サブロー日記

随筆やエッセイを随時発信する

草鞋を履いた関東軍        23

2011年04月28日 | Weblog
草鞋を履いた関東軍       23

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 昨日焼酎を飲まされ、酔っぱらった事件?は何とか家の者には気付かれること無く今日が始まった。
年下の兄貴?省造が「中平今日は街へ遊びに行こう」と言う、年下の省造が、「中平」と呼捨てにするのには三郎もちょっとは頭に来るのだが、それで良い、それでいい、我は居候の身、と自分に言い聞かせる。「はい!連れて行って!」二人は連れ立って市街へと向かう。街までの道は使役に出る度に通っているので、三郎にとって珍しい道ではなかったが、今日は初めての市内見物、そして省造が生まれ育った家「桂月」と言う大きな料理屋に案内してくれた。省造は「ここが内の店だったの、、」とつかつかと中へ入って行く。そこは我が伊之助老夫婦が腕一つで築きあげた市内随一の料理屋であった。が終戦と共に、使用人の朝鮮人の手に渡ったのである。戦時中は軍関係のお客で大繁盛したと言う、三郎も入って行くと、元従業員であったと言う人が出て来た。二人を見て一瞬顔を曇らせたが、すぐ愛想よく応じてくれ、唐辛子を真っ赤に振りかけた、辛いからいうどんをご馳走してくれた。店を出て、今度は映画を見ようと言うことになった。日本人は入れないというのだが、省造は、黙っていれば分かるものか、入ったら話をしないとの約束で木戸をくぐった。場内は満員の朝鮮人、その中へ割り込んだ。映画はソ連ものを朝鮮語で上映している。何を言っているのかさっぱり分からないが、洋画を見たことも無い三郎は興味津々、二人は無言で一ときを過ごした。
その後、省造が通っていたと言う中学校の裏山に登った。そこには立派な忠霊塔が建っていた。省造はこの塔に登ろうと言う、裏側に廻ると狭い入り口があり、直立した梯子段があった。省造はなかなか手際よく登る。かつては彼等の秘密の遊び場だったのであろう、三郎はいくら戦争に負けたとは言え、英霊の祭られている塔に登るとは?と尻込みしていると、上からの声、恐る恐る暗闇を手探りで登ると市街に向けて小さな窓があり、そこを覗くと、空襲をうけなかったという美しい軒並が手に取るように見える。沖合には、先日焼酎を飲まされた石油会社の大きなタンク、その横に倉庫が続いている。その向こう海に突き出た飛行場らしき物が霞み、すばらしい眺めであった。
 やがて華が通っていたと言う女学校の横を通り街中に下りて来た。街は戦後の混乱期とはいえ、日本人から朝鮮人へと主役が交代し、復興へと活気が見られる。オモニの色とりどりのチマチョゴリが行き交い、その中ひと際目に付くのが進駐しているソ連軍のマダム達である。上級将校が連れて来ているのであろう、高級毛皮を首に巻き、勝者たる威厳を見せつけながら、大きな胸を揺るがしながら闊歩している。しかし折角のところだが歩きながらリンゴをかじっている。省造が言う「あれを見いや、ロスケの女がリンゴを食いもって歩きよる、、、、」。なるほど「お里が知れるねえー」。
 二人は西日を背に受け、あのソ連の怪しい無線の張り巡らされた建物をすり抜け家路に急ぐ。掘りきりの畝を曲がり海に出ると、地底に響くような大音響、ズドーン、ズドーンと。さて又戦争になったのかと思うと、ソ連の海軍が、日本が伏せている機雷を爆破していたのである。水兵を乗せた掃海艇が勇ましく走る、その艦上からピーピーと笛の合図と共に爆雷を海に投げ込まれていく、これが順々に爆発していく、これは面白い、思わぬショーに二人はご満足、日本の機雷に命中すると、その爆発して起こる水柱がひと際大きく、その中央に黒く濁った水柱が立ちあがる。この松濤園付近の海岸は有名な海水浴場であり戦争の時は敵前上陸にもってこいの場所でもある。日本はここに入念に機雷を敷設していたのであろう、二人はなかなか見ることの出来ないこの珍しい水芸に見入っていた。
 帰りが少しおそくなったが三郎にとって今日一日楽しい休養日であった。
 年の瀬が迫って来ると、ここ北朝鮮も満州のように寒さが厳しくなって来た。今日は省造と裏庭にあるアカシヤの樹を切って温突(オンドル)用の薪を作る事になった。この家には四畳ほどのオンドル部屋があり、食事時は皆この部屋に集まるのである。三郎にとってオンドルは初めてのものである。焚き口は普通の竈と変わりはなく、大きな羽釜が据わっていて、ここで火を焚くと、羽釜のお湯は沸き。その炎と煙が床下の迷路のような煙道を通り床を温める仕掛けになっている、一石二鳥、よく考えられたものである。朝鮮独特のものであろう、朝鮮人のどの家にもこのオンドルは作られているという。オンドルの部屋に座ると、足や腰の下からここちよい温もりが伝わって来る。よく考えたものである。
この家の裏側は別荘らしく、白く塗られたベランダがあり、その先に砂浜が続き遠浅の海が開けている。夏は海水浴客で随分と賑やかになると言う。この裏庭に七、八本のアカシヤの木が植えられていた。夏は涼しい木陰になるであろうに!省造は何処からかくたびれた鋸とナタを出して来た。この立派な樹を薪にするのはまことに勿体無い事であるが、どうせ夏までは住めないこの家、切る事には惜しみは無かった。二人は代わる代わる鋸を引いた。挽く毎にうぐいす色の大鋸屑(おがくず)が新しい匂いと共にリズムよく出てくる。一本二本と倒され、挽かれ、割られていく、これを三郎は腕いっぱいに抱え木小屋に運んでいると表の方にジープが止まり、四人ほどのソ連兵がつかつかと入って来た。二人は将校らしく肩章が光っている。あとの二人は従卒であろう、三郎はあわてて省造に知らせた。省造もとんで来た。しかし我が家の主、重雄小父さん、少しも慌てず、丁重に座敷に案内し、どこで手に入れたのかコーヒーやウオッカで応対。この小父さん、このロスケと知り合いなのか?三郎の心は穏やかではなかった。終戦後すぐ朝鮮側は日本の警察に代わって保安隊をつくり治安に当たっていた。日本側は日本人世話会を創り、ソ連や朝鮮側と引揚げや労働使役の交渉に当たっていた。わが主重雄は元山市日本人世話会の主たる世話人で、その会計の役も引き受けていた。従ってソ連の将校とは面識があり交際があったのであろう、賑やかに、二時間ほどを過ごし帰って行った。三郎にとっては満州でソ連軍と遭遇して以来随分とひどい目に遭わされて来たので、恨みこそあれ友好の気はさらさら無かった。しかし今日の主の応対なんたることぞ!あのロスケにあんなにぺこぺこして、三郎は怒っていた。数日後事件は起きた。 つづく

草鞋を履いた関東軍          22

2011年04月03日 | Weblog
鞋を履いた関東軍       22
  2011-4-2
     居  候 (いそうろう)             
やがて街はずれに差しかかる。大きなアンテナを張り廻らした建物があり、赤ら顔をしたソ連兵が銃を抱えて警戒している。何か軍事的重要な施設であろう、そこを横目に見ながら掘り切りを曲がると大きく海が開け、崖下に白い波が打ち寄せていた。
 三郎は満州から、毎日毎日鉄路伝いに歩いて来た、その足に大きな靴づれが出来ていて、そこが痛む。早く何処かに預けてもらえんろうか、と思いながら足を引きずり引張り、小父さんの後に従う。この様子を見かねたのか、かの小父さんは道端の民家に立ち寄り、下駄を借りて来てくれた。知り合いの家だったのであろう。三郎は早速下駄に履き代える。この下駄の感触何年振りだろう、そして関東軍ではないが、下駄を履いた義勇軍となった。下駄履きでは戦(いくさ)は出来まい、あの関東軍の草鞋(わらじ)を思い出し、ちょっとおかしく思った。やはり下駄は下駄、カラコロと音がする。いや!そんな悠長な感慨に浸る場合か‼三郎は我にかえり、とぼとぼと主に従う。この親父、見かけは怖そうな人だが、こんなに親切な人なのだな、しかし何処まで連れて行かれるのだろう、市街はとっくに離れたのになかなか配ってくれない。
 松林を抜け海岸通りに出た。そこには赤い屋根、白い壁の洋風の建物が海辺に風情よく並んでいる。そしてアカシヤの並木、その梢を見上げると、秋の雲が流れ、早や冬がそこまで来ているようだ。
 しばらく歩くと、この鷲鼻の小父さん、立派な洋風の家の前に立つと「ここじゃ!入れ」と言う。入れと言われても、ここは見ず知らずの、赤の他人の家である。玄関をくぐるのが怖かった。三郎の持ち物は、満州から背負ってきた空っぽのリュックと、垢やシラミのついた毛布一枚。促されるままにそっと敷居を跨ぎ入った。食うや食わずの痩せた体がさらに縮む思い、この家は今連れて来てくれた小父さんの家であった。
 目が覚めた。ここは何処だろう、北満の義勇隊訓練所を出てもう三ヶ月になろうか?疲れはてた体、その中から眼(まなこ)だけが目覚めた。天井には丸く大きな唐草模様が描かれている。まだ五体は眠っているが柔らかい布団に包まれている。ちかくで波の音が聞こえる。ここは竜宮か?天国に来たのだろうか? そうかここは昨夕連れて来てくれたあの小父さんの家だ。爪先を動かしてみる。動く、手も動く、生きているのだ。徐々に五体に気が廻り、夕べこの家に連れて来られた事、そして渡満以来の出来事が思い出される。農民の父と言われた我らが加藤寛治先生は「興安の嶺に植えばや敷島の大和心を日の暮れぬ間に」と詩ったが、もう既に日は暮れていたのだ。所詮他人の土地に、いくら理想の樹を植えてもよい実を結ぶわけが無い。三郎は命からがら何とかここまでたどりついたが。さてここからどうやって日本に帰ろう、この家に何時までも厄介になるわけにもいくまいが。
 三郎にとってつらい居候の日々が始まった。ここは元山市街から少し離れた有名な景勝地、松濤園と言うそうだ。前には永興湾が開け、遥かに葛麻半島を望む別荘地である。この家の住人は、白髪が剥げあがり、入れ歯の光るご老体、その風貌は海千山千をくぐってきた御仁に見える、この人がこの家のおお大将、主である。その女将さんは口達者の、小柄な賢いお婆さん。二人は日露戦争後、多くの日本人が大陸に渡り一旗挙げると言う時勢の流れに乗り、日本を後に、ここ元山で料理屋を始めたそうだ。そしてその長男重雄夫婦と、その赤ん坊、重雄は元山市の日本人世話会の役職を務め、避難民の救済、そして地元朝鮮人や、占領軍ソ連との交渉役をしている。そして絵が上手でオシャンな二十歳くらいのお姉さん聖子。そして三郎より年下であるが体も教養もはるかに兄貴分の中学生の、次男、省造。その下、華と言う明るくて美しい女学生。その下、五歳くらいと思われる可愛くてお茶目な幸子。この大家族の中へ三郎は居候することになったのである。居候の身、根掘り葉掘り家庭の事情を聞くわけもいかず、これ以上家庭のことに触れる事は無かった。 とは言っても小さな幸子はいったい誰の子だろう、知る事はなかった。
 三郎は、ただ居候していては何とも申し訳の無い事、何とかこの家に少しでも役立つ事をしなければと思う、しかし何もする事は無い、「居候三杯目にはそっと出し」の川柳があるが、とても三杯目を出す勇気は無かった。食事は三郎がかって食した事の無い海の幸山の幸を使った、居候にはもったいない料理の数々、さすが料理屋の料理である。
数日を家の周りの掃除をしたりぶらぶら過ごしていた。これが居候と言うものだ、と自分に言い聞かせていた。それにしてもこの家の人皆な暖かく接してくれる。これが余計に身にこたえる日々であった。 
幸いこの頃進駐しているソ連軍や、朝鮮側から日本人に対し使役が強要されていた。日本人家庭にはそれぞれ、その出役の要請が来た。この家にもその出夫の割り当てが来た。当然ながら三郎はこの家の出役人として出ることとなった、これでこの家に役立つ仕事が出来る事となり少し荷を軽くする事ができた。使役は主に日本から奪い取ったあらゆる物品、飛行機のエンジンから、レンガに至るまで。ソ連もドイツとの戦いで国内の経済は随分と疲弊していたのであろう、こんな物までと思われる、なんでもかんでも、かっさらって行く。その日本からの戦利品、それを日本人を使って船に積ませるのである。これが負けた者の運命なのだろうか、来る日も来る日も二交代で船積みが続く、三郎は居候の身、いつも夜間の出役を申し付かる。三郎はこの盗られて行く膨大な品物の中から、何か我が居候の家で役立つ品は無いものか、この大泥棒から、その上前を頂戴しようと何時も目を光らせていた。ある日の事、大きなカマス(わらで編んだ袋)の中にローマ字でインサイドベルトとラベルの貼った真新しい真田(さなだ)紐(ひも)の巻きを見つけた。これなら弁当袋に入れておけば下船の時の検問に引っかかる事もあるまい。何かを盗って帰るのが居候にとって我が家へのご奉公であり勤めであると、我なから心に決めていた。先日は石鹸を、缶詰を、又生ゴムを腹に巻いてとって帰ったことがあるが、この生ゴムは使い物にならなかった。今日の獲物は絶対お役にたてると思って交代の刻を待った。通訳の人の笛が鳴った。何段にも仕切られた船底から、はい上がる。皆疲れはてた表情で検問を待つ、三郎は今まで捕まった事は無かったので、あえて胸を張って通ろうとしたのだが「マテ、ダバィ」ときた。列から外され、身体検査となった。ちょっと弁当袋が膨らんでいたのがロスケ(ロスケとはロシヤ兵のことを恨みと軽蔑を込めての呼称)の目に止まったのであろう。袋から真田紐を取り出し、三郎の首に巻き付けちょっと持ち上げられた。一瞬息が止まったが直ぐ降ろしてくれた。やれやれ今日は大失敗であった。先日は袋の底からビンに入った薬を見つけ、持ち帰り、満州からの靴づれに塗って大変重宝した、これは天からの与え物だと思った。
船積みが終わると、今度は、市街地より遥か遠い北の港湾まで、ソ連の大きなトラックで連れて行かれ、石炭を船に積む作業をさせられた。この作業も何日も続いた。使役に出る日は何時も弁当を作ってもらい持って行くのだが、この弁当が何よりの楽しみ、料理屋で使っていたのであろう、漆塗りの弁当箱。この立派な弁当箱を見るたび思い出すのは小学生の頃母の作ってくれた弁当である。お昼になると弁当を抱えて、学校の下の涼しい川原に降り、みんなでよく食べたものであった、戦時中のこと、弁当は麦の多く入ったものだ、箱は梅の酸と塩で腐食しかかった薄いアルミの箱であった、この弁当箱が嫌でたまらなかった事を思い出す。それに比べ今この朱塗りの箱、もったいない事よ、と思う。しかしその蓋を開けて見ると、ありゃあ?ご飯が三分の一ほど隙間がある、、、。そうか、ここは街から一時間ほど悪い道路を嫌と言うほど車にゆられて来ているのだ、そのゆれで弁当の中身が一方に押し詰められているのだ。弁当だけを楽しみの三郎をがっかりさせる。この現象?はあの親父さんの奥さんが食事当番のときにおこる。聖子姉さんの時はいくら揺られてもぎっしり詰まっている。弁当の詰め方に文句の言える身分でない、筍生活へ赤の他人が転がり込んでいるのだ、主婦としては一粒の米も節約しなければならないのだ。この事はよく分かる。何も言えることではなかった。
真っ黒になる石炭積みが数日続いたが漸く終り、今度は朝鮮人への使役となった。この日は測量の手伝いをさせられる。その昼休み、測量用の望遠鏡でソ連兵の駐屯場所を覗き見することが出来た。ソ連兵とは長いつき会いをして来たので珍しい事ではないが、この望遠鏡で覗き見するのも又趣が違う、木陰で寝そべっているやつ、歩哨に立つ者、煙草を吸っているやつ、トランプをやっている、その腕の刺青まで手に取るように見える。そのぞんざいなソ連兵の姿を笑い、我々にも覗かせる事は、朝鮮人も心ではソ連兵を蔑視しているのであろう、朝鮮は日本に対し戦勝国ではないが、日本人に対しては恨み満々で厳しい態度である。ソ連を背にすれば勝ち組なのだが、朝鮮人も日本人としてこの戦争を戦って来たので、やはり朝鮮も敗者として扱われている。従って朝鮮に有る、あらゆる物資を盗られてゆくのを指をくわえて見るより仕方が無いのであろう。今は複雑な立場の朝鮮なのだ。
 測量を終えて山を降りると、石油会社だったと言われる大きな倉庫が幾つもならんでいる、その前に集められた、他の作業班の人も来た。さてまだ何かやらされるのかと思いきや、焼酎を飲めと言う、一列になり一人ひとり小さなコップに配られた、これがキツイ焼酎。使役には大人も三郎の様な少年も多く居たが、大人子供関係なし、これが使用者側、朝鮮のせめてもの配慮なのであろう、こんな強い酒飲んだ事のない三郎、ふらふらになった、居候が千鳥足では家には帰れまい、困った。