「内需拡大」が出来れば、基本的には売春、その必要は無い。
ただもちろん、人類史上それに成功した国家、というのも実は無い、かも。
過去のブログ、「因果の果てに山は燃える」をちょっと、更新?というか、補正。5年前?という数字にちょっと驚愕するが、不意に今問題になった「横暴な監督とそれに苦しめられる現場」の、その原理みたいなのが既に5年前にある、というそこに、因縁の深さ、というのはちょっと思う。それでも一応、「メディアは広告代理店に気づいたら支配されている」と言うような、そう言うのを描ける状態になったのは、それでも変化だろうか。
しかしそれだけに、過去の因縁の累積は、ちょっと何を形成してるか解らない、そんな状況でもある。
結果は、物理的でなければ成らない。「そうであるべき!」と言う人々による自腹、といういわゆるカルトの領域、で有っては成らない、訳だが。「大衆は神である」”神”の要求に応える所に利益はある、それを神に、人々に提供していれば経済が破綻するという事は無い、自身の生活も勿論。この時?ここに必ずしも「お金」は存在しない。お金はあくまでも物々交換を容易にする為の道具に過ぎない。大事な事は「価値」その生産とその還元は期待通りに成っているのか?だ。つまり、創作者もまた、”神”にとって必要な物を創造し提供していれば、その生活が破綻する、という事は無い、訳だ、が。
一応、自分の状況は今も、破綻?とも言えない…推奨も出来ないが。
思想の作者として?「責任」は自身に帰ってくる。その領域の「最下層」は耐えられるのか?打開は出来るのか、そう言うのは大事な話だ。問題はその最下層にこそ発生する、そこに発生する問題に、”作者”は対処する必要がある。”神”が「問題ない」と判断するまでは、その作者は最も疑心されるべき存在ではある訳だが。
費やした時間や苦痛と現状は、果たしてではある。
メディアの”感覚”は、少しは変化した、のだろうか?想定ではちょっと変わった可能性がある、或いは今まで「流行っている」と言う物にも、大分か変化が始まる状況、かもしれない。広告代理店から「王」は放逐され大分民主化した、としたら。今までは王に排除されていた人々が今後、テレビに出てくる可能性は結構ある、訳だ。内部はそうなったのだろうか、それはまだ、結果としては解らない。
「中華思想の皇帝はもう存在できない」と、5年前に言っているのだ。
しかし今に至るまでそれは、存在し続けた訳だが。
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