サブロー日記

随筆やエッセイを随時発信する

サブロー日記  先に行っちょいて

2006年10月31日 | Weblog
   サブロー日記   晩酌の後 彼は逝っちゃった 
  晩酌の後に不謹慎と言われるかも知れないが、彼は赦してくれるであろう。 「元気に晩酌はやりよるよ、」と聞いたのが数日前、これなら又飲もう、と内心楽しみに思っていた。池川で呑み助の三羽ガラスと言われた。その三分の一より、まだ布団の中に居る我輩に電話、「夕べ彼は逝った、、と。」「まあ、、、」。
  彼は、よう呑んだと言う顔で、奥さん、息子、娘に見守られながら安らかに寝ていた。長い闘病ではあったが、三羽の内、夫婦でこの歳まで生き延びたのは彼夫婦、よう頑張った。酔いのせいか、たまらなく胸が熱くなる。逝ったら内のも居るけ、やりよって!、わし等はもうちょっと飲んでから行くけ。


サブロー日記  久しぶりの昇竜の滝へ

2006年10月27日 | Weblog
サブロー日記  晩酌の後  
久しぶりの昇竜の滝
  今年の夏は暑っかった。暑いのに山に行くより川がよい。今年の鮎漁は8月に入るまでは漁にならなかった。でも暑さが厳しいので1匹も獲れなくても川に行った方がよかった。
  何と2か月も滝に行ってなかった。今日は恐る恐る行ってみると、水の取り口2ヶ所は砂でいっぱい、これを元に戻すのに大仕事、
良くなったがこの晴天続き、滝の水はアブの小便。なんとも滝の様にならない、紅葉はまだ2分程度。其の内雨が降ってくれるとよいがなー、、、、、。その後滝見台への草刈。滝への道の修理。一日フルに活躍?、これでまた川に行きたいなあ、、、、。


  


サブロー日記  晩酌の後に

2006年10月26日 | Weblog
  なかなか難しい、独りで夕食した後、晩酌の酔いが廻らないうちに後片付けをしないと、酔いが廻ると片付けるのがしんどい。で今晩はちゃんと出来た。
 春の誕生日のプレゼントに、娘より貰った単行本全8巻「坂の上の雲、司馬遼太郎」を今日読み終る。最後まで、どきどきわくわくの連続であった。
中味は、日露戦争であって、年輩の人でないとちょっと解りにくいと思うのだが。満州への移民、第二次大戦の負け、戦後の日本の平和、その原点はまさに、この日露戦争にあると私は思う。
 私達年輩(まだまだ若い)以上の者は、父母に日露戦争の事をよく聞かされた。「、、、、敵の将軍ステェセル、乃木大将と会見は、処は何処す水師営、、、、、、」の唄をよく聞かされた。この歳になるまで乃木大将を神様のように尊敬していたのだが?、この本を読んで日露戦争の本当の情況が、両国の資料と司馬氏の努力により、明らかにされた、この本、まことに意義あることと感謝と敬意を贈りたい。
 目からウロコ、、、、、。


草鞋を履いた関東軍 

2006年10月24日 | Weblog
   草鞋を履いた関東軍  6
      サブロー日記    18.10.24

 高知の室戸、26番札所金剛頂寺を後に、また高知で親兄弟の見送りをうけ、一路、元の茨城県の内原満蒙開拓義勇軍訓練所へと向かった。これで高知とも、親兄弟とも今生の別れになるかも?、、、、、心の中には一抹の寂しさが込み上がって来る。
 翌夕刻、なつかしの兵舎に落ち着くことが出来た。翌日より教練や農事の猛訓練が始まった。私たちの留守中、全国より集められた。食糧増産推進隊のおっさん達が訓練を受けていた。(終戦までに75.000人の人々がここで訓練をうけたと言う)。内原の訓練所は全国の食糧増産にも大いに貢献しているのである。
 10月。今度は、埼玉県鴻巣農事試験場、所外訓練の命令が出た。此処の訓練は数日で終わり、続いて北海道所外訓練が決まった。隊員一同より、ワーと歓声が上がった。三郎も北海道と言う処へ一度行ってみたいと思っていた。叔母が旭川に居り、主人は旭川駅の助役をしている。毎年北海道の鮭や数の子、お菓子を送ってくれる。あの叔母の居る北海道に行けるとは思いもよらぬ事であった。北海道までは長旅である。訓練所には乗車訓練用として列車が一両設置されていて、乗車マナーが教え込まれる。大勢の一般客の中、整然と乗車下車をするよう訓練されるのである。いよいよ常磐線内原駅より乗車、しばらくの間は整然としているが、指定車両であることもあって、すぐにわいわいがやがや、思い思いに席を立つものも多くなる。夜になると、これまた大変、座ったままでは眠れない。あるものは座席の下に新聞紙を敷いて潜り込み横になる。体の細い者は座席の上の網棚に上がって寝る者もいた。
 長旅もやがて青函連絡船の桟橋までたどり着く。そこで驚いた。囚人が縄で数珠繋ぎされ、官憲に連れて行かれていた。おそらく網走の牢に入れられるのであろう。生きている大人の人間が手錠され、それも大勢。国民挙げてのこの非常時に何たることぞ。三郎は初めてみる囚人、それをくくって引っぱっている人間。三郎は世の中と言うものの裏の裏を覗いた感で、この光景を強く脳裏に刻み込まされた。
初めて乗った青函連絡船、初秋の空はどこまでも青く海は穏やかであった。やがて函館。昔ふうに言えば蝦夷地である。北海道の開拓は満州開拓にとって、義勇軍教育の上ではよい教科書であった。分厚い「屯田兵」の教科書が配られた。北海道開拓には主に日露戦争に従軍した退役軍人が屯田兵として募集され、片手に鍬、片手に銃を持ち斧鉞(ふえつ)入らざる原野を開拓し今日の北海道の発展をもたらしたのである。吾が伯父、岡田清馬も旅順の城を落とし、退役後一時北海道開拓を夢見た人であったが、初志貫徹は成し得なかった。
 多くの先輩が血と汗で築いたこの大地、まだ見ぬ満州が想像される。荒野を走る車窓の風景は三郎にとって驚きの連続であった。
 「広いこたあー広いねゃ!」 あちこちで感嘆の声があがる。やがて叔母のいる旭川を通り過ぎ剣淵駅で下車。ここから四kくらい北へ行軍、白樺林の白い幹がなんとも絵に描いたように美しい、また落葉松の林、木々にからまった山葡萄の葉っぱ、早や秋の色に変わりつつある。このなんとも言えない風情を踏みしめながら馬車の轍をよけながら進む、案内の先導者が、あそこに有る、あの家にアイヌの人が住んでいる。との説明。一同顔を見合せる。別に変わった家でもないが、アイヌと言う先入観、偏見があり、何か異様な物でも見るように、そして一抹の恐ろしさが頭をよぎる。いまにも大きなマサカリを持って出て来ないかと、しかし住人は出てこなかった。 残念ながら?この訓練期間中アイヌの人に会うことは無かった。
 宿泊所は剣淵国民学校であった。空き教室に小隊ごと分宿した。
炊事は、校舎の前の道路を隔てた大きな倉庫のような建物の中で作られ、炊事作業は旭川の女学生の勤労奉仕でまかなわれた、何とその中に叔母の義理の娘さんも居た。世の中何と狭い事よ、この人とは挨拶程度で、親しく話すことも無かったが、大きくて美しい人であったと記憶している。
 作業訓練は各農家に配られ稲刈り、馬鈴薯堀が主な作業であった。
私も隊友、安藤君と或る農家に行き、稲刈りを手伝った。稲刈りは自分も家で随分手伝わされていたのでお手の物であった。ただ刈った稲を束ねる仕方が違っていた。池川のやり方よりずっと効率的であったがそのコツを覚えるのに時間がかかった。その農家では、私が借りて履いていた長靴に穴を開けた、との言う理由で私は首になった。
次の農家は馬鈴薯を収穫する仕事であった。畑の隅に大きなクルミの木があり、これを休み時間にとって食べた。初めて見るクルミ、初めての味、割るのに時間がかかり腹の張るようなものではなかった。又林檎の生っている木を初めて見た。が、まだ青く残念ながら食べることは出来なかった。
 数日後旭川の叔母が大きな袋にいっぱいリンゴを持って会いに来て下さった。リンゴは隊員全員に一個ずつ配られた。食糧事情の悪い中、有難いことで皆大喜びして頂いた。

 この宿舎、学校に幽霊が出る。との地元の人の話から大さわぎとなった。出る場所は、長い廊下の先。別棟だが渡り廊下で行ける便所である。出た出たの話が隊内で高じ、夜は一人では用便に行けなくなった。団体で行っても早く済んだ者が、「出た!―」と走れば、後の者は済まないものを仕舞い込んで走る始末。此の事が中隊幹部の知るところとなり、厳しいお説教、そして度胸試しの仕儀と相成った。
 暗い中、独りずつ便所まで往復するのである。この世に幽霊なんか居るはずが無いと、皆口では言うものの、やっぱり怖い。三郎の番になった。怖いが行かねばならぬ、行かねばならない。その顔色は今でも想像がつく、恐る恐る廊下の中ほどまで来た時、隣の教室から、にゅうーと人間が現れた。「中平一緒に行ちゃろう」吉岡であった。吉岡は窪川出身で、中隊では正義感の強いやんちゃ者であった。この心情は有難い、断るのも悪い、幹部に見られたら、大変であるが折角の好意を無にもせられん、この場合良い方に解釈しなければならない。三郎には何か心にかかるものはあったが一緒に行ってもらった。
 こんなことがあって早くも秋深くなり、雪降る中で馬鈴薯の収穫をする事も有った。やはり北海道は寒い。しかし満州はもっと寒いであろうと想像しながらここの訓練は無事終った。帰りには旭川の叔母の家に寄り、色々と馳走になりストーブで濡れた靴下も乾かしてもらい再び隊に復帰、車中の人となり津軽海峡へと急いだ。




晩酌の後

2006年10月15日 | Weblog
 晩酌の後 栗の渋皮煮 サブロー日記

今晩はちょっと酔いが足らないが、まゆおばのブログ、栗の渋皮煮を見て、かつままも「カレーのような」と言っていた。まったく全く、これではコックさんにはれない。
で、ちょっと栗のことを。
くりを池川の特産物にしょうと五十年も前より町挙げて生産に努力して来たのであるが、一時は農協が大忙しの時代もあったのだが、虫食いが多くなり生産者も嫌気が出て来り、また出稼ぎに出て行くようになりいつの間にか消えて無くなった。今では、生産に力を入れる人は一人も居なくなったと言ってよい。
栗の粒子?は非常に細く昔より高級菓子に使われて来たが問題は、鬼皮があり、その下に渋川が有る。これがやっかいもの、これをめんどうがらず、こなすのが主婦と言うもの。 栗を沢山もらっても、ちょっと有り難迷惑と思うのもよくわかる。
 そこで、栗の「渋皮煮」をもう一度復習しておこう。   吾がメモより。

栗20個をお熱湯にしばらく浸しておいて鬼皮を剥ぐ、この場合出刃包丁でやるとやりやすい。出来るだけ渋皮を傷つけないように。
これが大切、これに多い目の水をいれ、重曹をコサジ少々加え、楊枝が刺さるくらいに煮る。この際汁が真っ黒くなりあくが次々と出てくるのでこれを除く。煮すぎると渋皮がくずれるので注意。
これを水にさらしアクを流す、そして、もう一度軽く煮て水にさらす。これを鍋に入れ、水カップⅠ、砂糖カップⅠ、卵の殻Ⅰを加えて落し蓋をして中火でⅠ5分くらい煮て出来上がり、そして一晩くらい置くとあじがなじむ。壊れた栗はプリンすればおいしくいただけるよ。



晩酌の後

2006年10月08日 | Weblog
 サブロー日記 晩酌の後 鮎漁   18.10.8
 今日は日曜、ただいま晩酌終わりました。缶ビール1 お酒2合。これで今日の日記を書く気になれた。
今日こそ落ち鮎を獲っておかんといかん、もう川下に降ってしまう。と思って安居川へ、川内谷を入ると、もう其処はどこを切り取っても絵になる渓谷美。夏はどの淵にも数人漁師?がいたが、今日は誰も居ない、独り舞台、もったいないことよ。足元の水はあくまでも澄み、喉が渇くと手ですくって何処でも呑める。有り難いことよ。
今日は北国は大荒れの気象、ちょっと風が冷たい。漁は網漁、第1投10時。だかだが、何と午前中一匹の漁も無い。アマゴの小さいのが一匹。昼食は上の道路に置いてある車まで上がらないといかん。
すねが痛い、シップとサポーターをしているのだが。
昼食は自分でお気に入りの、梅干のおにぎり、そして里芋の串焼き、これが大好き、バナナ。ゆっくり食べて午後の作戦、川丈あの淵、あの瀬、頭に鮮明にある。だがさて午後どこに行くか?。本日ゼロ匹では、わが沽券にかかわる。よし最後の切り札、あそこへ行こう。取って置きの穴場、他人には言われん。午後3時になってやっと獲れ出した。大きいのを10匹、もう腹には卵を持っている。
今日は失敗あれこれ、胸までのウエットスーツ、それより深いところに落ち込み、冷たい水が胸からヘソへそれから、その下へ下へと、この気持ち、何と何とスーツには水いっぱい。陸に上がると何と巨人の如し。
晩酌の酔いが覚めてきた。やっぱしわしは縄文人か、山の禽獣を見れば獲りたい、川の魚を見れば血がさわぐ?。原始人から一つも進化してないようである。サブロー