「この故に、行者、常に諸法の本より来(このかた)空寂なるを観じ、また常に四弘の願・行を修習せよ。空と地とに拠りて営舎を造立せんとするも、ただ地のみ、ただ空のみにては、終に成すことあたはざるが如し。」(石田瑞麿訳註「往生要集(上)」(岩波文庫)p181)
空観のみでは駄目ということ。誓願を抜きにして仏道はない。
問題は凡夫に本当に誓願が立てられるのかということであるが。
「いかんが不如実修行と名義と相応せざるとする。いはく、如来はこれ実相の身なり、これ物のための身なりと知らざるなり。
また三種の不相応あり。一つには信心淳からず、存せるがごとし亡ぜるがごときのゆゑに。二つには信心一ならず、決定なきがゆゑに。三つには信心相続せず、余念間つるがゆゑに」(教行信証信巻より。曇鸞「浄土論註」中の文)
「実の如く修行せず」とは、仏の真実であることと方便力を持つことを知らないことである。
また「名義と相応せざる」というのは、自分が言ったことを信じる心が薄く、変わりやすく、続かないことである。要するに、言っていることとしていることがずれていること。
このようでしかあることのできない人間の心に、真実の誓願などないことを知らなければならない。
空観のみでは駄目ということ。誓願を抜きにして仏道はない。
問題は凡夫に本当に誓願が立てられるのかということであるが。
「いかんが不如実修行と名義と相応せざるとする。いはく、如来はこれ実相の身なり、これ物のための身なりと知らざるなり。
また三種の不相応あり。一つには信心淳からず、存せるがごとし亡ぜるがごときのゆゑに。二つには信心一ならず、決定なきがゆゑに。三つには信心相続せず、余念間つるがゆゑに」(教行信証信巻より。曇鸞「浄土論註」中の文)
「実の如く修行せず」とは、仏の真実であることと方便力を持つことを知らないことである。
また「名義と相応せざる」というのは、自分が言ったことを信じる心が薄く、変わりやすく、続かないことである。要するに、言っていることとしていることがずれていること。
このようでしかあることのできない人間の心に、真実の誓願などないことを知らなければならない。