歴史と自然への訪問記

福岡を中心に探索・活動しています。歴史と自然が好きです。日々感じるまま綴っていきたい。

与止日女神社と嘉瀬川伝説

2010年07月27日 | 歴史

与止日女神社は、高速の大和インターの近くの嘉瀬川の畔にあります。
神社の名前ですが、与止日女神社は、河上神社とも、淀姫神社とも、與止日女神社ともいい呼び名がいくつもあるようです。元々は河上神社と呼んでいたようです。

さらに嘉瀬川の上流には、あと2箇所も淀姫神社があって合わせて3箇所もあるのです。場所は古湯温泉と、さらに上流の無津呂にも淀姫神社があります。また、淀姫を祭っている神社は他にもあるようです。

これは興味がわきます。さっそく与止日女神社に行ってみました。
神社は嘉瀬川のすぐ横にあり境内から川を眺めてのんびりすることもでき、いい所です。


■与止日女神社です。河上神社、淀姫神社、與止日女神社ともいいます。



■神社のすぐ横には嘉瀬川が流れています。赤い橋の左側の山の麓に神社が写っています。



■これは何だと思いますか。大木(樟らしい)の根元です。由緒は次の写真に。



■大木の横にあった案内板です。

祭神は、與止日女命です。一説には豊玉姫命とも、神功皇后の妹ともいわれていますが、與止日女命のことはよくわかっていないようです。
創建は564年とされる。後陽成天皇から1602年、一宮の勅願をいただいたが、それがきっかけとなり100年以上も千栗八幡宮と肥前一ノ宮の地位を争うことになります。全国の一ノ宮が載っている本を見ると肥前の国は両社とも併記されていますね。

さて、嘉瀬川です。昔は肥前風土記では佐嘉川の名前ででてきます。嘉瀬川は上流には北山ダム、その下に嘉瀬川ダムを作っていますね。昔から暴れ川だったようで肥前風土記にも「この川上に荒ぶる神ありて、往来の人、半ばを生かし半ばを殺しき」とあります。現在は神社から嘉瀬川をみると、おだやかそうな川に見えるのですが。昔は違ったのでしょう。

さらに肥前風土記には、暴れ川を鎮めたく、県主等の祖大荒田(おおあらた)が、抗争を続ける土蜘蛛の大山田女、狭山田女(おおやまだ、さやまだ)といふものに協力を求める。土蜘蛛とは、時の権力者(朝廷)に恭順していない古代の土豪を指します。大抵は抗争の末、朝廷に滅ぼされます。

巫女として付近を統率していた大山田女、狭山田女より「下田の土を取りて、人形、馬形を作りて、この神を祭らば、必ずやはらぎなむ」との助言を得、そのとおりにすると荒ぶる川は鎮まったという。

ここに馬形がでてきます。つまりこの話は、治水というより抗争に勝利したという意味ではないかと。当時の馬(騎馬)は今でいう戦車のような存在だったでしょう。つまり、朝廷は土地の豪族(大山田女、狭山田女の一族)を味方につけ騎馬を投入して、この広い佐賀平野を平定したという意味だと思います。

もしかしたら、平定した土地に淀姫神社を建てたり、土地の神社に與止日女命を合祀させたのかもしれませんね。

大山田女、狭山田女は、賢女(さかしめ)と言われ、賢女が佐嘉(さか)となり、この付近の郡の地名は肥前国佐嘉郡となり、さらに佐賀(さが)と変化したようです。


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