懸念は重い。
「バベルの塔を創る必要は無い」
この断言が、何処まで重いか?ではある。
言うまでも無く、現状の経済に大きな影響を持っているのはユダヤ資本、そこに流れる旧約聖書の倫理観、それではあり、その果てに「相対性理論」その辺も有る訳で。「お金」と言われた時、それが何か?に対して、最も強い発言力を持つのがユダヤ教な訳だ(多分)。そして懸念と言うか、その感覚は、間違いなくか、「”雅”市場」のそれとはかなり違う。そこに最終的に流れるのが、「バベルの塔を創る必要は無い」そこではある。
人類を統一し、そのパワーを結集して、”神へと届く塔”を創らん。
それを目指した王は、神の怒りを受けて自身の力、総力を結集した塔を破壊され、その王国は滅んでしまった。
この故事?に何を見るか?ではある。ともかく今までの経緯でも、”これ”を目指せる可能性が出た時点で、それは破壊?されてしまった感覚は有るのだ、代表的なのがWindows8.1とは言える。スマホからタブレット、PCまでそのIFを統一してしまおう、的なその可能性を見せた時、それは拒絶された。
ただ、現行の「と言う訳でリストラしましょう」それは、”この”倫理観から発生している可能性はある、訳だ。バベルの塔を創る必要は無い、結果、そこに至らねば出来ない事は「最初から否定してる」訳で。「大賀さん」と言うそれは、人類の統一的な「仮想の戦場」として提言されている、が。これもまた、或いはユダヤ資本は否定しているのかもしれない、訳だ。
「神に逆らうんじゃない」
信仰の問題として、「大衆は神である」の神と、ユダヤ教の神と、何処が違う?と言う命題は有るがそれ以前に、ユダヤ教のそれが妄信的な”それ”でしかない時、同じ事を言いつつも「似て非なるモノ」の対立、という構図には成ってしまう訳で。「大衆」と言う、目に見える神様と、「ヤハウェ」と言う正体がハッキリしない存在と、個人的には後者の方に不安はある、が。ユダヤ資本とは結局はそれによって世界を金融的に支配する存在と化している、訳で。
後者の「利益」には、どうも問題の様な物を感じない事も無い。
彼らは、何を利益として認識しているのか?
彼らは戦争を止めようとはしない、その前に逃げてしまうのが”彼ら”ではある。
そしてバベルの塔を否定する時、人類統一を志向する様なモノ、それへは敵意が有るかも。
彼らはキリストを認めていない、と言う。
状況は、変わったのだろうか?
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