人はそれぞれ何等かの欲求を持って生きている。
物質とか名声だとか、何かで自身を満たす為に生きているような気がする。
欲には際限なんてあるわけでもなく、
求めれば、考え得る限りの欲求は満たされてしまうような気がしてしまう。
そんなものが釈尊の説く“執着”なのだろうか…
さっき気が付いたのだが、自分にとって必要な物欲の壺は満たされてしまっているようだ。
目を覚ましたときから、目を閉じとめどない自我の深海へと旅立つときまで、ほとんどの時間を自分のやりたいことをやったり考えたりしている。
このまま歳を重ね過ぎ行く時を楽しんでしまいたい。
世間さまの言う“幸福”というやつなのかな…
“秩序”という言葉がある。この語の中身は、なにやら心地よい印象を持ってしまうけど、悪魔の囁きのような気もする。
“混沌”も“秩序”も一つの流れのある部分でしかなく、見方が変われば意味合いも変わってしまう言葉なのだろう。
どちらか一方しか見ないのはつまらないことでしかない。
あぁ 言いたいことがわからなくなったので此処で終わります。
物質とか名声だとか、何かで自身を満たす為に生きているような気がする。
欲には際限なんてあるわけでもなく、
求めれば、考え得る限りの欲求は満たされてしまうような気がしてしまう。
そんなものが釈尊の説く“執着”なのだろうか…
さっき気が付いたのだが、自分にとって必要な物欲の壺は満たされてしまっているようだ。
目を覚ましたときから、目を閉じとめどない自我の深海へと旅立つときまで、ほとんどの時間を自分のやりたいことをやったり考えたりしている。
このまま歳を重ね過ぎ行く時を楽しんでしまいたい。
世間さまの言う“幸福”というやつなのかな…
“秩序”という言葉がある。この語の中身は、なにやら心地よい印象を持ってしまうけど、悪魔の囁きのような気もする。
“混沌”も“秩序”も一つの流れのある部分でしかなく、見方が変われば意味合いも変わってしまう言葉なのだろう。
どちらか一方しか見ないのはつまらないことでしかない。
あぁ 言いたいことがわからなくなったので此処で終わります。