歴史と自然への訪問記

福岡を中心に探索・活動しています。歴史と自然が好きです。日々感じるまま綴っていきたい。

雉琴神社に行きました

2010年10月24日 | 歴史

雉琴神社(きじことじんじゃ)は糸島市にあります。糸島市内では唯一の日本武命を祀る神社だそうですね。場所は糸島市飯原にあり、国道202号バイパス有田中央交差点で左折(福岡方向から来た場合)三坂交差点を右折し、しばらく行くと右手にあります。

神社の由来によれば、
日本武命は第12代景行天皇の第2皇子として生まれ、性勇猛果敢 父天皇に命ぜられ東方12ヶ国の荒ぶる神たち従わざる者たちを討たんとして、相模の國に至り国造にだまされて野原に入り火をかけられ焼打ちにあわれ給うが火打石、草薙剱により逆火をつけ給い辛うじて難を逃げ給う(火焼 やけどの神)

昔神功皇后高祖より御坂(三坂)を経て雷山に登り給い層々岐岳にて天神地祇を祀り戦勝を祈り給う後山をさがり(嵯峨里)給い此の所に宿陣し給う夜枕元に日本武命がたたれ賊徒討伐の法を教えられたという。雉子の鳴く声を琴に聞きて目覚められ帰還の後日本武命を祀り雉琴神社と崇め奉り此所を雉琴と名付けられた。
と記されています。

祭神: 日本武命(倭武命)
祭日: 9月23日

日本武命、東征の話を古事記よりひろってみると、
西征の後、景行天皇は東方の蛮族の討伐の命をだす。倭姫命(やまとひめのみこと)は倭建命(ヤマトタケル)に伊勢神宮にあった神剣天叢雲剣(草薙剣)と袋とを与え危急の時にはこの袋を開けるよう言う。

倭建命は相模の国で国造に荒ぶる神がいると欺かれて野中で火攻めに遭う。そこで倭姫命よりもらった袋をあけると火打石が入っていた。草薙剣(天叢雲剣)で草を掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くす。それから、この場所を焼遣(やきづ)といい、焼津に変化したといいます。静岡県の焼津の地名の起こりです。

相模から上総に渡る際、走水の海の神が波を起こして倭建命の船は進退が窮まった。后の弟橘媛が自ら命に替わって入水すると波は凪いだ。入水に当たって弟橘媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠む。

『さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも』

弟橘姫は倭健命の思い出を胸に幾重もの畳を波の上に引いて海に入る。
七日後、姫の櫛が対岸に流れ着いた。弟橘姫の御陵を造り櫛を収めた。

その後、倭建命は、足柄坂の神を蒜(ひる)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘姫を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ…)と三度嘆いた。
そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。


■雉琴神社の正面です


■神社の由緒


■境内に入りました。正面に見えるのが拝殿です。


■拝殿です。狛犬が両脇にひかえていますね。神殿はこの奥にあります。
 両脇に祠は見えます。


■彫り物です。鳥、その上は鬼でしょうか


■これも彫り物です。ちょっと見ずらいですが、龍のようです。


■拝殿の天井にあったもの。時計? いったい何でしょうか


■境内の大木です。中がえぐれていて、今にも倒れそうな感じがします。でも上は葉が生い茂っていて、根元がひろがり大地に踏ん張っていて生命力を感じます。

この雉琴神社より、さらに道路を西に向かって行くと、もいひとつ同名の神社があります。つぎからの数枚の写真はその写真です。


■もうひとつの雉琴神社の正面です。


■神社の鳥居には、見えにくいですが雉琴神社とかかれているようです


■境内です。拝殿や神殿はありません。でも、1段石で囲ってある中に、さらに石の杭で囲ってあり、その中に石の台があります。


■石の台の拡大写真です。何に使われるのでしょうか。また、先ほどの雉琴神社との関係はどうなっているのでしょうか。

この雉琴神社のすぐそばに、もうひとつ無名?の神社があります。地図には載っていませんでした。鳥居の東側100~150メール位ですか首を東にむけるだけで見えます。
それが次の数枚の写真です。


■鳥居は木(杉の木かな)で作られているようです。鳥居の向こう側に祠がみえます


■神社に近づいてから撮影しました。祠の中に、大きな石がご神体? が見えます。


■ご神体は大きな石が2段になっているようです。祭神、由緒、神社名は不明です。

雉琴神社を探索してみて、雉琴という名前は、いい名前だと思いました。雉子の鳴く声を琴に聞きてなんて絵になりそうです。


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