歴史と自然への訪問記

福岡を中心に探索・活動しています。歴史と自然が好きです。日々感じるまま綴っていきたい。

筑前 名島城と小早川隆景

2010年08月03日 | 歴史

前回の記事で、深江神社に小早川隆景の寄進した鳥居があったと書きました。
今回は、隆景が居城とした筑前国名島城のお話です。

名島城は、筑前国名島(現在の福岡市東区)にあった城で(廃城)、現在は、そこに名島神社があります。小高い丘の上に神社があり、さらに階段を上ると広場があり城址公園を現在作っているようです。

秀吉が九州を平定後、毛利氏の重臣であった小早川隆景に筑前国を与え、隆景は名島城を居城として使った。文禄・慶長の役の際は、豊臣秀吉が淀殿を伴い名島城に立ち寄り宿泊もしたそうですね。その後、養子の小早川秀秋に家督を譲り、秀秋が新城主となりました。隠居した隆景は三原城に帰ります。

名島城は本丸、二の丸、三の丸、南丸で構成され、三方を海に囲まれていて小早川らしく水軍の城であったそうです。

1600年、関ヶ原の戦い後、小早川秀秋は51万石に加増され岡山移った。その後、この城には黒田長政が入ったが名島城を廃城とし、新しく城を築城した。福岡城である。築城の際、この名島城を建材として、石材として、福岡城で使われた。



■名島神社の正面、二番目の鳥居からの撮影です



■名島神社の拝殿、神殿です



■神社の由緒が書かれている石板です



■名島城跡公園です。現在工事中のようです。

小早川隆景は戦国時代~安土桃山時代の武将で1533年毛利元就の三男として誕生。幼名を徳寿丸。1544年徳寿丸は大内氏の薦めもあり小早川氏分家筋の竹原小早川氏の当主を継いだ。これは竹原小早川氏の当主である小早川興景が死去し、しかも継嗣が無いため、徳寿丸が名跡を継ぐことになった。名を大内義隆の一字をいただいて隆景と称した。陸の毛利に水軍ができた瞬間です。
1550年に小早川氏嫡流の沼田小早川氏も相続することになり小早川水軍を統一した。

有名な三本の矢の話は後世の創作との説もあるが、その話のとおり隆景は兄の吉川元春とともに毛利家を支え「毛利の両川」と呼ばれる。兄は山陰経略を、弟は山陽経略を受け持った。
本能寺の変が起こり信長亡き後に秀吉が信長の後継者としての地位を確立すると、隆景は毛利家を秀吉の天下統一事業に協力させた。

1585年、四国征伐の功賞として伊予一国を与えられ毛利から独立した大名となる。しかし隆景は伊予を一度毛利家に与えてもらってから、改めて受領する形で毛利家の一武将としての体裁を保ち本拠地も三原のままにした。

1586年、九州征伐後に秀吉から筑前国35万石を与えられる。九州征伐時、吉川元春とその嫡男・元長が相次いで亡くなったため、隆景は一人で毛利輝元を補佐していくことなる。
1588年、秀吉から羽柴姓を与えられる。1590年、小田原の役にも従軍、その後も豊臣政権下で五大老として活躍した。1595年隠居し、1597年没した。

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