昨日の天気、気にはなりましたが・・・
選手たちは、本気モード、
東洋大牛久高短距離陣は新人戦の選手決定戦、100m、200mバトルをやっていました。
こういうのは、ギリギリの選手は、いやですよね。
でもやらないと気が治まらない。
本人も、仲間も、指導者も
それが、競技者でもあります。
大切なことは、その時にきっちり自分の強さを見せるということ、自分の存在をわかってもらうこと。
なかなかやるじゃないか・・・
そう、皆に思ってもらえる絶好のチャンスでもあります。
私も選手決定戦は、2回やりました。
1回目は、駒沢大学1年生時の箱根駅伝選手決定戦、駒沢公園20km決戦です。
1977年12月25日 クリスマス決戦
だったんですね。
12月24日 練習日誌 メモ欄
明日は、20kmTT箱根駅伝、最後の選考レースです。勝っても負けても、悔いの残らない走りをするだけだ。
現役選手、かっこいいですね~~~~(笑い)
25日当日の練習日誌には、うれしいコメントは一言もなく、結果と記録だけが書かれていますね・・・
残念、何を考えていたのでしょうね・・・
確か、親と香取先生に電話をしたと思います。
1年生から箱根を走ることは、大学に行った夢でもあり、目標でした。それが達成できたのだから、もうちょっと喜んだ、気のきいたメモ書いとけよ。
気持がわからないよ~~~
本人も、記憶が薄れているしな~~~
ブログにいいこと書けないよ~~~
過去の自分に不満をぶちまけてますが・・・
きっと、心にかみしめていたのでしょうね。
同部屋で共にメンバーを目指していた、岡先輩と同級生の阿部が選考から漏れたので、複雑な気持ちだったのでしょうね。
年間を通して、一番走れていなかった私が、たまたま、この時期は走れてしまった。まぐれな様なものでしたから・・・
まぐれも実力のうち、そのチャンスをどう、競技人生に活かすか、私にとっての最初の選手決定戦は、間違いなく、競技人生をいい方向性に導いてくれる入口でした。
もう1回は、ヤクルト5年目の全日本実業団駅伝選手決定戦です。
1985年12月13日
三重県伊勢市全日本実業団駅伝コースにて3km決戦
こちらも、結果的には勝ったのですが、現役引退を決意した決定戦になりました。
これは、競技人生の出口になりました。
私の選手決定戦の思い出です。
選手たちは、本気モード、
東洋大牛久高短距離陣は新人戦の選手決定戦、100m、200mバトルをやっていました。
こういうのは、ギリギリの選手は、いやですよね。
でもやらないと気が治まらない。
本人も、仲間も、指導者も
それが、競技者でもあります。
大切なことは、その時にきっちり自分の強さを見せるということ、自分の存在をわかってもらうこと。
なかなかやるじゃないか・・・
そう、皆に思ってもらえる絶好のチャンスでもあります。
私も選手決定戦は、2回やりました。
1回目は、駒沢大学1年生時の箱根駅伝選手決定戦、駒沢公園20km決戦です。
1977年12月25日 クリスマス決戦
だったんですね。
12月24日 練習日誌 メモ欄
明日は、20kmTT箱根駅伝、最後の選考レースです。勝っても負けても、悔いの残らない走りをするだけだ。
現役選手、かっこいいですね~~~~(笑い)
25日当日の練習日誌には、うれしいコメントは一言もなく、結果と記録だけが書かれていますね・・・
残念、何を考えていたのでしょうね・・・
確か、親と香取先生に電話をしたと思います。
1年生から箱根を走ることは、大学に行った夢でもあり、目標でした。それが達成できたのだから、もうちょっと喜んだ、気のきいたメモ書いとけよ。
気持がわからないよ~~~
本人も、記憶が薄れているしな~~~
ブログにいいこと書けないよ~~~
過去の自分に不満をぶちまけてますが・・・
きっと、心にかみしめていたのでしょうね。
同部屋で共にメンバーを目指していた、岡先輩と同級生の阿部が選考から漏れたので、複雑な気持ちだったのでしょうね。
年間を通して、一番走れていなかった私が、たまたま、この時期は走れてしまった。まぐれな様なものでしたから・・・
まぐれも実力のうち、そのチャンスをどう、競技人生に活かすか、私にとっての最初の選手決定戦は、間違いなく、競技人生をいい方向性に導いてくれる入口でした。
もう1回は、ヤクルト5年目の全日本実業団駅伝選手決定戦です。
1985年12月13日
三重県伊勢市全日本実業団駅伝コースにて3km決戦
こちらも、結果的には勝ったのですが、現役引退を決意した決定戦になりました。
これは、競技人生の出口になりました。
私の選手決定戦の思い出です。