サブロー日記

随筆やエッセイを随時発信する

サブロー日記 晩酌の後に 今年最後の

2006年12月30日 | Weblog
サブロー日記  晩酌の後に  今年最後の   サブロー日記  晩酌の後に  今年最後の
 愈々年も押し詰まった今日。今日は昨日とガラリと変わって小春日和、店の大掃除にやっと腰を上げる。そこそこにして正月用の料理に取り掛かる。久しぶりにサバずしも作ってみたい。鮎ずしも。数の子は昨夜浸けていたものを丁寧に薄い網のようなものを取り除く。そして郷土料理家の宮川逸雄さんの料理の本とにらめっこしながら色々つくる?。次に黒豆も煮てみたい。ところがなかなかめんどうくさいお手本。で赤豆?にしてみょうと隣の田頭でそれらしい豆を買って来て煮る。スーパーで売りよるようになるつもりでガスの火を弱め出来上がりを想像しながら久しく待つ、その間に散らし寿司の材料の取り揃えをする。そしていよいよ豆のフタを静かにしずかに開けてみるとおかしい、豆の形がない、崩れている。箸になかなか挟み難い、これはおかしい、こんなはずではなかったに、あわてて色々するうちに何とぜんざいのようになり豆の形が無くなってしまった。これはたまらん、どうしょう、よっしゃ、こうなったら羊羹にしてやろうと考えた。さてどうなることか。

 今年も色々やった。ハマちゃんと安居銅山の旧道を三日かけて踏破した事が一番の出来事。また三好学、喜代子さん、くりけいさんほかの皆さんの努力により「百姓一揆逃散の道」、予土往還高山道りを世に出すことが出来た事は特筆すべき出来事であってと思う。
 来年も元気でうんと頑張りましょう。皆さんよいお年をお迎えください。サブロー


草鞋を履いた関東軍  7

2006年12月14日 | Weblog
  草鞋を履いた関東軍   サブロー日記  ○7
 北海道から内原までは長い旅である。青森の駅前で買った赤いリンゴが網棚の上に、あちこちと見える。この食糧難の時代、さすがリンゴの国、青森であった。
長い旅の疲れも、武蔵野の面影を残す小楢の林を見ると、もうそこは茨城県東茨城郡下中妻村内原である。この年を越すと我が隊も憧れの満州へ行ける。この春、同時に入隊した各県の中隊は殆んど渡満していた。推進隊のおっさん達も少なくなっており、広い弥栄広場も静かなたたずまい。ただ警備本部と防火班の訓練が何とか活気を保っている。
12月に入ると、また所外訓練の命が出た。今度は千葉県潮来町の干拓作業である。野口雨情の「船頭小唄」で、有名な潮来出島である。終日近くの霞ヶ浦航空隊の練習機が飛び交っていた。
作業は湿原を開墾し、排水溝を作るものであった。休日の一日、を利用し、数キロ離れた鹿島神宮への行軍があった。参道に剣豪、新当流開祖、塚原卜伝の祠があり、こんな所に?と思った。 作業も慣れてきた或る朝のこと、小さな事件が起きた。
 「各小隊全員集合終わりました!」わが川村小隊長は、凍てついた四囲の空気を破るがごとく、大声で本部入り口で叫んだ。この朝は特に寒く、刈り倒された葦の上に真っ白く霜が降りている。しかしなかなか中さん出て来ない。(この頃より親しみをもって中隊長を中さんと隊員は陰で呼んでいた)。待ちどうしい隊員はがやがや、ぶつぶつと騒ぐ。小隊長は再三「静かにしろ!」と怒鳴る。まだ出てこない。この寒いのに!、やがて藤野幹部。桑江教練幹部。広瀬中隊長が出て来た。この朝、中さんの口髭が一層威厳を光らせていた。出て来るなり、「川村、この騒はなんだ。こんな事で小隊長が務まるか!」と怒鳴った。小隊長が、中さんに怒られるのをわれわれ隊員は初めて見、皆顔を見合わせた。
朝礼は事無終わった。我々隊員は各作業場に散ったが。頭に来たのは小隊長。隊員全員の前でこっぴどく怒られ、小隊長としての面目が無い。特に川村小隊長は純粋無垢、真直ぐな人であった。小隊長は隊員を送り出した後、本部に駆け込み「小隊長を止めさせて下さい。そうでなければ命令退所させて下さい。」中隊長の前に願い出た。中さんもちょっと言い過ぎた。とは思ったようであるが、なかなかの頑固者で、両者の対立は午後にまで及んだ。藤野。桑江両幹部が仲に入り色々ととりなしたが、小隊長は頑として受け付けない。見かねた桑江幹部が「川村君もそう言っていますから、暫く一般隊員でやってもらったらどうでしょう、」。中さんも、渡りに船と「ではそうする事にするか、、、、、」。小隊長は「僕は二度と小隊長は致しません!」。居並ぶ幹部の前で宣言した。
彼は二度と小隊長をすることは無かった。此の事はやがて満州で意外な方向へと進展していった。
やがて所外訓練も終わり。渡満の日も決まった。渡満用の行李、新調の服、シャツ、跨下、その他が支給され愈々の感を深くした。私達は満州に行くことに就いて一点の曇りも、何の疑いもなく、ただ唯皇国の為、身を満州建国のために捧げる覚悟のみであった。毎日君が代と、海ゆかば、で心身共に鍛えられて来たのだ。
 昭和19年2月13日。弥栄広場で、厳粛な渡満壮行式を終え、東京に出て、宮城遥拝、上野の国立博物館を見学 、東海道を下って伊勢神宮へ、ここで武運長久の祈願の神事をしてもらい、一路新潟港へ、そして希望を胸いっぱいに膨らませ風雪厳しい日本海へと船出したのである。   つづく、、、







枯れはマークを若葉マークに

2006年12月07日 | Weblog
枯れはマークを若葉マークに 高齢者 運転適正検査
 嬉しかった、最後に教官。「皆さんに出来るだけ長く車に乗ってもらいたいと思います」この一言、まことに有り難く思った。また勇気付けられた。出来るだけ早く免許証を自主返納して下さい、と言われるのと大違い。4時間ばかりの研修を受けた。技能は3年前と変わっていなかった。最後に枯れ葉マークの説明があったので私の意見を申し上げた。このマークこの場の皆さんは付けている。私は付けてないのだが。
このマークでドライバーに注意を促すのはよい、賛成である。が、枯葉がいかん。濡れ落ち葉を連想する。船頭小唄を連想する。老人に対しての差別である。是非これを、若葉マークと同じにしてもらいたい。注意を訴える効果は同じ事なのであるから、、と。どうせ無駄な抵抗とは思ったのだが。一言、、、、、、、、。
世の老人ドライバーの諸君。みんなで声を上げてもらいたい。

ハンドルも軽く我が家へと、ところが、野老山の道路工事現場まで来て、なかなか進まない工事と前々から思っていたのだが、今日は時間があるので、写真に撮って置こうと車で野老山の学校の方へ上がり。貴重?な写真をとることが出来た。早い工事の完成を願って、、、

サブロー日記  鮎漁

2006年12月07日 | Weblog
今年の鮎漁サブロー日記   今年の鮎漁
一言でいえば私にとっては良い年であったと思う、鮎はその年年によって遡上の具合、冷水病の事情によって大きく左右される。今年、初めは冷水病で多くの鮎が死に、今年もだめかと思っていたが、7月の終り頃より魚影が見え初め、10月末(池川に限り)まで楽しむことが出来た。
漁の総決算は先日の池川応援団の忘年会で皆さんと共に食し、満足感、達成感で果たすことが出来た。新調の網もぼろぼろになり戦いの激しさを物語っている。 森下雨村の「猿猴川死す」でもないが、いつまでたっても少年の様な心が抜けず。休日には一日中魚を追って池川の清流を駆け回っている。なんと、もったいない事よ、この環境。
でもただ鮎ばかり追って居るのではない。今年の発見は、安居銅山への起点となる。川内谷の馬立の河床の岩盤が現れて来て。昔ここを渡ったと思われる飛び石状の岩が連なっている。60年の川歴?の私も初めて見る。この少し下流の河床に、断層らしきものを先年見つけていたのだが、これは埋まって見えなくなっている。我輩が特に注意しながら川をこぶって居るのは、温泉の発見である。川底では硫化水素が出ていても、大量に出てない限り発見がむつかしい。大渡の下に出ているのは確認済みであるが、安居川で発見したい。そして、もう一つ、大正ゴリ、オコゼの棲息状態である。近年ほんど見えなくなった。このオコゼ、大正時代に入って来たものであろうが今や絶滅か?。  しかし今年も居った。大きいオコゼが網に掛かった。うっかり素手でつかむと、おおけな針で刺される。とても痛い。今年も確認出来て一安心。ところが近年変なやつが入って来た。モツゴでもハヤでもない、しいて言えばモツゴに似ているが、もっと頭が尖って体に薄黒いツートンカラー。これが昨年より増えている。誰か名前を知るまいか。平成ハヤとでも名づけておこう。

サブロー日記  晩酌のあとに

2006年12月04日 | Weblog
サブロー日記  晩酌の後に
 今日はちょっと二日酔いなのに晩酌はしっかり、克母がちょっとあきれ顔。昨夜は池川応援団の打ち上げ、忘年会を我が家でやる事になった。と言うのも、今年は我輩の鮎漁が例年なく豊漁?だったので、前の会でついつい口を滑らして「鮎を焼こう」と言ってしまった。しもぅた。と思ったが、後のまつり。総員16人も集まってもらった。にぎやかな楽しい会であった。初めて我が家に来てくださった人。岡林さん。氏次さん。小野さん。細木の奥さん。それにしても会計の責任のある人、くりけいさん欠席、でも珍味なる物の差し入れ、皆大喜び。また小野さん、立派な柚子沢山皆んなに下さる。
   ブログを通じてみんなあに御礼を申し上げます。    
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