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あげちうのブロマガ

あげちうの日々の色々な事

楽しい職場と言う名の幻影

2019-11-02 23:15:26 | インポート

「理想の監督とは?」だ。

監督は何をするか?と言うと、実際はほぼ、何もしない。
特に今なんか、外部に「ストリード」それを求める時、それに問題が無ければ後は殆ど「居るだけ」だ。しかし、もちろん現場は、その時の方向性、価値感?それを監督に依存する。監督はただ、”それ”に対して良いか悪いかを示すに過ぎない。

しかし、その時、分岐の様なモノはある。

現場重視で行く時、「これが足らないから創れ」は、言えない。
「これが足らないので、”創ったから”これを使え」は、言える。

前者がクスィーガンダムであり、後者がペーネロペーである。

前者を認める時?現場は、理不尽な暴君に支配される事には成る。
その時、後者なら、その「足りない!」苦境を打開したのは、その監督のスキルだ。

今の感覚で言えば、文句なしに後者、ペーネロペー一択、である。

監督はその、不測の事態を自力で補える、そんな能力を持って無ければ成らない。
しかし、そんな「ペーネロペーで」なら、クスィーガンダムは「いらない」のだ。

いらない。

クスィーガンダムで、成功しない、訳では無い。
ただ、劇中でもそうだが、うっかりするとテロリズムに傾倒し易い。
監督の横暴が許されるから、だ。現場に無理を強いる事が許されてる。

しかし、結局は運用内容、正義の上で使用されれば、それは十二分に有能ではあり、そしてそう言う状況、”それ”が窮地を打開し得る事態それは当然の様に発生する。

「貴方は昔、歌手を目指したそうだね」
「いや、目指したというか」
「歌いたまえ」

”それ”が、新たな可能性を切り開かない、とは言えないのだけど。
現場としては…ちょっと困るだろう、人によるが。

正義の上で、善き人が、良き目的として運用すれば、”それ”は無意味では無い。
ペーネロペーにしろ、悪しき目的で使えない訳じゃないだろう、しかし、自身の上位を持ち、その存在が無ければまともな運用が出来ない?と言う大きな制約は、何かの「枷」を持った安心感、そう言うのはある。

今の想定で、クスィーガンダムは平成の間、結論で悪しきパワーによって運用されてしまった、そう言う面は多々あり。そもそも「ペーネロペーで行く」事に決まった物を反故にして”これ”を使い続けた様な感じだ、それはそのまま、テロリズムに成っていった、可能性はある。

小説の通りに成っていく様な、その是非ではある。

クスィーガンダムは、結論で言うと否定された。
あくまでも、同人市場での存在に限定される様な、そんな。

そこに出来てしまった物、だ。
同人では、結論では暮らしていけない。

それでも、それはそこに有るのだ。



次の王を選ぶ戦いとその後

2019-11-02 09:22:29 | インポート

その時、”王様”が言った。

「最後に、一人一個、欲しい物を上げよう」

その時に、その人は「グラディウスでの成功」を求めたが、
あげちうは「FM-NEW-7での重ね合わせルーチンの実現」を求めたのだ。

その人は、グラディウスを創れるチャンスを下さい、とお願いして。
あげちうは、ゲームを創れる能力を下さい、そうお願いして。

現状、後者は或いは王様だが、前者は「無能」そう言われる状態。


感覚の帰結として、「クスィーガンダム」それは、”コナミの”アーケードゲーム指南書、ディレクター虎の巻、とでもいう物だ、ったが。
「ペーネロペー」それは今も、「あげちうの」ゲーム制作指南書、創作虎の巻、と言うモノに成っている、訳だ。

どっちが欲しい?と言われた時、ほぼ間違いなく前者だろうけど、造形的にはクスィーガンダムと、ペーネロペー、ではある。

良くも悪くもストーリー的にも、前者はテロリストに渡ってしまったが、後者は腐敗した連邦軍の管轄のままだ。前者はかなりの無理をしようとするが、後者はしない。

とは言うが、前者こそがあの、「グラディウス」それを作ったのであり。

良くも悪くも、「閃光のハサウェイ」それは、富野監督直々の創作である、プロット的な物は外部であっても、だ。「他は?」それは、その時は出てこなかったのだろうか。「どっちか?」だ、今後の話として。色々考える上でも、富野監督の状況でもペーネロペーの方が優先、ではある。「現場のスタッフに、その能力以上は要求出来ない」のだ。納期も限られ、予算も無く、期待し得るスキルさえ疑問がある、そんな環境での「それでも結果を出す」何かとして、ペーネロペーそれは”意味のある結果”ではあり、評価はし得る、多分。

当時の問題ではある、この辺全部、富野監督の「体験的な主観に過ぎない」のだ。ともかくここで、「クスィーガンダムはペーネロペーに負けた」と言う結果は、そのまま「次期主力はペーネロペーで行く」事に成ってしまった、そう言う事かもしれない。

「悪魔城ドラキュラ アーケード版」それが売れなかったから、だ。

世間が求めるのは「グラディウスは如何にして創られたか?」それである筈だ。こんな、高校の文化祭にお忍びで発表された、そんな企業の研究成果じゃないのだ。「それは違うのでは」当時のクスィーガンダム側は、疑問を否定した、ほぼ断言に陥った、だからこそ「閃光のハサウェイ」は”そう言う”展開になった訳だが。

ともかく「悪魔城ドラキュラ アーケード版」それは、売れなかった、と言う事実は覆らなかった。

「グラディウスを創った」その感覚は、その事態を当時、受け入れる事が出来なくなっていた、そう言うのはある。

状況は、当時でさえ平等だった。「何が欲しい?」それはその人が目指すモノの問題だ。どっちが?と言うのは今も不明瞭だ、実際今の自分だって、「創れるのならグラディウスを創りたい」訳だが。それは、PCと言う環境を前にしては、ほぼ有り得ない、「メモリ足らないのだけど」それで足せる環境は、”ここ”には当時も無かった。

現実もそうだ。
出来ない事は出来ないのだ。
その上で、目的に到達するルートを目指すのが、リアリティだ。

平成はでも、その決定を無視し、クスィーガンダムを選んでしまった?訳だ。

何もかも、その後遺症ではある。