かなり深刻ではある。
「我々の方が正しい」
”彼ら”は、その態度を崩してない訳だ。
”それ”は、平成に、いや令和になっても、「王の権威」を持つ、或いは「大賀さん」それを設置した、”それその物へ向いている”訳だ。
”それ”が機械化された今も、「王の権威」大賀さんの決定は変わらず、そして”彼ら”はその態度を崩してない。
今の”自分”としては、大賀さん、その決定に問題がある、とは言えない。
しかし、”それ”で有る限り、彼らの否定はそこに有る訳だ。
状況に問題がある?のは。更に「大賀さん」それにとっても、彼らの存在は意味がある事だ。「大賀さんの決定に逆らう」その時、バットマンは必要とされ、そして或いは彼らの存在があってこそ「衝突」右か左か?の対立も発生する。そこで一面では「無意味な浪費」を消費してこそ、それは”大賀さんの糧になる”訳だ。ちょうど、「デス・ストライディング」のプレイヤーキャラが抱えている赤ちゃん?の様な有様ではある、「大賀さん」その視点では、だ。それが暴れる時、そこからエネルギーが発生し、プレイヤーは、「大賀さん」は命を長らえる事が出来る。
世界はまだ、危機的状況である。「王の権威」それに打開を求められているなら、プレイヤーは例え単なる配達人でしかないとしても、世界の崩壊へ立ち向かわねばならない、訳だ。
「無理でしょう?」
…不意に、そこに何かの断言はある。
世界の崩壊は止まらず、プレイヤーは困難を前にダメージを受けつつ、やがては抱えた赤ん坊ごと、何かの破綻へ陥る、訳だ。何かの絶望へ挑む様は、或いは彼らが背負った物、だろうか。物語的にはともかく、今の状況で良いイメージはあまり、無い。
…ここは、昭和天皇の否定を受けた奈落、である。
それは今もまだ続いていて、重い窮乏と危機感と共にある。
彼らはとにかく、”ここ”で勝たねばならない、訳だが。
これは自分にとっては「先輩」方の世界、ではあり、そして、実は自分の設置した「大賀さん」それによって発生した世界、でさえある。
誰の責任だ?
返答に窮しつつ、思う。
「大賀さん」プレイヤーの人々は、そこで何を視ているのだろう。
「正しさ」それは、何処に。