歴史と自然への訪問記

福岡を中心に探索・活動しています。歴史と自然が好きです。日々感じるまま綴っていきたい。

石炭王 高取伊好邸を見てきました

2010年11月20日 | 歴史

今回は唐津のお城の近くにある石炭王の高取伊好(たかとり これよし:1850年-1927年)邸を見てきました。明治時代の中上流階級の住宅遺産代表作として国の重要文化財に指定され現在まで保存、公開されています。高取伊好は明治から大正期にかけて活躍し炭鉱王といわれた人です。


■場所は福岡市方向から来た場合、松浦川に架かる舞鶴橋を渡り唐津城の前を通り過ぎ南城内駐車場入口交差点を右折すると駐車場があり、そこから歩いて数分の所です。


■パンフレットの表。高取邸の概略が書いてあります。


■パンフレットの裏。高取邸の見取り図です。青い部分が居室棟、ピンクの部分が大広間棟です。写真が添えてあります。一部を拡大して後半に載せますね。


■パンフレット その2。一部を拡大して後半に載せますね。

高取伊好は1850年、佐賀藩多久で鶴田家の三男として生まれ9歳の時に姉の嫁ぎ先である高取家の養子となります。
明治2年(1869年)長崎の高島の、わが国最初の炭鉱を見るという運命ともいえる機会に恵まれ、採炭現場や蒸気船、採炭機械、揚水ポンプ、昇降機などの近代的設備に触れます。

やがて伊好は、後藤象二郎が経営する高島に技師として赴任、技師長、第二坑長、第一坑長、第二支配人等を歴任。技術陣のリーダーとして生産を指導しただけでなく経営にも関与した結果、大隈重信、岩崎弥太郎とも知己を得る。

伊好は、ここ高島で二度の大事故を経験します。まず大火災がおき鎮火がままならず全坑道を海水で水没させることで鎮火させた。しかし、坑道の復旧には半年もの時間を費やすことになります。次は坑道の壁が破損し海水が坑道になだれ込んで水没、多数の人名が失われた。伊好はこの難局も乗り切り、明治13年(1880年)には1日あたり1500トンを産炭する炭鉱へと復活させるのです。しかし、後藤象二郎はこの炭鉱を維持できず三菱へ売却されます。伊好は辞職しますが、ここで炭鉱の生産技術、経営技術の多くを学んだ。

伊好は、それまで得た経験を生かし唐津近郊の北波多村の唐津炭田で芳ノ谷炭鉱会社を創業します。また、多久から厳木地区にかけて広がる柚ノ木原炭鉱の再建も手がけます。その後、芳ノ谷炭鉱の近くで相知(おうち)で良質の石炭が産出する情報を得て試掘を繰り返し地下70メートルの場所に良炭層を発見した。

炭鉱は巨額な資金がかかるそうで繰り返しの試掘の費用、石炭層に行き当たれば採掘機器の導入設置など当初の資金がいくらでも資金がかかるらしい。伊好など財閥の支えのない鉱業家は常に借金地獄の憂き目を見る。結局、負債に堪えられず、相知に目をつけた三菱財閥の圧力にも負け相知炭鉱は三菱財閥に売却します。三菱相知炭鉱は発展し従業員5千人を抱える大鉱山へと成長したのです。伊好の着眼は正しかったといえます。

その後、伊好は逆境にも負けずに資金を集めて佐賀県南部の炭田開発に乗り出します。今の佐賀県杵島郡北方町、大町町の一帯に広がる炭田の開発です。そこでの試掘で豊富な炭量の存在を確信します。

ここで、伊好は勝負にでます。今持っている炭鉱を手放し、その譲渡金のすべてを杵島地方の炭鉱開発につぎ込みます。さらに資金を調達し、それも付近一帯410万坪に及ぶ鉱区につぎ込んで、杵島地方のほぼすべての炭鉱が高取伊好の所有物となった。

杵島地方の産出量は、発足翌年の明治43年(1910年)、12万9千トン、明治44年(1911年)には22万9千トン、大正元年(1912年)には27万3千トンに達し、大正6年(1917年)には60万トンを超えました。
伊好は『肥前の炭鉱王』とも呼ばれ勝利を最後にはつかんだのです。

で、高取伊好邸 ですが、
第一印象は『広い』です。そして天井が高い。建物は明治30-40年代のものです。京都四条派の画家水野香圃に描かせた襖絵や板絵が有名なのだそうです。

まず敷地に入るとすぐ玄関があります。建物の外側を見ると明治風の建物という印象です。写真は建物の内部は撮影禁止ですが建物の外側はOkです。
入場料500円を払って中に入ります。


■高取邸の門より撮影しました。白い建物は洋間です。その左が本玄関です。


■洋間の室内です。漆喰の天井からアールヌーボー調のシャンデリアが下がり暖炉もあるます。(パンフレットより転写)


■門より右側を撮影。大広間棟の大玄関、2階の大広間部分が見えますね。


■大広間棟の大玄関を正面から撮影しました。


■洋間を外から撮影しました。
 
建物の中は、ひんやりとしています。見学順路は決まっていて下に赤い絨毯が引いてあり、矢印で順路が示されています。

建物は、居室棟と大広間棟に分かれています。玄関を入り左折して居室棟を回り、次に大広間棟1階、2階の順で回り玄関へ戻ります。そして玄関を出たら土蔵を見学し、別棟の食料庫、厠、使用人湯屋殿、家族湯殿、貯蔵庫、広いお庭を回って見学終了となります。

居室棟には、書生部屋、女中部屋、使用人食堂、広い台所、茶の間、和室(8畳*3、6畳*2)、座敷、次間、居間(奥様の部屋)、寝室、書斎、中座敷、仏間、洋間があり部屋は廊下でつながっています。

大広間棟には、茶室、能舞台、大広間、後座、鏡の間、控えの間、次の間、浴室、脱衣場がある廊下で書く部屋をつなぎ、2階には40畳?の大広間があり周りを廊下で囲まれています。
各部屋や廊下には、杉戸絵という絵画が描かれていて豪華です。家具、道具も置いてあります。建物は中庭を囲むように建てられていて庭を部屋から眺めることができます。建物の外側にも庭があります。海側の部屋からは唐津の海が見えます。

広さがわかっていただけでしょうか。ただ、季節柄、畳が冷たく感じます。所々にホットカーペットがあり足を暖められました。

しばらくホットカーペットに座り庭を眺めていました。庭の木々を小鳥達がさえずりながら飛び回っていて普段の生活では味わえない時間を味わっていました。またいつか来てみたいと思います。


■庭から見た大広間棟と庭fです。ちょっと逆光で見えにくいのですが。


■土蔵です。中にも展示物があります。内部は3階構造になっています。


■庭です。手前のは井戸でしょうか。


■二階の大広間です。20畳位あるようです。ここからは庭のほか、唐津湾の海が見えます。
(パンフレットより転写)



■大広間棟にある能舞台の間です。30畳の広さがあり、自宅に能舞台があるのは国内でここだけだとか。自宅で能が鑑賞できるのはすごいです。(パンフレットより転写)


■茶室です。中庭に面してあり南側に丸窓、西側ににじり口を配した『松風庵』だそうです。
(パンフレットより転写)


■後座(能舞台の後ろの部屋)にあるふすまの絵です。このような絵が建物のいたるところにあります。絵の好きな方は必見です。(パンフレットより転写)

今回は唐津にある高取邸を見てきました。見ごたえのある邸宅でした。
ぜひ、機会がありましたら見に行ってみるといいかも。

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