇鸞「浄土論註」中の文)

「実の如く修行せず」とは、仏の真実であることと方便力を持つことを知らないことである。
また「名義と相応せざる」というのは、自分が言ったことを信じる心が薄く、変わりやすく、続かないことである。要するに、言っていることとしていることがずれていること。

このようでしかあることのできない人間の心に、真実の誓願などないことを知らなければならない。

煩悩と菩提

2006-01-05 08:39:30 | 真宗についてのメモ
煩悩と菩提が一味である(=煩悩がそのまま覚りなのだ)というのが真実としても、欲望と菩提が一味であるというのは詭弁に過ぎない。

欲望は現象に過ぎないが、煩悩は非現象的な(形而上の)原理である。
性欲、食欲、名誉欲、所有欲、支配欲など、いずれの欲望も現象であって煩悩の結果に過ぎない。
これら(現象としての欲望)を事物の原因と見るのは転倒した見解である。

欲望肯定論は、原因である煩悩を見ようとせず、知ろうともしないのに、煩悩即菩提なのだから欲望も肯定されるのだなどと嘯いている。
これはただ無明でありつづける(煩悩に無知な)外道である。

無明の目に映じる全ての現象は虚妄である。それなのに、何故現象を頼りとしようとするのか。真理である煩悩を知ろうとしないのか。

他力の信心と真宗

2005-12-02 05:21:07 | 真宗についてのメモ
仏道を志すならば仏に仕え申す以上の行いも願いもない。
現に在す仏は南無阿弥陀仏のみである。

故に念仏は浄土往生の手立てであるだけでなく、現在の仏に仕えることである。
念仏は浄土の真の道(浄土真宗)であるだけでなく、真の仏道(真宗)である。

「『大智度論』によるに、三番の解釈あり。第一には、仏はこれ無上法王なり、菩薩は法臣とす。尊ぶところ重くするところ、ただ仏世尊なり。このゆゑに、まさにつねに念仏すべきなり。第二に、もろもろの菩薩ありてみづからいはく、〈われ曠劫よりこのかた、世尊われらが法身・智身・大慈悲身を長養したまふことを蒙ることを得たりき。禅定・智慧、無量の行願、仏によりて成ずることを得たり。報恩のためのゆゑに、つねに仏に近づかんことを願ず。また大臣の、王の恩寵を蒙りてつねにその王を念ふがごとし〉と。第三に、もろもろの菩薩ありて、またこの言をなさく、〈われ因地にして悪知識に遇ひて、波若を誹謗して悪道に堕しき。無量劫を経て余行を修すといへども、いまだ出づることあたはず。後に一時において善知識の辺によりしに、われを教へて念仏三昧を行ぜしむ。そのときにすなはちよくしかしながらもろもろの障、まさに解脱することを得しめたり。この大益あるがゆゑに、願じて仏を離れず〉と。」(教行信証信巻末)

念仏を信じる

2005-12-02 05:17:42 | 真宗についてのメモ
名号と他力の信心
信心には自力の信心と他力の信心があるという。

自力の信心とは自らの善業を頼りとすることである。
他力の信心とは阿弥陀仏の本願力を頼りとすることである。

阿弥陀仏の本願力とは名号である。
阿弥陀仏は誓願を成就されて仏となられた。仏となられた姿が名号(南無阿弥陀仏)である。

末法の無仏の時代、名号である弥陀(南無阿弥陀仏)以外に仏は在さない。
故に名号(南無阿弥陀仏)を称す(念仏)以外に仏行はないのである。

弥陀が誓願成就して名号となられたのを信じて念仏申すのが他力の信心である。

自然・他力・選択
誓願成就しているならば、(誓願の一である弥陀の)二種の回向も成就している。
二種の回向とは、衆生の浄土往生と、普賢の徳の成就である。

衆生の方より見れば、自然の利益として、浄土に往生し、普賢の徳を為すことになる。
自然というのは誓願成就の当然の結果という意味である。つまりは他力である。

他力の他は、「ほか」ではなく、「かれ」の意味で理解されなければならない。
他人の意ではなく、選択(多数の中の特定の一)の意である。
「他の誰か」ではなく、「特定のこの人」である。
即ち名号である弥陀ただ一人である。

名号である弥陀一人を現在の仏と選び定めるのが選択である。

業と彼岸(素描)

2005-11-17 00:50:07 | 真宗についてのメモ
業に応じて、沢山の穢土がある。
無数の穢土を包み込む無限の広がりとして、浄土はある。
南無阿弥陀仏の名号は穢土から浄土に至る船である。
仏は自ら願って穢土の衆生を載せる船に身を変えられた。名号の船に腰を下ろし、業の岸を離れれば、自ずと浄土の大海に至るのである。

真宗

2005-10-26 00:48:44 | 真宗についてのメモ
例えば、努力は報われる。努力すれば何事も叶うだろう。
或いは、誠実さは報われる。誠実であれば何事も叶うだろう。
このように、誠実さや努力は大切なものである。これを実らせてくれるように、神社などに参拝するのも良いかもしれない。

とはいえ、誠実に努力を尽くしても、なお結果が得られない場合というのもある。
こうした場合でも、奇跡などが起こって結果が得られることを願うのが人の自然な気持ちである。
このような場合、願いなどが叶うように、神社などで祈願するのも良いかもしれない。

それでも報われない場合というのもある。
こうした場合には、心を広く持って忍耐するのが良いだろう。
そもそも何もかもが思うようになるわけはないのである。自分にとって好ましくない結果も受け入れなければならないことは当然ある。
人のためを思い、経験や知識を広げ、心を広げることが、こうした忍耐をしやすくするだろう。
これは自分を救い人を救う道でもある。言い換えると、悟りを目指す道(聖道の修行)でもあるだろう。

とはいえ、誰もがこの道を歩み切れるわけでもない。皆が自分の悟りに至れるわけではない。
仮に歩み切れ、或いは自分の悟りが得られたとしても、それは多分に良い境遇や幸運に助けられてのことである。自分ひとりだけで為した道ではない。また誰にでも当てはまる道でもない。

もし、自分で悟りを目指す道が叶わないものだと思うのなら、仏の覚り(浄土)を頼りにするのが良いだろう。
仏は弥陀の誓願を信じ喜んで(信楽して)念仏申せよ、と教えられた。

そもそもこの世界は苦しみ多い世界(娑婆)であり、この世界に生まれてきた以上、何事も思うようになるものでないのである。しかし弥陀はこうした苦しみ多い世界(娑婆)の衆生のために、こうした世界の者皆を浄土へ迎えるぞと約束して仏となられた。この弥陀の約束のことを、「誓願」と言う。
浄土は全ての悩み苦しみ、思いや願いすらも超えた清浄な光明の世界である。私達に浄土は約束されている。苦しみ多いこの世界のことはひとまず差し置いて、この弥陀の誓願を信じ喜ぼうではないか。

弥陀の誓願を信じ喜ぶ者は、自ずと正定聚(しょうじょうしゅ)に入る。正定聚とは、自由であり(自在人)・清らかであり(清浄人)・限りない徳を備えた(無量徳)者のことである。弥陀の覚りに乗じることで(大乗)、自ずとこのような者として往生する(弥陀の覚りの世界=浄土に生まれ変わる)のである。

自分のことも人のことも、叶わない(思うように出来ない)この身である。しかし弥陀の誓願を信じ喜べば、自ずとこのような立派な身(法身)ともなる。そのように生まれ変わった身として、再度苦しみ多いこの世界(娑婆)の中を歩んで行くことだろう。

「念仏の形而上学」

2005-10-22 13:34:24 | 真宗についてのメモ
青木敬麿「念仏の形而上学」(昭和56年、南窓社)

法然上人の選択集を中心としつつ、浄土教と他力の教理の意味を探求する。名著である。(下村寅太郎のつけている跋文も感銘を与える。)

特に興味深かったのが次の把握である(30-31頁)。
「名を称へることが名の裏にひそむ功力を念ずることであれば名は単なる万徳のジムボールに過ぎず、真言の持咒と変わりがない。法蔵比丘が諸仏道同の自覚に満足せず、更に二百一十億の諸仏刹土をさがし歩いて終に四十八の別願を建て、その大願業力は凝って十八願の名号となった、と説く大無量寿経の神話は、明晰分判にこの名号が仏の自覚の自己否定なることを物語っている。仏自ら自己の万徳を否定して出て来たが故に、能く衆生の万行を否定し去って称名一行に往生の大益を保たしめることが出来たのである」
「念仏往生とは、名号の裏にある万徳の力によるのではなく、定散諸行の中から始終にこれを廃立して進む名号そのものの力でなければならぬ。・・・一向念仏に対すれば、諸行諸善は全く比較することも出来ない〔定善義三縁釈の結語〕」

名号は真理である、不可思議である、ということの意味を、深く明快に顕開されている。
南無阿弥陀仏

問題集(2)

2005-10-22 13:22:38 | 真宗についてのメモ
不安ないし奇跡の問題
不安であり、それは信がないからでは、という状態は恐ろしい。
信があるような気がするが、実はこれは本当の信ではないのでは、という疑いを遂行するのも恐ろしい。

信が得られれば恐ろしさはなくなると考えるべきなのだろうか。
それとも、人の心は当てにならず、信と恐ろしさを感じないこととは無関係である、と考えるべきなのか。

少なくとも、心に恐ろしさがなくなるという利益くらいは欲しいと思ってしまうのだが。
しかしこれは一種の奇跡の期待である。
このくらいは許されるのだろうか。それとも、非現実的、教理に反すると考えるべきだろうか。


恐らく、問題の立て方が間違っているのだとは思うのだが。
よく遭う問題なのでここに書いておく。

問題集(1)

2005-10-22 13:21:41 | 真宗についてのメモ
且く疑問を至す

機の問題
これまでは「私は救われるのか」という形で問題を立ててきた。しかし仏の方よりすれば、「私を救う必要はあるのか」という問題の筈である。
仏は十八願において救いからの除外をわざわざ述べられた。五逆と誹謗正法がそれである。これは無視してよい除外ではなく、より詳しくは十九願と二十願にそれぞれ述べられているものと思われる(*)。自力で諸々の善業をなすことを目指す者(五逆、十九願)と、名号を信楽しない者(誹謗正法、二十願)とは、本願を疑う者であり、十八願の救済の対象から除かれる。

*この辺りをはっきり説明してくれている文献にまだ出会っていないので、普通どう解釈されているのかは分からない。
ただ、四十八願の内部で、この除外文をどう考えるかという場合に、(この除外文を無視しないのなら、)「本願文の『五逆、誹謗正法』は、通常言われる『五逆、誹謗正法』とは意味内容が異なる」とは考えざるを得ないだろう。

私は本当に名号を信楽しているだろうか。
自信を持って肯定できないのは、信楽していないということなのだろう。つまり、本願を疑っているのである。

なぜ私は本願を信楽できないのか。私が抱えている問題はこれである。なぜ私は思弁を媒介してしか名号を納得できないのか。

思い当たる答えは一つである。
仏は光明を縁とし、名号を因として衆生を救い取られる。光明はアジャセの逆害の中で照らされる。私にはそのような逆害が起こっていないのである。親しい者により自分の命を理不尽に奪い取られるような、そうした危機も恐怖も。

「如意といふは二種あり。一つには衆生の意のごとし。かの心念に随ひてみな応じてこれを度す。二つには弥陀の意のごとし、五眼円かに照らし、六通自在にして、機の度すべきものを観そなはして、一念のうちに前なく後なく、身心等しく赴く。三輪をもつて開悟せしめて、おのおの益すること不同なり」(浄土文類聚鈔、善導「定善義」)

「機の度すべきものを観そなはして」「おのおの益すること不同なり」。必要の生まれた時、仏は縁を方便して速やかに信楽を得させて下さるのではなかろうか。
そのように願います。願わくば、最も信を必要とする時に、お見捨てになることのなからんことを。

業の形而上学

2005-10-22 13:16:50 | 真宗についてのメモ
仏教テキスト(*1)の理解のための一つの形而上学的な(*2)試論。

*1主に「真宗聖典」(柏原祐義編、法蔵館)に収められている経典、聖教等を念頭に置いている。
*2ここでは「感覚や認識を超えたもの、例えば世界の成り立ちそのものについての学」というような意味で使っている。
なお、「形而上学」の一般的な意味合いについては、フランソワ・グレゴワール「哲学入門」(文庫クセジュ)の「第一章 哲学と形而上学」及び「第二章 形而上学の諸問題」に分かりやすい説明がある。


業と他力について
・私と私を含むこの世界は(私の)業によって生まれてきた。世界に良いもの・ことがあるのは私の良い業の反映であり、世界に悪いもの・ことがあるのは私の悪い業の反映である。
・私は自分の悪業から逃れることが出来ない。何を為しても悉く業を増やすだけのことだからである。ゆえに、私やこの世界の悪や不幸や苦しみも尽きることがない。
・悪業より逃れ、この世界の悪や不幸や苦しみから逃れるには、仏の方からの働きかけ(他力)が必要である。

真理と救済について
・世界は業により作られている故に真実でない。(真実は業を離れている。)
・業に繋縛された真実でない世界の中に、業を離れた真実である仏名が出現するということが、奇跡(救済)である。なおその奇跡(救済)が起きたのには十分な理由がある。私ではなく仏の方からの働きがあったのである(他力)。

生き方について
・仏名という真理(救済)に出会ったのであるから、業のことは打ち捨てて(業にうちまかせて)、その真理(救済)を信楽するのがめでたいことである。


もう少し書きようもあるかもしれないが、今はここまでしか思い至らない。


この形而上学を通して見たテキストの(可能な)論理的なメリット
・この世界に存在している悪と、自分自身との間につながりがあることを説明してくれる。
・この世界に存在している悪や不幸・苦しみに、自分自身が影響を与えうる可能性、与え得ない可能性について説明してくれる。
・この世界がどこか空しいもの、空々しいものという感覚を認めてくれる。
・一方で、何か真実というものはあるはずだという直感も満たしてくれる。


あくまでこれで仏教テキストの意味が取れるのではないかというだけのものである。

(なお、留保として、「形而上学の説明は、世界全体についての成り立ちの説明に適用されるものであって、世界の特定の部分についての成り立ちの説明に適用されるものではない」。)