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明鏡   

鏡のごとく

茅葺の神様と杉皮葺の神様

2022-05-26 10:52:09 | 詩小説
 茅葺の神様と杉皮葺の神様を明楽園にお祭りした。
 関わった、全ての方々が、茅葺と杉皮葺を愛するという一点に置いて、神様のように感じて、体験会に来てくださった方々の名前を書いていただいたお札をお祭りさせていただいたのだ。
 先輩の井手さんのお名前も、盟友の相楽さんに書いていただいた。
 皆様方の魂がどうか、安らかに、穏やかに、心休まる、茅葺、杉皮葺の屋根の下、日本はもとより、世界中の平和となっていくように、祈り続けるのだ。

 日本茅葺協会の安藤先生や上野さんをはじめ、全国から茅葺職人の方々が集まってきた、我々の作業場でもある古民家明楽園の杉皮葺の屋根で体験会を行った際のことである。

 浮羽で日本茅葺協会のフォーラムがあり、その一環として、15日に一般の茅文協の方々の見学会、16日に主に職人向けの体験会を行ったのだが、見学会には約50人、体験会には、30人ほどの方々が参加された。

 フォーラムにおいては、九州においては、三苫さんによるお話においての筑後川流域における林業が盛んになった頃から発達していったという杉皮葺を残していきたいという思いの大きさに限らず、生きる場としてのカフェとして茅葺の屋根と共に暮らすことや、九州大学の先生や学生さん、地元の役所の方々などの、茅葺、杉皮葺の屋根を残していこうとする取り組みや、世界の茅葺事情なども語られ、茅葺、杉皮葺への思いが伝わる発表であった。

 オランダの茅葺は、新築も多く見受けられ、建築家との新しい茅葺屋根の形を生み出している現状を紹介してくださっていた。バードウオッチングのメッカ?のような茅の草原の中で生み出された卵型の建築のおおらかさと、その形状に、柔らかい茅葺にお未来を見た。限界などないような、柔らかい、とてもしなやかな可能性は、ここ日本においても展開しており、伝統を守ることともに、新しい形をも生み出すことの喜びを感じずにはおれないお話であった。

 今年に入って、東京のあきる野の広徳寺において、奥多摩の杉皮葺の屋根をされる職人が途絶えないように、上村さんと共に、中野さんからお声がけしていただき、駒さんと松田さん山口さんとご一緒して、奥多摩方式というか、奥多摩の杉皮葺のやり方を、屋根の解体で実際にものを見て、学びながら、過去に施工した広徳寺の資料なども参考にしながら最高のものを模索し続けた日々であった。
 九州の杉皮葺と奥多摩の杉皮葺の最大の違いは、葺方にある。
 九州においては、下地には茅を敷いてはいるものの、埋めものとしての茅の役目が主なもので、その上に茅だけでは柔らかすぎるため杉皮の埋めものも敷いて、2尺前後の短冊状の杉皮をある程度の一尺半前後の葺足で積みあげていったのち、竹で押さえて、その上にまた同じような行程で、積み上げていくやり方なのである。
 一方、奥多摩においては、九州のように積み上げていくのではなく、一列づつ一枚一枚をつきつきに並べながら釘で打ち付けていくやり方でやっていった。我々が関わっていた時は、ちょうど、寒い時期であったので、解体時も屋根面が凍り付いていて、埋めものと葺く杉皮とが一体化していて、どれくらい埋めものをしていたかも、把握できなかったのだが、我々が今の現場である、小石原の高取焼宗家のお屋根をするためと、今回の茅文協のフォーラムの下準備のため、九州に戻ったのちに、駒さんと共に続けていた茂原くんによると、埋めものも見られたということで、やはり、奥多摩の杉皮葺においても、埋めものはしっかりとされていたということであった。また、重要なこととして、下地の茅葺は奥多摩においては、一度、茅葺の屋根と同じ吹き方をしたのちに、杉皮をその上に一列づつ、一枚づつ桧皮ぶきのようなやり方で並べているということであった。九州においては、軒は茅葺と同じ行程で茅を葺いたたのちに杉皮を乗せていくのであるが、その先は、先ほども述べたように、あくまでも埋めものとしての、下地としての茅を「のべ」として敷いて、鉾だけで抑えながら、その上に積まれていく杉皮を抑える竹を取るための抑え竹としの役割の方がより大きいとも言える。
 
 言ってみれば、奥多摩は茅葺をした上に杉皮葺をしている、それぞれの行程をそれぞれきっちりとしているので、二度葺いているといえ、ある意味、二度葺の贅沢な葺方とも言えるが、筑後川流域の葺方は、茅葺と杉皮葺の一体化というか、それぞれが個別ではなく、渾然一体となって、そこにある、茅葺と杉皮葺の融合物のようにも思われた。

 それぞれの杉皮葺のあり方の、それぞれの美しさとともに強さも、今後追っていきたいと思われた。


 それから、水の災害も、他の災害も見受けられる日本で、浮羽においては水害で多大な打撃を受けたのを乗り越えようと、知足先生や地元の方々などが協力されて、杉の流木などを使って、アートで、復興できる流れを模索されていたり、杉をこよなく愛する杉岡製材所の杉岡さんたちも尽力されていたのを存じ上げていたので、その思いは後の世にも伝わって、災害からも立ち直る手立てを我々は身をもって全身でもって、前進していく力を持ちうるという希望を見出した気がしていた。

 下準備があったので、登壇された方々のお話をお聞きして、すぐさま、とんぼ返りで古民家で作業を行ったのだが、上村組組長?のご家族と息子の道成と、地元の茅葺、杉皮葺の仲間と、やませみの里の愉快な仲間の全面的な協力により、無事、見学会、体験会が終わりましたことを、心より感謝して。

 これからの、茅葺、杉皮葺の発展を、心から楽しみにしている次第である。

流行は廃れる

2022-03-18 11:49:43 | 詩小説
「流行は廃れる」




ぴー。
測定できません。

店の入り口に置いてある体温を測る計器がしゃべりだした。

わかった。わかってるんだよ。もう。
いちいち言われなくてもわかっているっていうのに。

竹を取りに行った帰りに立ち寄った食事処で、店の主人が、話し出した。

これを買う際には、補助金が出たんですよね。
三十万円の熱を測る機械に。9割の補助金。1割だけ、自分で払うのは。
でもね。これからの税金が怖いですよ。
これから、営業の補助金なんかの後の、税金が。
休業している店に出ている分の後の税金もそうですけど。

店の主人は、ピッチャーの水と氷の入ったグラスを差し出した。

そうなんですね。

私は、冷たいグラスに口をつけながら仲間に言った。

これを売って儲かるのは、コロナ対応という名のその計器を作っている会社で。
全国の店という店におきつつある昨今であるので。
日々、テレビやラジオや報道関係者や役所のものが、恐怖を煽ることで、コロナ関連の製薬会社とその周辺のものが、マスクすら日常化させようとし、コロナ関連で儲かるような世の中であるのは、戦時中と同じですよね。
プロパガンダの賜物であって、狂っているとしか言えませんが。
これが、現実です。


そうですね。

仲間が言った。


ある意味、犬のように、狂犬病のワクチンの予防接種を受けさせ、体内にチップを挿入して管理しようとしているのを、人間にしだしたということです。
コロナの仕上げには、チップが必ず来ます。
いやすでに、体内にチップを挿入することは、ワクチンだけでも可能な技術を持っているとも言えます。ナノ単位でできることも、数多くありますのでね。
テレビでは、犬のキャラクターとともに、お前はぺいぺいのくせにと言って、見下す時に使う電子マネーというやつを推進しようとしているでしょう。
誰が儲かるのかと、言っていますが、儲かるどころか、打ち出の小槌が、電子マネーということに、そろそろ人々が気づくことが必要なのです。
紙でする紙幣も打ち出の小槌なのですが、もっと、無限に人々を支配できるのが、電子マネーなのですから。


正直、自分は、目を見開いて、気が狂ったように、何度も、同じことを繰り返しいうことに、心底うんざりしていているのだが、これが、報道のプロパガンダへの反動、生の領域で起こっている死を煽る領域への反動であることは否めない事実なのである。


では、お金に支配されないようになるには、どうすればいいのだ。
彼らに、管理されないようにするにはどうすればいいのだ。
これは、赤狩りや無政府主義のようなものとは事情が全く違う。
単なる考え方の違い、主義主張、思想、ましてやお金との戦いでもない。
ある意味、この世を支配していると思われているお金の神様のようなものを、超える時が来たということかもしれないのだ。ということ。
戦いよりも、生そのものを味わうということ。
それを乗り越えるというのは、できるだけ、お金を介さないでも済む世界をいきるということ、ただただ生を生きるということなのだと。
誰にでもできることなのだと。

戦争も、同じ構造である。
生物兵器、あるいは化学兵器を作る技術を持っているのは、軍隊を持っているところは全てだと言っても過言ではない時代である。どこの国だけが持っているという話では全くない。
現に、イランイラク戦争でも、禁止されている化学兵器が使われていたという。
どちらが使ったというのを、なすりつけるためのプロパガンダが、今も、その布線を張り巡らしてはいるが、どちらが使ったか、証拠がある/ないではなく、どちらも持っているという大前提で、どちらにも使わせないということが、何よりも重要なことなのだということ。
核兵器も然り。どこが持っているという段階ではないと言って過言ではない。どこも、使おうと思えば使えるという。
無限の打ち出の小槌の「お金」と引き換えに、ものや人や土地や時間を、あるいは、情報を、さし出せば。ということなのである。

彼らの狙いは、その流通に乗っかるものを増やすことで、その無限の力を使い続けることができると信じているということなのだ。

それを覆すことは、意外と簡単なのである。

なるだけお金を介さない生き方をすること。

このお金を使わないことで、お金の神様のようなものが煽る、流行は廃れるということ。

食えない苺

2022-03-12 10:44:10 | 詩小説
伸びきった髪を切ってから、八百屋に立ち寄った。

11年前の11日に、半身不随だった父とも一緒に八百屋に立ち寄って、苺を手に入れたのを思いながら。

せがれたちに、苺ば、こうちゃれ。

父が、1日に1回は外に出ないと気が済まない人だったので、子育てをしながらの介護で、朝、昼、夜の質素なごはんを作り、洗濯、掃除だけでも、しんどいところに、追い打ちをかけるように、じいちゃんの介護が上乗せされ、しんどさは底無しの毎日であった。

じいちゃんをお風呂に入れるにも、服を脱がせ、こけないように風呂に連れていくだけでも、へとへとになり、体は手の届かないところはブラシを使って自分で洗うというので、自分でできるところは自分でするという父の気持ちもあったので、最初の頃は、背中を洗ったりしていたが、徐々に自分でできることを増やしていくことが、希望ではあった。

夜の間は、トイレに行くにも、眠っているのいを起こしてまで行くのは憚られるので、尿瓶にたっぷりと溜まったおしっこを、次の朝、処分して、洗って、消毒しての繰り返しであった。

生きるということは、これほど、手間がかかることだったのかと、子供ならば、自分で全てできるようになるまでの間というほのかな希望があるが、衰えていくままの父を見ながらの生活は、希望はろうそくの炎のように儚いが、ここまで、ずっと一緒だったことがなかった、単身赴任の多かった警察官の父と初めて、本当に一緒にいて、話して、向き合ったことはなかったので、これは、何かしら意味がある気がしていた。一緒にいることの意味。あるのかないのかわからない、一緒にいることの意味。のようなもの。

苺ば、こうちゃれ。

父は、よだれを垂らしながら、車椅子の上で、何度も言う。
笑っているのか、怒っているのか、よく分からない、半分だけ固まったブルドックの口のようにとめどなく流れるよだれに、気づかないまま、何度も言うのだった。

苺ば買おうかね。

私は、つぶつぶの生きのいい苺を選ぼうと躍起になっていた。

そこに、ヘルメットをかぶった男が八百屋にやってきて、

東北の方で地震があった。

といった。

苺を買って、家に急いで戻ると、青黒い大きな津波が何度も何度も人や建物や木々を飲み込んでいく映像が流されていた。

原発も爆発し、放射能が漏れていると何度も言っている。

身内も東京にいた。

食料も、水も、電気も、滞っていた。

戦争のようだ。

と思った。

東京に姪っ子の世話をしに行っていた母にも電話がつながらなかったが、しばらくして、母とつながった。

なんとかなる。

母は、警察官であった父の仕事の関係で、外務省に出向になってイランにいるとき、イランにイラクが侵攻してきた戦争を体験しているのもあるが、破天荒な父と一緒にいたためもあってか、いざという時を、幾度もくぐり抜けてきたせいか、くそ度胸があったので、姪っ子もなんとか、なる気がしていた。

見える津波に飲み込まれた後の、見えない放射能との戦いのようになっていった。

車に乗り込み、一つだけこぼれ落ちた、洗ってもいない苺のヘタを持って、かぶりつきながら、そう思っていた。

つぶつぶが口の中で、波に混じった砂に混じった礫をかみ砕くようにして、苺を飲み込んだ。

母の上に、ヘタのように草冠が付いている。苺。母は草をかぶっていた。

苺のように、甘くはないが。

種がむき出しになって、鼻に毛穴の汚れのようにつぶつぶがあらわになっているように、毎日のように毒を吐きながら、他のものが出払った、私ししかいない家の中で呪詛のように、父のことを嘆いていたのだ。

草をかぶっている。母ではなくなった、草冠をかぶっている母のようで、母ではなくなったもの。

ロシアがウクライナを侵攻した。

という。フェイクニュースではない。事実である。

国連安保理で、ロシアがウクライナで生物兵器を作っていると言っている。炭疽菌、コレラ、コロナウイルスまで作っていると言っている。

テレビでは、一方的な侵攻で、証拠は出ていないと国連で、女性の口から言わせている。草をかぶっている。母ではない。甘くない苺のような、味のない、国連という甘い甘いケーキの一つのピースの甘くない苺がのっかった、テレビというショーウィンドウの中の甘くない一つのピース。

今度は、イランにまで飛び火させようと躍起である。国連のショウ劇場。

これが、戦争の一つのピースなのだ。

苺の味は、母ではないが、草をかぶったものの味。甘い甘い赤くて白い心臓の、ハートの形をした甘酸っぱい命のしゅる(汁)の味。

食べれない苺の味はない。味気ない。
ただただ、繰り言を繰り返すだけなのだ。

コロナウイルスを作っている。炭疽菌もこれらまでも。証拠はない。証拠はない。嘘だ。嘘だ。と。

口が虚しいものが、嘘なんだってさ。

食えない苺は、口が虚しいもんね。

食えない苺は、嘘なのだ。と。

蝋梅の花

2022-03-10 02:53:54 | 詩小説
蝋梅の花が咲いていた。

1月11日に九州の筑後川流域の杉皮葺とは葺方が違う、奥多摩の特徴的な杉皮葺の屋根である、あきる野にあるお屋根の葺き替えの加勢をするために東京に来てから、しばらくしてのことだった。
作業がひとしきり済んで、昼休みになって、休憩室に引き上げる時に、大きなかやの木の近くに小さな黄色い花がぽつりぽつりと咲いていたのだ。
思わず、近づいていた。
犬がうまそうな匂いに食らいつくように、黄色い小さな花に鼻をくんくんしながら、近づいた。
黄色い花が、ぷっくりとつやつやとしているものだがら、蜜蠟のようにも見えるので、蝋梅という名になったというものもいるらしい。
去年、蜜蠟の花という詩集を自分の生まれた日に出したので、この花に、ここで出会えたのも、何かのご縁のような気がしてならなかったのだ。

来る前に、出版祝いだと、蜜蠟の花のような、花のような蜜蠟を竹細工のてんごやさんにいただいていたのも、言葉が、形になっていく、現実化していくようで、妙に嬉しかったのだが、手で触れ、鼻でかぐわい、眼で愛でることができるものが、生のものがそこにあったものだから、急に生気づいてきたようで、その匂いに、囚われていた。

マスクに囚われ、コロナに囚われているよりも、ずいぶんと、生きているものだ。その生々しい匂いを嗅いでいるだけで生の領域に囲まれているような気がしていた。

ひとしきり香りを吸い込んで、休憩室に帰ると、仲間が、

ロシアがウクライナに侵攻したみたいですよ。

と言った。

爆撃の色は、夕暮れの赤だった。

子供の頃、住んでいたイランにイラクが攻め込んできたのも、突然であった。

戦争は、突然やってきた。

その突然を、いつの間にか、生活が押しやるのだ。

戦いを押しやるのが生活だったのである。

必ず、生活が、戦いを終わらせるのだ。

我々が淡々と生活し、生きた輪になって、戦いを囲い込み、戦いを終わらせるのだ。

と、心の中でつぶやきながら、淡々と、心と体を洗うように、茅を葺き、杉皮を葺くのだった。













多摩川

2022-01-25 03:15:26 | 詩小説
多摩川に来ていた。
奥多摩の茅葺の家を探していたのだ。
川のほとりにある青梅の宮崎家の虎葺は三部屋の作りで、田の字で区切られている古民家の多い中、その形に収まる以前の農家の家の作りが残っているのだという。
昔の人は、小柄な方が多く、お台所の水周りも囲炉裏のある部屋にあり、床の高さから二、三寸程度高いだけで、お茶室にこしらえてあるのを拝見したことのある、ちょっとした洗い物ができるような作りであった。
土間には、小さなおくどさんがあった。
虎葺の屋根は、茅葺の一段葺きあげるその上に二枚ほど杉皮を並べていき、より、強度を増すためのやり方であるようであった。実際のところ、虎葺の茅の部分が溶けていくようになくなっていたが杉皮は残っていたという方もおられたので、デザインの面白さ
はもちろんであるが、経済的にも、手間においても、耐久性においても、その当時の農家の方の出来うることを極力生かした作りであったと思われた。

杉皮葺の蕎麦屋があるということもお聞きしたので、そこに行ってみた。
こじんまりとした屋根ではあったが、生活の場として、そこにあり続け、時代を超えてきた静かな佇まいでありながら時を重ねた重みのようなものが苔や杉皮や茅から醸し出されていた。
その家にはその家の味があるように、その家の菌があり、それが、その家の味噌や漬物、発酵されていく場となるのだ。菌とともにある、菌と共生してきたのが日本の家であったのだと改めて思い至るのであった。昨今のコロナウィルスであろうが、共生できる土壌が、古民家においては、ある意味、「発酵場」としての底力を秘めていると思われた。
鴨のつけ汁そばをいただいた。冷たい蕎麦に、熱い汁が鴨の脂と程よく絡みつき、箸が止まらないまま、一気に蕎麦をかきこんだ。ほっとしながら、上を見ると、色紙があり、その一つに、太宰治のものもあった。彼も箸が止まらないどころか、二枚三枚と笊を追加していったと書かれていた。おそらく、酒も進んだことであろうが、ことばで残されたその当時の太宰の腹一杯の余韻まで味わったようであった。

それから、街中に忽然と現れる吉野家に行った。そちらは、茅葺の古民家で、庄屋さんをしていたとオタクで、玄関も家の正面にあり、土間からも入ることができるが、勝手口もあるようで、家がより目的に応じて細分化されていったような作りになっていて、間取りも同じく、た人の出入りも多いような広さが確保されていた。
やはり、宮崎家のようなお茶室に誂えてあるような、囲炉裏の近くに水周りがあり、土間に大きなおくどさんがあった。
そこに住む人の名残である前に、そこに住み、生きることの有り難さを目の当たりにした気がした。

前日、多摩川の田園調布五丁目あたりをふらついていたのを思い出していた。
家がところ狭しと並んでいる中、多摩川のほとりは、野球をする人や、犬を走らせたり、自分が走っている人、我々のようにただただ歩いている人もいた。

高尾山に登って富士山の山肌がくっきりと見えたのも思い出していた。山は生きている。多摩川がとうとうと流れているように、生きている。そう感じていた。
友人と会い、蕎麦を一緒に食らうことの味わいもさることながら、共にいることの、その思いを共有できることの、生きていることを味わうためにここにきたような、なんとも言えないものが、こみ上げてきた。

水がどちらに流れているかわかるかわからないかの広々とした流れの中で、冷たい空気を感じながら、ゆっくりと沈む遠くでうすらぼんやりと暖かそうな夕陽を見ながら、静かに水に入っていった人を思っていたのだ。

導かれるように多摩川流域に
仕事が入ったのもあった。
偶然、西部邁の命日をお聞きし、その次の日が友人と会う約束をしていた日であったので、多摩川の左岸にどうしても行かずにはおれなかったのだ。
本当に、導かれるように多摩川に来ていたのだ。
多摩川の水は、それほど冷たくなく、夕陽が解けたように優しかった。
川面に映りこんでいる夕陽に救われた気がした。
この夕陽があれば、もしかして、魂のようなものがあるのだとしたら、寂しくないかもしれない。と。

そういえば、太宰治も、玉川上水で息絶えたのだっけ。
あんなに玉川の蕎麦屋で、たらふく食ったこともあるというのに、人は変われば変わるものである。が。

生きて死ぬことは、自分で決めるのだ。
ということを身を持って、さししめされたのはたしかなことである。

コロナのΟ株が流行り出したという。
病院に入院して、父親とも面会は出来ないと言いやがるご時世である。
もう老衰一歩手前で、死にそうなものが、会いたがっているものを合わせない理不尽もさることながら、死にそうなものにワクチンを打とうとする理不尽。
3度目を打って、どうするといのだ。死にそうなものにそれほどまでに打って売って、撃ちまくるというのだろうか。

全くもって、おかしな世の中である。

ワクチンを打っても打たなくても、はびこっているもの、隔離したところで、絶滅はしないのだ。生物というものは。

自由に生きて、死ぬことが、生物の運命なのだ。
ということを、思い出してみろ。と。亡くなったものから言われているような気がしてきた。

彼らは、世の中の流れに身をまかせることなく、溺れたのだ。
自分を堰止めて、流れに逆らうように、水のそこにいたのだ。

山の中から、川の流れをたどって行き着く先は、海なのだ。と。知っていながら。